板倉勝重

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板倉 勝重(いたくら かつしげ、1545年 - 1624年)とは、その功績と人気の殆どを大岡忠相に強奪されてしまい、今では雀の涙ほどの認知度しかない江戸時代初期の奉行。そのせいで某類似サイトでも一時「特に事績が無い人物」と(とある一個人により)判断されて削除依頼にかけられたこともある(流石に依頼者が無知にも程があるんですぐ却下されたが[1])。初代京都所司代として八面六臂の活躍をして膨大な実績を積み上げたのに、あんまりである。

人物[編集]

板倉が武将としてスタートラインに立ったのは37歳と非常に遅い。武家の次男坊として生まれた為、禅宗の寺に預けられ、頭を剃って37歳まで経を唱えながら禅を組んで修行に励み、功徳を積んでいた。ところが、自分を寺にぶち込んだ親父と、自分が出家する原因となった弟が揃って戦場の露と消え、板倉家の名跡が途絶えかけたため、徳川家康によって還俗させられ、武士になった。もしかすると、自分が寺で泣かず飛ばずの人生を歩む原因を作った親父と弟の戦死をざまあみろと思っていたかもしれないが、史料が残存していないので勝重の当時の心境を窺い知ることは出来ない。

そういういきさつを持った人物であった為、本多忠勝榊原康政と言った、生え抜きの三河武士達とは毛色が違った。柔軟性に富み、沈毅で、機転も利く男だったようで、家康も重用した。この頃、徳川家はまだ江戸に左遷されておらず、東海道三国と甲斐信濃を所領としていた。家康は駿府に拠点を移すと、勝重を駿府の町奉行に任命し、城下街の治安維持と控訴の裁決を担当させた。明哲な勝重は駿府町奉行時代から卓越した裁断を下し、名奉行の誉が高かった。こういう優秀な家臣は、押し並べて、当時の天下人であった豊臣秀吉から勧誘される。石川数正ヘッドハンティングされてしまったし、本多忠勝も勧誘されたという。しかし、勝重には勧誘の手は伸びなかったようだ。秀吉に気付かれないほど地味な存在であったことがその理由と思われる。有能な人物であったが、勝重には華がなかった。枯淡とした漆器のような男だった。その地味さゆえ、後世、大岡忠相にいつの間にか手柄を横取りされてしまったのかもしれない。

家康が関東に左遷されると、勝重は江戸町奉行に任命される。駿府時代から引き続き、町奉行を担当したことになる。ここでも、勝重は優秀な手腕を発揮し、江戸の治安維持に貢献した。当時、江戸に限らず関東一円は、後北条氏が抱えていた風魔忍者達が、北条の残党らを糾合して乱行狼藉を繰り返し、治安がかなり悪化していたのだが、勝重は風魔忍者と全面対決し、頭目風魔小太郎を激しい一騎討ちの末討ち取って江戸の、関東に平和をもたらした…という話が『板倉政要』に収録されている。これは流石に潤色だろうが、このような逸話が生まれること自体、板倉が優れた奉行であったことの証左である。板倉の逸話を横取りした大岡忠相のエピソード全般のように、誰か先人のエピソードからスライドされた形跡は見られない。

家康が天下を取ると、勝重は豊富な経験と老練な手腕を買われ、京都の治安を担当する京都所司代に任命され、京都に赴任、京都の治安維持と控訴の裁決に尽力した。板倉は全く賄賂を受け取らず、公正な裁きをしたと言われている。全く賄賂を受け取らなかったことが真実かどうかは判らないが、板倉は賄賂を受領せず、常に公正な裁決を心がけていると思い込んでいる人が大勢いたことは間違いない。だとすれば、板倉は本当に清廉な人間だったか、或いは人に自分を清廉な人間だと思い込ませるのが上手い稀代の詐欺師のどちらかということになる。どちらにせよ傑出した人物であったことは間違いない。

おまけに板倉はユーモアのセンスにも恵まれていたようで、彼と息子の重宗の裁判を集約した『板倉政要』には、板倉が軽妙洒脱なジョークを飛ばして京都の人々を喜ばせたという逸話がいくつか収められている。卓越した裁判官であることに加えアンサイクロペディアンが平伏するほどのユーモアの持ち主、人々の求心力が集まるのも頷ける。おまけに着実に栄達し幕府の中枢に参画でき、京都所司代という大役まで任されており、人生の勝ち組である。戦場で縦横無尽に活躍したが、家康に嫌われ「お前も我が子が可愛いか」などと皮肉を言われて肩身の狭い晩年を過ごした人や、天下泰平の世になるやお払い箱にされ、ふてくされて死ぬ間際「俺は肝が腐って死にますので」などと厭味を家康に言った人とはエライ違いである。

手柄を大岡越前に取られる[編集]

ところが、今日勝重が卓越な手腕で裁いたとされる名裁きは、その殆どが大岡越前がやったということにされている。かの有名な「三方一両損」というのも、もともと板倉の逸話として語られていたものだ。

何故そんなことになってしまったのかというと、大岡忠相の逸話を集約した「大岡政談」という書物が、その殆どのエピソードを板倉政要からコピペ、盗用したためである。大岡政談を編纂した人は後に盗用を指摘されると、板倉が死んでもう100年以上経ってるし、板倉政要も成立してから少なくとも50年は経過しているだろうから著作権法には抵触していない、と弁解し、自分のコピペを正当化した。このコピペは、顕世では大して問題にはならなかったが、冥界で大騒動に発展した。勝重の息子の一人で、島原の乱に大将として出陣し突撃を敢行して戦死した板倉重昌が、自分の親父の手柄がいつの間にか大岡越前のものになっていることに激怒し、大岡越前並びに大岡政談の筆者を、閻魔大王に訴えたのである。裁判の結果がどうなったのかはよく分かっていないが、板倉から横取りされた大岡越前の手柄が未だに大岡の手柄として広く認識されていることを鑑みると、重昌の訴えは棄却されたものと思われる。

脚注[編集]

  1. ^ ちなみにその依頼者は、青山忠成(江戸初期の閣僚)・鳥居忠政鳥居元忠の息子で山形藩主)・大久保忠世徳川十六神将の一人で大久保忠隣の父)・大久保忠佐(徳川十六神将の一人で沼津藩主)・細川頼春(阿波・備後・越前の守護大名で細川頼之の父)・細川和氏(室町幕府初期の閣僚)などの武将や、杉浦直樹櫻井孝宏羽村京子大木正司飯野おさみ仲村秀生服巻浩司有馬瑞香茉雪ちづる松田重治槇大輔林玉緒恒松あゆみ櫻井浩美河相我聞牛山茂椎橋重雨宮かずみ天地総子あずさ欣平といった俳優・声優記事など、とにかく「主観的に見て、特に事績の無い(と思った)人物」(注:実際には事績はあるが、単にそれぞれの記事がスタブ状態であっただけで、依頼者がその事績について全くの無知だっただけであるが…)を次々に削除依頼にかけては却下されていた。