板垣信方

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板垣の戦死 について、カピバラ
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板垣 信方(いたがき のぶかた 生年不詳 - 1548年)は、武田信玄の育ての親として知られる戦国武将。信玄の生みの親である、武田信虎を追っ払ったことで有名。武田二十四将で構成される「TKD24」の筆頭で愛称は「がっきー」。甘利真拳元祖と共に、「双璧」なんて呼ばれてたりする。

人物[編集]

生年月日は不明だが、信玄からは「そちを本当の父と思うておる」と言われていた(甲陽軍艦)ことから、実の父である武田信虎と同世代という見解が有力である。漫画などによっては白髪のジジイとして登場することも少なくないことや後述の認知症疑惑から、信虎よりも10歳ほど年上だったのではないかとも考えられている。

信玄の傅役[編集]

信方は武田信玄の傅役、つまり教育係を担当したことで有名である。彼に教育を施された結果、嫡男武田義信を廃嫡したり、共産主義に傾倒した武打信玄という人間の人格が形成されたといっても過言ではない。つまり信方もまた共産主義者であったのだ。

詩の才能[編集]

主・信玄は若い頃、詩に耽溺していた。信方は本来戒めねばならないところを、逆に信玄に影響されて詩の道に没頭してしまい、信玄よりも詩の才覚が優れてしまった。このため信玄は自分に詩の才能がなかったと落ち込み、詩をやめてしまった。その結果、文武に熱中して優秀な武将になった。

共産主義[編集]

共産主義者であったため、資本主義者の信虎とは水と油の関係にあった。信虎は甲斐国内における共産主義者の粛清に踏み切り、板垣にも危険が迫った為、板垣は同じく共産主義者である飯富虎昌と結託、さらに熱心な共産主義者ではなかったが古参の家臣である甘利虎泰を強引に説得して味方にし、クーデターを画策、信虎を追放して武田晴信(信玄)を当主に挿げ替えることに成功したのだ。

信方の方針と活躍[編集]

共産主義政権における独裁者は、しばしば残虐な措置をとることが多い。信方もその例に漏れず、村上義清との戦いでは、村上方の捕虜を残虐な方法で見せしめに処刑したりして示威行動を行った。さらに、この頃になると高齢から認知症を煩っていたと「甲陽軍艦」には書かれており、その記述に従えば、なんと信方は殺した村上方の兵士の首を串刺しにして焼き鳥のように自分で食べたというのである。これには流石の信玄も辟易した。

戦死[編集]

さらに、脳味噌筋肉馬鹿の武将である小笠原長時に不意打ちを喰らって惨敗するなど、合戦面においても失点が目立つようになり、信玄から婉曲的に「ジジイさっさと隠居しろ」と冷たくあしらわれた。義理の息子も同然の信玄からの冷たい仕打ちにショックを受けた信方は、上田原の戦いで、自殺同然にバンザイ突撃を敢行して戦死した。信方のムチャな突撃のせいで陣形は総崩れになり、甘利虎泰が信玄を逃がす為に盾となって討死するなど二次被害も波及する事と成った。

駿河守[編集]

板垣信方の官途は「駿河守」であった。文字通り、駿河国の太守に与えられる主旨の役職である。信方が駿河守を称したのは信玄の家督継承の後で、信玄から与えられた官職だという。甲陽軍艦によると、信玄は「やがて駿河を手に入れた暁には信方に駿河を与える」という名目で彼に駿河守の官職を付与したという。この当時、信玄は駿河を本拠としていた今川義元と同盟を結んでおり、その同盟は後に破られ、信玄は駿河を侵略することとなるのだが、この時点で既に駿河を侵略する意図を持っていたことになる。だが信方はその駿河侵略が現実のものとなるのを見ずに死んでしまった。これを幸と解釈するか、不幸と解釈するかは、後世の人間が勝手にすることである。

板垣退助との関係[編集]

明治時代、自由民権運動という活動を行った事で知られる政治家板垣退助は、板垣信方に私淑しており、「俺の中の英雄は板垣信方とチェ・ゲバラ」だと公言して憚らなかった。[1]そして終には、勝手に板垣信方の子孫を名乗り(実際は乾に改姓した信方の孫の代で信方の血筋は終わってるのだが)、苗字をそれまでの乾から板垣に改めてしまった。

脚注[編集]

  1. ^ チェ・ゲバラは板垣より後の時代の人間だって?そんなこと、誰も気にしない