松本図書助

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松本図書助(まつもと ずしょのすけ、生年不詳 - 天正2年5月13日(1574年6月2日))とは、蘆名家の司書を務めた蘆名四天の一人である。

概要[編集]

図書助奮戦の図。どの輔かは不明。

本名は松本氏輔(-うじすけ)であるとして紹介されることが多いものの、実は松本一族で図書助(ずしょのすけ)を拝命した者は松本宗輔(-むねすけ、氏輔の祖父)、松本舜輔(-きよすけ、氏輔の父)、そして氏輔の3人が存在しており、その中で比較的(それでもかなりマイナーな存在であるが)有名であろう氏輔がコーエーの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズでピックアップされただけの話である。代々陸奥国大沼郡(現会津高田町)船岡城主を務め、主家蘆名氏の文書管理を担当する一族であったために「図書助」を拝命したのであった。よく間違われるが、彼らはあくまでも「ずしょのすけ」であって、決して「としょのすけ」でも「としょすけ」でもない事については注意が必要(≒実は逆鱗)である。

松本宗輔[編集]

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生没年不詳。舜輔の父で氏輔の祖父。戸籍法の改正によって詳細データがすべて末梢されてしまったために言い伝えでしかその存在が確認できないようになってしまった。そのため、生まれついての虚言癖誇大妄想に拍車がかかってしまい、かつて猪苗代湖に棲んでいた水龍を退治したのはわしじゃとか、昔は良かったのぉとか、蘆名家の中興を支えた主君・盛氏公を育てたのはわしじゃとか、昔は良かったのぉとか昔は良かったのぉとか、もう好き放題に言いふらしていた。あまりの五月蝿さ鬱陶しさに蘆名史編纂室勤務を命ぜられたが、これが「図書助」号の始まりである。

松本舜輔[編集]

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生没年不詳。宗輔の子で氏輔の父。天文7(1538)年の黒川城下火災で屋敷が全焼してしまった不始末(彼が書庫内で暖をとるために火を焚いたのが火災の原因であった)から「図書助」の称号を剥奪され、同族の庶流(分家=格下)である松本伊豆守輔光(まつもといずのかみ すけみつ)に与えられてしまったことに嫉妬、天文9(1540)年の諏訪神社再建(火災で焼けてしまっていた)に際して彼を暗殺、輔光の署名をその返りで書き上げた。後に「図書助」号を奪回したものの、しょせん単なる意地とメンツの問題に過ぎず、真剣に職務を遂行する気などさらさらなかったのは言うまでもない

松本氏輔[編集]

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生没年は冒頭の通り。舜輔の子で宗輔の孫。武道よりも読書が大好きで、父や祖父と違って「図書助」職を拝命したことに何より誇りを感じていた。元の名前は松本氏興(-うじおき)と言ったが、親族一同から「我ら松本一族は代々『輔』の字を使っているんだから、まったく空気読めこの野郎」と総スカンを食らってしまったために、当てつけの意味を込めて松本輔興(-すけおき)と名乗ったが、今度は主君であった蘆名盛氏に「俺がくれてやった氏の文字が気に入らないのかこの野郎」と睨みつけられたが、涼しい顔で「いえいえ、親族一同皆々様方が『何としても『輔』の字を名乗れ』とうるさくてですね、えぇ」とやり返したため、親族一同は大目玉を食らうのであった。その直後、しれっと松本氏輔に改名しており、まったくとんだタヌキである。その後、田村清顕(たむら きよあき)との戦で戦死するが、その様子について史書(会津旧事雑考)は

五月十三日松本図書安積ニテ戦死

とだけ(文字通り一行である)記しており、よほどつまらない死に方(こういう場合、どうせ流れ矢か何かである)だったのであろうと察せられる

外部リンク[編集]

関連項目[編集]