松本山雅FC

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松本山雅FC(まつもとやまがえふしー)とは筑摩県松本市塩尻市山形村安曇野市を拠点とする世界最大の喫茶店である。収容人数はおよそ2万人。あわせて、決して長野市とは関係がない。あるわけない。まったくない。むしろ、そんな場所は世の中には存在しない。

なお、ここのサポーターは陣取りの強豪であることも有名であるのだけれど、それは、明治時代にとある陣取り合戦に敗北したためである。

前身[編集]

1965年、松本市松本駅前で登山を愛する山下忠一氏が開いた喫茶店、純喫茶山雅が松本山雅の前身である。その後、駅前開発に伴う形で1978年に一度は閉店するものの、この喫茶店を愛する常連たちが、1969年になぜだかサッカーチームを作り、なぜだか喫茶店の名前をチームに掲げた「山雅サッカークラブ」と名乗ったことから、一度は閉店した純喫茶山雅が、サッカーチームとして存続することとなり、1975年、念願の北信越フットボールリーグに加入。

その後、誰が呼んだか地獄の北信越と呼ばれた超絶な激戦区はしかし、このころはまだアマチュアの域をでない、ある意味、牧歌的なリーグであった。

しかし、1997年に長野県サッカー選手権で優勝したことから、優勝してしまったことから、純喫茶山雅改め山雅サッカークラブとチームを取り巻く環境が激変していく。

チラベルトの一言[編集]

そんな長野の山郷の話とは無関係なところで世の中は動いていく。1996年、6年後に開催されるW杯の開催国が日本と韓国になった瞬間に、日本のサッカー界はもとより、その周辺の人々に対して楽しい動きが出てくる。まず喜んだのがJリーグのチームを有した自治体。そこには、試合会場のほか地元のサッカー熱という他にはない強力な誘致材料が存在、ほとんど金をかけずに海外にアピールする環境が整っていた上、さらに、練習場の整備という名目で設備を一新するお金を国からいただけるだなんてタナボタももちろん存在。大きな経済効果が生まれる素地があった。

その次に、Jリーグのチームを有するために動き始めていた自治体。彼らには、6年という準備期間と最新の設備、そして競技場を設置するための動機や地元の基盤が存在していた。さらに、こういった流行に後れてはならじと、日本各地のお金がないけど、どこからか公共事業を引っ張ってきたい自治体が続々と手を上げる中、97年に長野県サッカー選手権大会に初優勝した松本山雅と松本市も、その流れを汲むことになる。

もちろん、元がアマチュアで喫茶店の仲間内でやっていたチームである。20年以上にわたって北信越リーグにしがみついたものの、基本、芝のグラウンドを夢見て自前でゴールを繕い、固い地面の上に白線を引き、さらにはサッカーボールやユニフォーム、試合後の打ち上げも含めてかつかつ予算の中からやりくりしていたチームに、なぜだか、W杯のキャンプ地を招致するため、松本市のサッカー文化どころかスポーツ文化の中心になるという大役が課せられることになる。もっとも、ようは、新しいスタジアムを作るのに、所属チームが無いとどこからかお金が引っ張って来れないから、中央に置く何かが必要になっただけであり、長野県の大会を勝ち抜いて天皇杯に出場したチームがあれば、そらあ神輿としては最高である。

その結果、見事、松本市はW杯のキャンプ地の誘致に成功、すなわち、サッカー専用グラウンドという大変においしい施設の建設費用をゲット。周辺の陸上競技場や球技場、さらには公園なども含める形で2001年5月に長野県松本平広域公園総合球技場、通称アルウィンが完成し、さらには強豪パラグアイのキャンプ地にも選ばれるという幸運の結果、世界的な名選手の一言で世の中が変わるという光景を、松本市民はまざまざと見せ付けられることになる。

というわけで、パラグアイのキャプテンで世界一のゴールキーパーと呼ばれたホセ・ルイス・チラベルト選手が、完成したばかりのアルウィンを見ていったとさ「素晴らしいスタジアムがあるのに、なぜプロのクラブがないんだ?」

彼の一言は、当初は単なる笑い話、しょうがないなあレベルだったのだけれど、その後、日韓W杯が日本中にフィーバーを巻き起こし、各地でサッカーブームが沸き起こる中、彼の一言が重く松本市民の胸に残ることになる。その結果、日本中で盛り上がるサッカーブームに乗りたい市民が一気に動き出し、まず2004年に純喫茶山雅の仲間でやっていたはずのサッカークラブを特定非営利活動法人アルウィン・スポーツ・プロジェクト(略称・ASP)に変身させ、さらに翌2005年に山雅サッカークラブを松本山雅フットボールクラブに変える。なお、その後、大変に紛らわしいと言われ続ける京都サンガFCは当時、京都パープルサンガ名義で、しかもJ1に所属していたため、松本山雅の名前の変更について問題視されることはなかった。

ここまでが一般的に知られている話である。

地獄の北信越時代[編集]

世の中には、一般には知られてはいけない、ドロドロとした何かが下のほうに流れている。そんな、人の世の見てはいけない部分を、なぜだか純喫茶山雅では骨の髄まで堪能することが可能である。なぜだか。

地獄の北信越・裏のまた裏[編集]

いわゆる世の中に伝わっている山雅の成功への道。それは、確かに苦難の道ではあるけれど、誰もが楽しめる話ばかりである。しかし、世の中はそんなものではできていない。

というわけで、これから、巷間に伝わらない方向へと一直線へと走っていく。長く長く走っていく。というわけで、純喫茶山雅に集うサッカー好きの人々の運命を変えた時代に何があったかを考えると、まず、何よりも松本市に不釣合いな日本屈指のサッカーグラウンドを誘致したくなるきっかけが山のように存在するってのがまったく。せっかくなので、それを事細かに、嫌になるほど説明する。

まず、どうしても外せない1990年の話が1つ。この年、長野市を本拠地とする長野エルザサッカークラブが結成される。もちろん、現在の純喫茶山雅の不倶戴天の敵であるAC長野パルセイロの前身となるチームである。もっとも、当初は同じ長野県のサッカーチーム程度の、もしくは近場のライバルぐらいでしかなかった。そんな話はさておいて、そんな長野市で1992年に長野オリンピックという特大イベントが行われた結果、長野県に新幹線を通すレベルでの超々高度な部分における政治的イベント誘致活動の極地、みたいな話が長野県のスポーツの世界を変える。見事に。きれいに。実際、誘致しなかった、新幹線も通らなかった松本市のほうが、スポーツイベントを誘致することで世間のイメージを変えることに気づく。もっとも、祭りの後のそれは、松本市を中心とした諏訪湖周辺地域が、日本の大動脈からきれいに外れた結果、微妙に繁栄から外れたという現実もさることながら、とりあえずは、でかいイベントを行うとそういう話もあることを理解しただけの話である。まだまだ平和。むしろ、オリンピックの後にできた赤字施設に苦しむ長野市と周辺の自治体を見て、軽く引くレベルのまだ理性的な話であった。

事実、オリンピックに長野新幹線とかいう話は、元が総理大臣畑からポコポコ総理を収穫している群馬県側の都合で生まれた話、しょうがない仕方ない。向こうが総理大臣の地元に新幹線の新路線を通したいから長野市とオリンピックをアテ馬にしたことぐらい誰でも分かるため、そんな超巨大理権が絡む路線上に羽田孜の地元が存在したら、そんな話になるのも仕方ないぐらい誰でも分かっていた。

しかし、そんな1993年のJリーグ開幕、日本中がサッカーに沸く中で、松本市と純喫茶松本山雅の運命を変える大きな事件が起こるのもまた世の中というものである。

地獄の北信越・情報の毒ガス[編集]

松本山雅の歴史に絶対に載せられない話。

1994年、一台のトラックがなぜだか松本市北深志の閑静な住宅街にサリンを撒いた結果、わけもわからないまま松本市が地獄に落ちる。その後、日本を震撼させるオウム真理教の一連の事件の端緒ともいえる松本サリン事件が発生したとき、長野県には新幹線やオリンピック、さらには地元出身の総理大臣といった華やかなイメージがあったものの、一瞬にしてその全てが消える。わけもわからないまま、毒ガスのイメージと免罪の悪夢に松本市はもとより長野県全体が長く苦しむことになる。

ちなみに、純喫茶山雅のあったところから3km離れてない。

さて、そんな得体の知れない悪夢に襲われた松本市でしたが、翌1995年に急転直下、オウム真理教に関する一連の事件が解決に向かったことから、ようやく毒ガスの町という話がオウム真理教の被害を受けた悲劇の町へと変わることになったものの、そこから始まる一連のオウム裁判はいつまでも心の傷をえぐり、松本サリン事件の第一報を通報した被害者を1年近くにわたって犯人と決め付けた信濃毎日新聞を初めとする各メディアによる報道被害などもまた、消すに消せない心の傷としてそらあもうそらあもう。じくじく痛むなんてレベルじゃない。

で、そんな悲劇の松本市に、上述の1996年のW杯誘致成功というまさに日本の大転換期が訪れた結果、どうなるでしょう。なお、すでに長野市はオリンピック開催地として世界中に知られています。後、そこに同じ北信越リーグに所属するサッカークラブもあります。ついでに、基本、こういった話は早い者勝ちでメディアにぶち上げたほうが勝利するシステムです。

地獄の北信越・楽しい政治、愉快な政治[編集]

もう1つ、松本市にスタジアムを建てたい切実な理由というものが存在する。なお、松本市以外にもそれこそ、日本中でスタジアムを建てたい病が蔓延するきっかけとなった出来事。それが、1997年、日本経済の転換点となる悲劇、消費税の5%増税である。その結果、日本経済が一気に地獄に叩き落され、個人消費も就職率も氷河期に突入し、つぶれないはずだった銀行や信用組合がばんばんつぶれ、山一證券北海道拓殖銀行、さらには日本長期信用銀行などバブルに踊り踊らされた金融機関が続々と破綻していった中、でかい金を地元で動かせる機会を、全ての自治体が欲していた。

そのため、松本市にとってのそれ及び長野県のマスメディア、さらには長野県の建設業界にとってもサリン事件のイメージを取り払う存在+地元経済の活性化の起爆剤が何としてでも欲しかったというまさに切羽詰ったどころの騒ぎではないレベルで追い込まれており、また、長野県を挙げてのW杯キャンプ地誘致についても先頭を切らないとやばいまずいシャレにならないなんてレベルではなかった。しかも、そんなクソ大事な年に限って、長野市を本拠地としていた長野エルザサッカークラブが北信越リーグに昇格してきたもんだからさあ大変。

こういう楽しい状況は、本来なら政治家を動かしてどうのこうのという話に普通はなるのだけれども、残念なことに、当時、長野県出身の政治家のトップというのが、上田市を地盤とする羽田孜元総理大臣であり、しかも、基本的には長野オリンピックで用済みの存在であったため、政治的なトップを動かしてしゃんしゃんとかいう手段が不可能だった。となれば、後は、もう、ねぇ。

とりあえず、1997年にW杯のキャンプ地誘致活動が始まった結果、長野県という名の公共事業の火薬庫の前で花火をやっていた連中が、今度は火薬庫の中でファイアーダンスを始めたのと同じレベルの騒動になっても、そらあしょうがない仕方ない。最終的に、1997年に行われた第2回長野県サッカー選手権大会に優勝し天皇杯に出場したことで、タナボタに近い形でアルウィンの建設を勝ち取ったのが純喫茶山雅。ちなみに、準優勝は、長野エルザ。あわせて、この長野県サッカー選手権大会というものが、なぜだか1996年に始まった件については考えないことにする。後、第1回優勝チームは長野県上田市を本拠地とし、北信越リーグに昇格したばかりの上田ジェンシャンだったのだけれど、この時期はまだ日本にW杯が来るか来ないかすら微妙な時期での大会だったため、さほど生臭い話ではない。ということにしろ、分かったな。あわせて、羽田元総理のめっちゃ地元である上田市だけれど、まぁ、彼の生まれは東京で、疎開で上田市に来て上田第二中学を卒業した後、高校受験に失敗して東京へ帰ったという話であるため、そういう意味では長野新幹線の上田駅で手一杯、その上、スタジアムまで追加したんでは、利益誘導がひどすぎるといわれるぐらいの立場だった。

もし、田中角栄みたいな利権バンザイ誘導当然、地上げ?裏金?気にするな、とかいう話だったらば、確実に松本市は省かれたような気はしなくないけれど、こういうときに限って、羽田孜元総理の権力の基盤、すなわち新進党が見事に分裂。とてもじゃないけれど、地元に利益を誘導できるような状況ではなかった上、その後のなし崩し的な太陽党の結党や、民生党の旗揚げなど、もはや長野県内の対立に口を出すことすらおこがましいレベルでのゴタゴタが続いた結果、長野県に権力の空白が出来上がり、弱小政治家しかいない長野中部にも、誰かしらから足を引っ張られることの多い利益誘導が可能になる。

けれども第2回長野県サッカー選手権大会で優勝できなかったらば、とてもじゃないけれども、それすらかなわなかった。かもしれない。知らんけど。もっとも、長野市の長野エルザサッカークラブは1997年にようやく北信越に上がったばかりであり、対する上田ジェンシャンも2年目のチームにすぎず、20年以上も北信越リーグで長野県のトップとして戦い続けた純喫茶山雅と両チームとは、地元のサッカー熱において後一歩、もう一歩だけ及ばない状況だった。

ま、1997年の北信越リーグでは長野エルザが4位、上田ジェンシャンが6位、純喫茶山雅が8位だったわけだけれども気にしない

とりあえず、そんなこんなで世の中は激烈な不況の真っ只中でかつオウム裁判の真っ只中、ついでに長野県のマスメディアと警察組織への冤罪に対する激烈な批判の真っ最中、国政では羽田元総理が泣きたくなるような醜態をさらしまくりだったけれども、これでようやく、松本市は負のイメージから抜け出るきっかけを手に入れることになる。後、長野県のメディアもようやく、県民の心を振るわせることにできる素材を手に入れたわけだけれども、残念なことに当然なことに、長野第二の都市松本への公共事業の集中が、長野県の県庁所在地である長野市の反感を買わないわけがない。それもこれも調整役の羽田元総理のせいだと思うけれど、こういうとき、2ヶ月しか総理の椅子に座れなかった政治家という存在は、本当に始末に終えない。

地獄の北信越・コノウラミハラサデオクベキカ[編集]

とりあえず、使えない政治家と、不運な事件、そしてマスメディアや警察組織への不信が渦巻く長野県に、なぜだか日本最高のサッカースタジアムと世界のトップチームを誘致することになったのもつかの間、新幹線とオリンピックの話はさておき、微妙に公共事業費をもらえなかった長野市中心のJリーグファンが、今度は、自分たちの思いを地元のサッカーチームに込めるのもしょうがないしょうがない。

それぐらい、不況の際の人間関係ってのは重く、個人の思いをチームに託する気持ちは切ない。

後、一応言っておくけれど、これはアンサイクロペディアの駄法螺だからな。信じるな、お願いだから。

しかも、そういう忙しい時期に限って、なぜだか、新潟でプロサッカーチームアルビレックス新潟が出来上がり、1996年と97年の北信越リーグを連覇、JFLではなくJ2へ一足飛び駆け上がったおかげで、その後、JFLで長く苦しむ2チームを尻目に、日本のスポーツシーンが新潟を中心に変わっていく変わってしまう寸前の1998年ぐらいまでは、純喫茶山雅と長野エルザサッカークラブは、ある意味、牧歌的なライバル関係を維持していたのだけれども、そして始まる2002年のW杯までの熱狂がよくなかった。本当に、よくなかった。

というのも、W杯のキャンプ誘致合戦で松本市が勝利した結果、2001年にアルウィンが完成、パラグアイのキャンプと一緒に松本サリン事件が過去のものとなり、松本市といえば、地域リーグなのに日本最高のスタジアムという、ある種、不釣合いな状況が出来上がろうとする中で、北信越リーグでも大きな、とても大きな動きが出てくる。まぁ、その、なんだ。1999年に長野エルザが北信越1部から2部へ降格。それも、ブービーが山雅、最下位が長野エルザという時点でもう。翌2000年にすぐさま1部へ昇格するものの、だいたいこの当たりでいろいろと地域間の感情に殺意が混じることとなる。

実際、アルウィンが出来上がって以降、長野県のマスメディアも過去の罪を払拭するがごとくに松本押しを慣行。その結果、どこぞのアルビレックスと同じように、まず地元民が最高のサッカー場でサッカーを楽しむと同時に、メディアに地元チームが登場する喜びを覚えていく。しかも、同じリーグに同じ県のチームが2つあるにも関わらず、見栄えという意味ではほぼ優先的に。しかも、エルザにとっては長野県の県庁所在地であるにも関わらず、ジェンシャンにとっては元総理の地元であるにも関わらず、第二の都市の松本へ集中的に。ついでに、オリンピックの各施設のおかげで、自治体に施設維持費が重くのしかかり、さらには新幹線の駅ができたおかげで、地元民が東京に金を落とすことを覚えた中で。

その結果、長野エルザが2002年に北信越リーグを優勝するのも無理はない。後、2003年に純喫茶山雅が北信越2部に落ちるのも仕方ない。ちなみに、長野エルザは2位、上田ジェンシャンが3位。それぐらい、目の前に絶対勝ちたいやつがいるという状況は、選手にとっても自治体にとっても関係者にとっても大きな力につながるわけで。けれども、そうはゆうても、こっちだってそうせなしゃーないんじゃぼけえ、という純喫茶山雅もまた、オリンピックと新幹線と、大動脈から外れた場所に位置する思いをぶつけるには十分すぎるほど十分なわけで、そんな平成の大不況下における地域間の八つ当たりを隠すために、わざわざ明治時代の長野県と筑摩県の合併問題が持ち出されるってのも悲劇である。まぁ、みんな不況が悪い。

しかも、これがまた、実に北信越リーグというのが、この3チームを交えてさらに地獄地獄地獄のオンパレードという状況になっちまったってのがもう。

地獄の北信越・誰が地獄のふたを開けた[編集]

山雅だ。後、新潟もだ。

というわけで、2002年のW杯の成功の結果、長野県の隣の新潟県で実に楽しい話が巻き起こる。まぁ、詳細はアルビレックス新潟、の最初の部分を見れば分かるとして、ようは、人口が少ない自治体でも、政官民が一体となって、さらにローカルのメディアがバックアップすれば、とんでもない経済効果を地元にもたらすと同時に、とてつもない宣伝効果を挙げられることが分かった瞬間、雨後のタケノコのように自治体のバックアップを伴ったサッカーチームが出来上がっていく。しかも、ザスパ草津のように、弱小であっても、幸運に助けられればJ2に昇格することが可能だと分かった瞬間、多くの自治体、それもサッカーとはほぼ無関係だったところも含めて一斉に動く動く。無論、そのほとんどが金なしサッカー専用グラウンドなしメディアのバックアップなしという状況だったものの、そんな彼らの前に、なぜだか最高級に難しいサッカー専用グラウンド、しかも日本屈指、という施設を有することに成功したサッカークラブがありました。そういう意味で、地獄の釜に点火したアルビレックスと、地獄の釜のふたを開けた純喫茶山雅が、どれぐらいのチームを地獄に引きずり込んだかは推して知るべし。

けれども、そんなタケノコの動きが結果的にその山雅の足を引っ張る。それも激烈に。とんでもないほどに。

というわけで、2006年にようやく北信越2部から返り咲いた純喫茶山雅を待っていたもの、それは北信越フットボールリーグに自治体のバックアップが入ったチームが激増していくという悪夢だった。すなわち、金があるチームが激増するという悲劇だった。その上、人脈を駆使していい選手を上のリーグから連れてくる、さらには地域リーグにはありえないレベルのスポンサーを背中につけるようなチームが出てくる出てくる。実際、アルビレックスの下部組織であるJAPANサッカーカレッジが参入するぐらいならまだ許せるものの、そこにさらに2006年、石川の金沢SCがツエーゲン金沢に改名した時点で、一気に火力が増大。翌2007年には長野エルザがAC長野パルセイロに改名。つまり、長野市のサッカー愛好家を中心としたアマチュアチームという皮をかなぐり捨てて、一気にプロ化、Jを目指すことを表明。この時点で、北信越リーグがおかしくなっていく。後、巻き込まれた上田ジェンシャンが2部に降格する。さらに、2008年にはサウルコス福井までが参入。もはや牧歌的なアマチュアリーグなどという光景はまったく存在しなくなった煉獄、北信越フットボールリーグは、日本中のコアなサッカーファンから地獄の北信越と揶揄されるまでに複雑化することになる。

なお、そういう状況を尻目に、富山県では2007年に北信越リーグの上にあったJFLのYKK APサッカー部アローズ北陸の2チームを合併させてカターレ富山にすることを選択、お先にJ2に駆け上がるものの、残念なことに、地獄を経験しないことがファンやフロントの熟成、もとい、育成につながらなかったせいで、後々苦労することになる。

地獄の北信越・ファンは悲劇と一緒に[編集]

何がいけないって、Jリーグ機構がいけない。後、日本サッカー協会もいけない。何より、JFLへの門番達が一番いけない、というわけで、Jリーグを目指すチームが全国各地に数十チームほど出来上がった中、利にさといJリーグ機構は、J2への昇格条件をとてつもなく厳しいものにすることで、経営基盤の伴わないチームをJFLから上げない方針を鮮明にする。

単純に言うと、貧乏人は去れ

その結果、2011年にAC長野パルセイロに改名したパルセイロがJFLで2位に入ったにも関わらず、J2に上がれないという悲劇が訪れるのだけれども、一番の悲劇は、ただでさえ厳しいJFLへの昇格条件が、とてつもなく厳しくなったところにある。それまで、試合に勝てばいいだけだった世界に、チケット売らなければいけない、スタジアムを整備しなければいけない、駐車場も広げないといけない、グッズ販売の場所やトイレの数、さらにはレディースチームといった様々な昇格条件が付随されることになっていく中、幸いなことに、とてつもなく不運な北信越リーグでは、そういった諸条件をクリアするために必要な時間があった。とんでもないほど。もとい、とてつもないほど。1年で整備できなくても、3年かければ楽勝、とかいう話がそこにあった。しかし、煉獄を回避できて幸運だったはずのカターレ富山は、そういったさまざまな昇格条件の整備を2008年のチーム結成後、わずか1年でやらないといけなかった。その結果、J2への参入にはぎりぎり間に合ったものの、チーム力と周辺の整備に悩まされることになり、J2下位でのた打ち回る中、徐々に地元のサッカー熱が冷えていく。その反面、地獄の北信越のあちいことあちいこと。

こっちは、その、なんだ。たとえ下位でもやつらにさえ負けなければいい、ぐらいでファンもフロントも許してくれるんだから。

結局、地域リーグという金の掛からないリーグでファンとフロントを鍛えた上で、地元企業を開拓、地元の政治家を篭絡、ついでに各試合ごとのボランティアや暇な大学生連中を引っ張ってくるツテの形成など、弱小時代、下部リーグ時代でなければ培えない経験が、その後に生きる。とてつもなく。とんでもないほどに。

まぁ、問題は、いくら周辺の経験を積んだとしても、肝心のJFLに上がれないとなーんもできねえんだけれども。

で、純喫茶山雅もそんな時代が2006年から09年まで続くことになる。地獄の北信越の名は伊達ではない。一応、リーグ自体は2006年に優勝するものの、基本、北信越リーグとは、リーグ戦で魂を消耗しきるのが当然な場所として知られ、JFLへの昇格を決める全国地域サッカーリーグ決勝大会に、優勝チームがことごとく敗北。富山以外の北信越のチームはJ2どころかJFLにさえ行かない行けない時代が長く続くことになる。

もっとも、そのおかげでぶっ殺してやりたい0円移籍やてめえら人間じゃねえと揶揄される巨大資本による無体な引き抜き、さらには、おい馬鹿やめろやめてくれという欧州への移籍、ついでに2006年のドイツW杯惨敗による観客数減少の影響を最小限に抑えこむことにも成功。全国的なサッカー人気の低下の中でも、JFLに純喫茶山雅とAC長野パルセイロの遺恨の維持を持ち越せたことが、後の観客動員にどれだけ寄与したやら。こういうとき、東京を中心としたマスメディアではない、ローカルテレビ局の情報量はバカにならない。本当に、バカにならない。

けれど、残念なことに、この2チームから一歩遅れをとった上田ジェンシャンは、2008年に北信越2部で優勝するものの、その後、綿々とつづられることになる長野と松本の対立の物語からは除外されることになり、その後は北信越リーグの1部と2部を行ったりきたりという一介のアマチュアクラブへと落ち着いてしまう。これは、メディアにとって元総理大臣の地元というものは、いろいろなしがらみがあるため、どうしても足が遠のくという話と、さらに、そこに落ち目の元総理という話が付随すると、なおさら足が遠のくという話があるため、かどうかは知らない。興味ない。けれど、弱小政治家ほどサッカー場に引っ張ってこれる上、様々な企業の協賛を受ける際の後ろ盾が得やすくなることを考えると、元総理大臣という立場がいかにコネの獲得を阻害したかは容易に分かる。

最終的に、純喫茶山雅は2009年にJFLへの昇格を決める第33回全国地域サッカーリーグ決勝大会で予選リーグを3戦3勝、決勝ラウンドを2勝1分(PK戦では敗れる)という文句のない成績で突破することに成功。地獄の北信越から一歩先へと抜け出したころには、日本のサッカーリーグもしっかりと移籍のルールやユースチームの整備システム、さらにはチケットの販売網の整備、何よりもリーグシステム自体が洗練されており、それに伴う形で喫茶山雅の従業員も固定客たちも大きな経験を手にしていく。逆に、一足飛びにJ2へ昇格したはずのカターレ富山が、J2下位で地獄を見ていた。そして始まるJリーグクラブライセンス制度の中、一足飛びにJ2に上がったチームが軒並み経営面で悪夢を見る中、地獄の北信越を経験した各チームは、スポンサーやら政治面、メディア戦略に地元企業との連携など、下部リーグだったからこそ安く長く行えることのできる確かな根を張っていた。

まぁ、そうしないとあいつらに勝てないんだからしょうがない

地獄の北信越・クラシコ [編集]

2010年。地獄の北信越のフィナーレを飾るにふさわしい映像作品が、世の中に啓上される。それが、樋本淳監督による長編サッカードキュメンタリー映画「クラシコ」である。2009年のAC長野パルセイロと純喫茶山雅に密着したこの作品は、まず、この2つの地域の対立の始まりを明治9年に発生した筑摩県と長野県の因縁によるものと語り、本来であれば長野県の中心に位置する筑摩県と松本市が信州の中心地になるはずだったのに、明治9年に起こった筑摩県庁への放火事件の結果、長野市へ堅調所在地が移されたことを事細かに説明。その上で、それぞれのファンがいかに地元を愛しているか、地元のチームを愛しているかを主軸に、地獄の北信越で1年間この2チームが戦っていく様子を描いている。とくに、信州ダービーと呼ばれる2チームの戦いについては、日本におけるクラシコ、すなわちナショナルダービーはこの戦いしかないとまで断言。

いや、気持ちは分かるけど地域リーグだから、うん。という話はおいておく。

とまあ、これぐらいだったらばまだ、新人監督によるカルトムービーぐらいの話であったのだけれども、こういう作品を撮影した年に限って、優勝しちまうんだ、山雅が。昇格しちまうんだ、山雅が。というわけで、なんと、この映画は2010年に公開された後も延々と各地の映画館で上映され続けており、2015年現在も普通に上映中。まぁ、確かに、なして松本がJ1に昇格したかについては、ファンの熱気で理解できる。けれども、その反面、どうも映像からはパルセイロファンの姿が見られないなどという話もある。まぁ、こればっかりは仕方ない。世の中は判官びいきで出来ている。

後、上田ジェンシャンは泣いていい。映画に出てるけれども泣いていい。

あわせて、この映画のせいで松本と長野の対立は明治時代まで遡ると半ば公式とされるわけだけれども、どう考えても平成の大不況が原因です。まぁ、見てて面白いから深くは突っ込まないけれども。

JFL時代[編集]

2009年に無限地獄の北信越リーグから抜け出すことに成功した純喫茶山雅。しかし、そこで待っていたものは、2006年のドイツW杯で惨敗して以来迷走する日本サッカー協会の縮図のような世界だった。おかしい、松本だとこんなにもサッカー熱が残っているのに、どうして世の中は覚めているのだろう。

分かりやすくいうと、カネがかかるからである、金が。というわけで、世の中はリーマンショック以降の長期不況時代に突入。しかも、そこに日本史上最悪の民主党政権による悪夢の3年間が待っていた中では、どうやってもサッカーでも市場経済でも景気のいい話、浮ついた話なんてものは存在しなかった。わけではなかった。というのも、あわれ地獄の北信越でぐつぐつと煮られる35年間、しかも最後の10年は強火の状態で沸騰しまくっていた純喫茶山雅にとって、その程度の不運も不幸も特に問題はなかった。ついでに、本当の地獄ってのは、わけのわからぬ罪を警察がマスメディアがそして日本中が勝手に個人に押し付けようと1年以上にわたってあることないことでっち上げ続けただの、東日本大震災のときに菅直人が総理大臣だの、10年間で震度6以上の地震を3回、時間あたり100mmを越す豪雨1回、自衛隊を呼ぶような豪雪1回といった地方に住み続けるといっただのという形で、どこにでもある。珍しくもない。

そこでサッカーを楽しむことぐらい、どうということはない。まぁ、サッカー自体がそういった地獄であることは認める。

松田直樹の悲劇[編集]

2011年。地獄への耐性を持つ純喫茶山雅を、さらに深い地獄へと突き落とす悲劇が襲い掛かる。いや、正確にいうと、一度落ちた地獄を思い出してしまう場所へまた落ちてしまう。それは、2010年に日本全国が不況に苦しむ中で、1人のサッカー選手が横浜・F・マリノスから解雇に近い形での退団に踏み切ったことから始まる。

その選手の名は松田直樹。日本代表不動のディフェンダーとしてその名をとどろかせた松田選手が純喫茶山雅に来た理由は、日本屈指のスタジアムと地獄の釜の中でグラグラと煮えたぎった熱いファンの存在。そして、手厚い地域のサポートに加えて、そんなチームが元日本代表に獲得の打診をするという暴挙であったとされる。もっとも、いくら知名度が抜群で日本代表の元DFであっても、基本、選手のほとんどはJFLに上がりたてのペーペーであり、2010年はそれでも7位と躍進したものの、そんな微妙なDFラインに日本代表の大物をいきなり放り込んだら、混乱しても仕方がない。しかも、2010年に膝の手術をしている時点で、全盛期の実力とはかけ離れている状況である。そのため、2011年の山雅は序盤から低迷。6月に当時の吉澤英生監督を解任し、急遽、加藤善之ゼネラルマネージャーが指揮を執る時点でやっばいなんてもんじゃない。

もちろん、原因の一つは松田選手の加入にある。急造のDFラインというものは、たとえ日本屈指の松田選手が加入したとて、慣れるまでには時間がかかる。けれど、それ以外の純喫茶山雅低迷の原因もいっぱいある。特に、2011年3月11日に起こった東日本大震災の影に隠れて長野県でもしゃれにならない地震が発生しており、3月12日の栄村大震災や6月30日の長野県中部地震など、死者を出すような災害が起こり続けた中で、JFLのリーグスケジュールはぐっちゃぐちゃ。3月に開幕するはずが、1ヶ月以上も試合が出来ない状況が続く中でモチベーションを保つのは相当難しく、4月23日にようやく開幕するものの、さらに2ヵ月後の6月30日には松本市を震度5強の地震が直撃するんだから、日本中の多くの地域、多くの人にとって、もはやサッカーどころの騒ぎではない。気もそぞろになるのも仕方ない。何よりも、被災地でサッカーをやるというのは、いろいろと難しい。さらに6月30日の地震は、松本市周辺のスポーツ施設のスケジュールへも大きな影響を与えてしまい、それが巡り巡って悲劇へとつながることになる。

なお、調べれば調べるほど信じられない話ばかり数多く出てくるのが世の中というもので、実は2011年はJ1では全チームに対して所属選手の心臓の検査を義務付けており、それまで海外リーグで頻発した選手の突然死を防ぐためにリーグをあげて動き始めていた中、するりと指先から抜け落ちてしまう。

2011年8月4日木曜日午後1時6分[編集]

2011年8月2日。この日、純喫茶山雅は松本市にある梓川ふるさと公園で練習を行う。本来であれば、松本市内にある松本市サッカー場で練習を行っていたわけだけれども、この日は施設を借りることが出来なかったため、山間にある多目的グラウンドで練習を行うことになる。無論、そんな話はJFLのチームにとっては当たり前で、J2チームでも練習場の確保が難しいなんてことも多々あった中、別にどうってことのない話であった、このときまでは。

けれども。この日、9時42分から始まった練習では、最初に3kmのランニングが行われ、終了直後の9時58分に選手とトレーナーで脈拍を測りながらのクールダウンとストレッチを行っている中、松田選手が急に体調不良を訴えて昏倒。急遽、救急車を呼ぶことになるものの、山の中の多目的グラウンドという場所が災いし、到着まで10分以上もかかってしまう。その間、見学していたサポーターの中にいた看護士が心臓マッサージおよび人工呼吸を繰り返すものの容態はますます悪化していき、最終的に松本市内にある信州大学付属病院に搬送されたのが10時50分、梓川ふるさと公園で倒れてから52分が経過していた。その後、即座に集中治療室へと運び込まれ、人工心肺を装着されることとなる。

病名は急性心筋梗塞。まさに、Jリーグが選手の命に関わるとして対応し始めた矢先の悲劇だった。あわせて、普段練習していた松本市サッカー場は、松本空港のすぐ側にあり、交通機関のアクセスが整備されていた上、病院もすぐ側にあった中。

そして、8月4日13時6分に松田直樹選手は天に召される。享年34歳。

その後、長野県のスポーツ施設にはAED(自動体外式除細動器)が常備されることになる。というのも、心筋梗塞という病気は、一般的には心臓周辺の血管がつまることで心臓が止まるという単純な病気ではなく、心臓に血液が供給されなくなった結果、心臓が不整脈や心室細動を起こしやすくなり、そこから命の危険を伴うという話になる。そのため、あの日、もしAEDがもしあれば、という話はまったくもって事実である。ただし、地震の影響で試合のスケジュールが狂って1ヶ月半も実戦を行わない環境の中、ようやくリーグが再開したと思ったら、さらにもう1回地震が発生したせいでAEDが常備されているグラウンドが使用できずに、AEDの無いグラウンドでの練習をせざるをえなくなった中で、世界中のサッカー選手の中で数人しか発症しなかった心臓の病気を発症する時点で、何かがおかしいどころの騒ぎではない。

このように、純喫茶山雅には、書いてるほうが理解できない歴史的事実がある。それも、けっこーある。

簡単な戦績[編集]

  • 2010年 後期第2節以降11試合負けなしを記録。一時は5位まで浮上したが最終順位は7位。なお、AC長野パルセイロが地獄の北信越を無敗で優勝、その上、全国地域サッカーリーグ決勝大会も準優勝してJFLに昇格しましたが、何が彼らをそこまで盛り立てたかは謎です。
  • 2011年 3月11日に日本が一瞬にして変わった年。その悲劇が巡り巡って、1人のサッカー選手の命にまで影響を及ぼすことになる。すなわち、東日本大震災によってスケジュールがめちゃくちゃになってしまった余波の中、ハードな日程とそれに伴う練習場の確保が難しくなった結果、8月2日、純喫茶山雅にとって最高の従業員だった松田直樹選手が心筋梗塞で倒れ、2日後の8月4日に死去。けど、まぁ、あれだ。悲しい話だけれど、こういうとき、1度でも人の世の底を見ていると建て直しが早いんだ。その結果、8月7日の試合は敗れるものの、その後、公式戦5連勝。最終的に、JFLで4位にすべりこんでシーズン終了。なお、この年、AC長野パルセイロは山雅の上を行く2位でシーズンを終えたものの、残念なことにスタジアムの規格が足りなかった。そのため、4位の松本が12月にJリーグへの入会が承認されることとなり、、2012年シーズンからのJ2加入が決定した。この年の天皇杯は後述の事。

哀愁のバクチメガネ時代[編集]

2012年1月6日、純喫茶山雅の運命を変える雇われマスターが、湘南ベルマーレからやってくる。元北京五輪男子サッカー監督で、戦力的に厳しいアルビレックス新潟と湘南ベルマーレをJ1に昇格させた名将反町康治監督が、なぜJ2に昇格したばかりの松本にやってきたかは謎である。ということにしたいのだけれど、残念ながら本人の資質が50%である。それに加えるところの、前年度、松田直樹選手の死から奇跡の昇格までいきついた天運と、サッカー後進地域の長野にふってわいたような熱狂という地運、さらには、長野県に根付いている地域医療の精神、ではなく、佐久市を中心とした、地方自治体には珍しいレベルでの高度な医療体制、すなわちスポーツ医学の発達度という人運がプラスされた結果、実は純喫茶山雅には、他のJ2クラブにはない魅力が一杯だったことが、J1屈指のギャンブラーを引き寄せた可能性が高い。

具体的に言うと、足りない戦力で上位のクラブをひっくりこかすことに至上の喜びを見出すようなばくち打ちにとっては、最高の環境だった。

あわせて、30代にしてスポーツの不毛の地であった新潟を日本屈指の熱いサポーターのいる土地に変え、実力も知名度も足りないといわれた北京五輪サッカー予選を見事勝ち上がり、さらには2009年には古巣のベルマーレに最高の恩返しを果たしたように、戦力的に厳しい3つのチームをJ1、もしくはオリンピックへと昇格させた反町監督には、怪我人さえいなければ、もしくはチーム事情よりも個人の考えを優先するような選手さえいなければ、上のレベルでもぼちぼちやれるレベルの実力が備わっており、中でも相手チームのスカウティング能力は天下一品、穴のあるチームを戦術で負かすことに定評があるどころの騒ぎではない。けれど、そうではない場合、特に2010年の湘南も2011年の湘南の場合、怪我人さえいなければ、ぼちぼちやれていたはずだった。もしくは、怪我人を少なくさせる体制を整えてさえいれば、J1残留も、3度目となるJ1昇格も十分ありえたはずだったのに、残念ながらそうはならなかった結果、惜しまれながら湘南を去ることになる。

しかし、そんな悲劇の監督の元に、地域医療の質バッチリ、その上、松田選手の事故の結果、クラブを挙げて選手のメディカルのサポートに尽くします、という変貌を遂げたチームからオファーが届いたことで、駅前にあった登山愛好家たちのための純喫茶山雅が、2万人収容の世界一の喫茶店へと変わることになる。

簡単な戦績・J2時代[編集]

  • 2012年 前年JFL4位のチームがいきなりJリーグに参加するのでは北九州が経験したアレの二の舞になるのでは...と心配されるもなんのその。参入初年度で勝ち越しを記録。12位でシーズンを終える。前年度の天皇杯では多くの波乱を起こしたものの、この年は初戦負けを喫する。
  • 2013年 最終節までプレーオフ圏内を争ったものの、V・ファーレン長崎には及ばず7位でフィニッシュ。
  • 2014年 FW船山貴之が爆発。開幕戦ハットトリックを含めた19ゴールを記録。チームも着々と勝ち点を積み重ね、プレーオフ圏内の目標を大きく上回る自動昇格圏内2位でシーズンを終える。(ジュビロ磐田の失速が無かったら危なかったが誰も気にしない )後、選手の怪我を地域で支えることのないチームが選手の怪我で昇格を逃しただけの話である。

実に簡単な悲劇・J1時代[編集]

  • 2015年 え...イヤ...まさか...J1昇格の立役者と言っても過言じゃないのに...

船山、


移籍。

ましてや移籍先である川崎では出場機会が与えられているとも言えず、疑問の残る移籍となってしまった。

もっとも、開幕戦で名古屋相手にJ1初の勝ち点を獲得。3節清水エスパルス戦でJ1初勝利を記録しており、とりあえずは、他のJ1チームのレギュラーに怪我人が続出してくれれば、反町監督の言う15位以内も可能である、かもしれない。

世の中はそんなに甘くない[編集]

2015年11月7日、J1第33節。アウェイで行われたヴィッセル神戸戦にて純喫茶山雅の1年が静かに終了する。この試合が始まる前の段階で、降格圏である16位の山雅と残留を争う15位のアルビレックス新潟との勝ち点差は6、得失点差は8というほぼ絶望的な状況の中、わずかに残った望みもまた、後半48分にヴィッセルのストライカー、ペドロ・ジュニオール選手のシュートによって潰えることになる。

しかし、多くのJリーグ関係者の衆目が一致するところでは、あの財政およびあの選手層の中で、山雅はよくやったという話であり、むしろJリーグ関係者一同が満場一致で2015年のダメチームナンバー1に掲げる清水エスパルスと比べると、2016年に向けたチーム作り及び組織作りに関する姿勢が、天と地の差どころの騒ぎではない。実際、降格が確定した直後、チームは早々に反町康治監督の姿勢を支持。16年度に向けての監督続投を呼びかけると同時に、地元関係者及びメディアもまたファンの慰撫に勤め、おおよそ降格による混乱もないまま、13日に反町監督がチームからの続投要請を受諾。粛々と2015年の最終節を前に2016年のシーズンがスタートする。

とりあえず、フロントと選手、ファン、地元メディアおよびサッカー関係者が見事にばらっばらばらばらになった清水と比較すると、いかに一体感が大きいかが分かる。けれども、だとしても、J2は魔境である。2016年がどうなるかは誰にも分からない。

まぁ、地獄の北信越よりはぬるいけどな。

後半47分[編集]

2016年、J2に降格した純喫茶山雅は、開幕当初から前年度J1で16位という実力を見せ付けるかのようにJ2を勝ち進み、同じくJ1昇格の常連であるコンサドーレ札幌と一緒にほぼJ1自動昇格圏である2位は確実であると思われていた。しかし、好事魔多し。10月8日、よりにもよって松本ユースに所属する18歳の少年が強姦事件をやらかした上、その発表が遅れに遅れるという大失態をかました結果、なんと、J1最終節直前の4日前、11月16日にしっかりとメディアにすっぱ抜かれる時点でやばい。同時に、こういうときに限って、これまたJ1昇格の達人である小林伸二監督率いる清水エスパルスが終盤になって8連勝とかいう離れ業をかまして山雅を猛追。前節、町田ゼルビアに敗北した松本を得失点差で逆転、2位に躍り出るという超絶に熱い展開が繰り広げられる。

そして迎えた最終節。松本は難敵横浜FCをシーソーゲームで下すものの、悲しいことにエスパルスもまた徳島ヴォルティスに勝利。およそ9ヶ月に及ぶ山雅の長い長い戦い大逆転で3位となってしまい、次のステージである昇格プレーオフへと移ることになるのだけれども、うん、まぁ、なんだ。

プレーオフの初戦、ファジアーノ岡山に1-2で敗北。それも後半47分。後数十秒守れば勝てる状況の中で、赤嶺真吾に決められ、松本の2016年は終了する。とりあえず、簡単にこの悲劇の原因を推理すると、チームの結束力やファンの応援を激減させるという点で、ユースとはいえども所属選手の犯罪と、チームからの発表の遅れが重く重く大事な試合に影響を残したことは間違いなく、ある意味において、全Jリーグ所属チームにとっての大きな教訓になる話である。そして、被害女性のことを思えばJ2残留もまた致し方ないのが悲しすぎる。

あわせて、信濃毎日新聞が11月4日に「松本山雅J1昇格特別記念セット」の販売を公表した件については関係ないはずである。Vやねんとかいうものとは違うと思われる。

天皇杯での大躍進[編集]

その壱(2009年)[編集]

1回戦でFC刈谷に勝利した松本は、2回戦で浦和レッズと対戦する。J1相手にも関わらず何故かホーム・アルウィンでの開催。浦和サポも容赦なく松本に駆けつけ、当時地域リーグだった松本山雅には味わったことのない異様な空気での試合となった。

松本山雅FC2-0浦和レッズ

....ええええええええ!?J1相手に複数得点?しかも完封!? ...そう、この試合松本山雅FCが勝利する。確かに松本の戦い方は非常に素晴らしかった。素晴らしかったんだけどもそれ以上に浦和レッズがお察し下さい

その弐(2011年)[編集]

1回戦では丸安フェニックスに難なく勝利。続く2回戦はJ1じゃない方の横浜との対戦。この試合も2009年同様何故かアルウィンでの開催。

松本山雅FC2-0横浜FC ...またJリーグのチームに勝っちまった...しかし3回戦はJ1が相手、しかもアウェイだ...

松本山雅FC1-0アルビレックス新潟 ...また完封勝利!しかもアウェイの地で!...JFLがこんな勝ち進んでいいのかよ...

4回戦では同年8月に亡くなった松田直樹氏が長年在籍した横浜F・マリノスとの対戦が奇跡的に実現する。結果は松本山雅FC0-4横浜F・マリノスと実力差を見せつけられる形となったが、試合終了後には両チームから大きな拍手が与えられた。

愛称[編集]

ライチョウを意味する「ターミガンズ(英語: Ptarmigans)」であるが山雅サポ以外には知られていない。

マスコット[編集]

クラブマスコットはガンズくん。ガッツ星人ではありません。大変によく似ていますが、ウルトラセブンを夕日の中、十字架にかけるようなことはいたしません。愛称同様ライチョウをモチーフとしたマスコットです。

ちなみに、ライチョウは高い場所でないと生きていけません。

マスコットその2[編集]

2012年より松本山雅では、試合後に第二のマスコット哀愁のバクチメガネこと、反町康治監督がマイクパフォーマンスを繰り広げることで知られている。なお、Jリーグのマスコット界の中でも最高のスカウティング能力を持っているとされており、無名かつ給料の安い選手への指導力は天下一品。その上、サッカー熱の低い田舎のじっさまやばっさまを盛り上げる腕前に関しては神がかっているどころの騒ぎではない。そのため、スポンサーに地元企業を引っ張ってくる際にも大きな武器となっており、一時は協会のトップまでの道ができていたのだけれども、残念なことに、最高の舞台で最高の選手を集めて最高の試合をやらせようとすると、うーーーーーーーん。もしくは、いい成績を残しても地元の盛り上がりに欠けるようだと、さらに、うーーーーーーーーーーーむ。

実際、弱小チームの指導歴が長い分、どうしても上からの支持という形が強くなるため、本田圭佑選手のような強い個性を相手にすると、あっという間にサラリーマンの悲哀もしくは、中間管理職の悲劇がにじみ出てくる仕組みになっている。これは、熊本県のためならどんな汚れ仕事もいとわないくまもんと似ている。そのため、果たして松田直樹選手を御すことができたかどうか。それは誰にも分からない。

関連項目[編集]

  • 浦和レッズ - ここもサポーターの陣取りの強豪。しかし松本と何かが違う。何かが...

外部リンク[編集]