東京明治天皇

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曖昧さ回避 この項目は口に出すのも畏れ多い寅之祐親王陛下について書かれています。穢い心の逆賊・陸奥非道については睦仁をご覧下さい。
「彼こそ私が信奉している人物である!!」
東京明治天皇 について、サッダーム・フセイン
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ウィキペディア専門家気取りたちも「東京明治天皇」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。

明治 天皇(めいじ てんのう)は明治時代の大日本帝国を御統治なさった、後南朝の初代天皇。諱は寅之祐。臣籍降下されてた時点では大室 虎吉(おおむろ とらきち)、大室 寅之祐(おおむろ とらのすけ)と名乗られていた。神武天皇からの流れを汲む亀山天皇の子孫、大覚寺統の血を引き、大日本帝国天皇家の正統なる皇統継承者であらせられ、大日本帝国の臣民をよく導かれた。

本来、明治天皇といえばこの御方しかいないのであるが、京都明治こと睦仁と区別するために新たに京となった東京を頭につけ、東京明治天皇と称する。


明治大聖帝の事績[編集]

明治大聖帝の即位[編集]

幕末の日本は皇統簒奪者である持明院統の不徳者が皇位に就き続けていたため、西欧列強や治安悪化、徳川の悪政に悩まされていた。これを見かねた薩長土肥は本来皇統を継ぐべき大覚寺統の皇族を探した。生まれつき帝王としての風格を備えていた寅之祐親王はもちろんすぐに見つかった。維新政府の寵臣は皇統簒奪者である睦仁を廃し寅之祐親王の即位を促した(王政復古の大号令)。

逆賊の江戸幕府残党は能久を東武天皇と名乗らせ、その後も抵抗を続けた(戊辰戦争)。しかし不徳の君を立てた逆賊は自分の首を絞めることとなり、敵よりも恐ろしい慶喜の愚作に悩まされることとなった。函館の五稜郭にて逆賊はついに明治大聖帝の聖性に触れ、次々と自害した(五稜郭の戦い)。

その後、能久だけは生き恥を晒したが、台湾の最前線に送られながら戦死ではなく病死した。これは天罰であろう。悪は必ず裁かれるのである

明治大聖帝の聖政[編集]

当時は世界情勢が緊迫していたため、明治大聖帝は日本に長い間偽帝がいたことを表沙汰にすると混乱が起きると察し、なんと睦仁からの皇位奪還の事実を隠し自らを睦仁と同一視するよう命じた。明治政府の重臣たちは自らを捨ててまで国を案じた明治大聖帝に深い感銘を受け、男の涙を流したという。しかし祖霊までもないがしろにすることはできず、まず南北朝時代における正統な皇統を南朝こと大覚寺統とし、北朝こと持明院統を廃した。

また、徳川時代の引きこもり政策を厳しく非難し、西欧文化の普及に努めた。この政策を曲解し『とはずがたり』などをもとに本来日本の性文化はもっと開かれたものだったなどと愚論を弄するものがいるが、あれは持明院統の不徳の成せるものである。本来の日本とは慎み深い大和撫子の国であり、久仁後深草院二条どもが異常なのである。

明治大聖帝の聖戦[編集]

非常に相撲好きであった明治大聖帝は、明治24年、ロシアの横綱ニコライ二世と、東アジアの覇権をかけた大決戦を滋賀県大津において行った。いわゆる大津場所である。ここには、明治10年、九州場所で優勝したにもかかわらず朝鮮半島での巡業について上層部と対立したために相撲協会を追放された伝説の大横綱、西郷隆盛も立会人として駆けつけ、行司津田三蔵のもとで行われた。二度の水入り、同体による取り直し、さらに水入りと30分を超える死闘の末、明治大聖帝が勝利された。偽史では「日清・日露戦争によって東アジアにおける日本の権益を拡大した」とされているが、まったくのウソであり、明治大聖帝により一般庶民の犠牲なく決着がなされたのである。


明治大聖帝の遁世[編集]

明治も45年にいたり、大日本帝国臣民を十分に導かれたと察した明治大聖帝はお隠れ遊ばされた。現神であり神仙であらせられる明治大聖帝は単に我々の前から姿を消しただけであり、一般人のように死んだのではない。あろうことか糖尿病を悪化させたなどと風聞を流すものがいるが、国体を乱す極左は不敬罪、治安維持法などで厳しく取り締まるべきであろう。

参考文献[編集]

鹿島昇、『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』、新国民社、1999年、ISBN 4915157849

関連項目[編集]

先代
倭人明治天皇
天皇
東京明治天皇
次代
大正天皇
先代
西陣南帝
大覚寺統(南朝)
東京明治天皇
次代
熊沢天皇