杞憂

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索

杞憂(きゆう)とは、不安や憂慮が人を木に変貌させるという恐るべき怪奇譚である。正しくは「憂いが己を木と変える」と読む。

概要[編集]

日本には古くから人見知りや不安症の人は神経を費やすあまり木になってしまうという民間伝承がある。中でも有名なものは、出間大八(いずまのだいはち)という人見知りの男が、犯罪に巻き込まれるのではないか、自分の身体は病魔に蝕まれていないかと憂慮を重ねた挙句、神経をすり減らして木になってしまうという話である。長らく、何故心配ばかりしていると人間が木になってしまうのか不思議がられていたが、この大八が木になったと言う話は近年の研究により実話である事が明らかになった。奈良県にある貝吹神社には大八の成れの果てである巨木が今もなお屹立している。人が木になってしまうという話は、長らくの間、あれこれ憂慮していても為にならないという訓戒として語り継がれてきた寓話、つまり作り話であると信じられてきたが、大八の話が実話であると立証された以上、憂慮が過ぎると人は木に変わってしまうという話は単なる怪奇譚から恐るべき事実となってしまった。さらに、実際に人が木に変わるところを見たという目撃証言も多数寄せられており、人の面影を残したままの木、つまり人面樹も各地で発見されている。

木になる人[編集]

人見知りの人はよく「きになって仕方がない」と口にするが、自分の身体が徐々に樹木に変容していることに気付いているのだろう、多くが消極的思考の彼らは己の身体が木になってゆくことに恐怖心を抱きつつも、「(自分は)木になっても仕方がない」と諦観しているものと思われる。先述の人面樹はおそらく、未だ人への未練を残したまま木に変貌してゆき、それでも最後まで人間への未練にすがり続けた「人の執念」の成れの果てと思われる。考えただけでも恐ろしい。現在、人が木に変わるというこの現象に対して医学的な対策は皆無に等しく、我々にできる予防策といえば出来る限りポジティブシンキングでいることくらいなのだ。しかしいくらポジティブシンキングを督励するといっても、人の性格は千差万別であり、無論筆者のような心配性もいるわけで、ましてや人が木になるという恐るべき事実を知ってしまった以上どうして心配せずにいられようか。

正しい意味を知らない現代人[編集]

文部科学省の陰謀によって、杞憂とは単に取り越し苦労の意味で使われるようになり、その語源についても、中国の杞国の人がいつ空が落ちてくるかと、常々無意味な心配していたというトンデモなエピソードが捏造され、その言葉の意味は酷く歪曲されてしまった。恐らく、人が木に変わってしまうという恐るべき事実を秘匿し、社会を混乱させないために言葉の意味を穏やかなものに摩り替えたと思われる。いや、文部科学省の判断は正しかった。人が木になるという恐ろしい事実を知ってしまえば、いかにポジティブシンキングで危機意識皆無な人間であろうと恐怖を抱かずにはいられない。そして自分はいつ木になってしまうのか、いやもう木になり始めているのではないかと心配している内に心配のし過ぎで本当に木になってしまうのだ。ああ、どうやら筆者も心配のしすぎで徐々に身体が樹木に変質してきたようだ。そもそも筆者はこの記事を書き始めたときから、NRVを張られるのではないか、いやそれどころか即時削除張られて速攻でゴミ箱行き、そして自分も永久追放されるのではないかと心配でたまらなかったのだ。木になっても仕方がなかったのかもしれない。不幸にもこの記事を閲覧してしまった人は、どうか冗談だと思って軽く聞き流して欲しい、でないと筆者のように木になってしま

この記事を書いていたは木になってしまいました。


「節子!それただの木違いや!」
この記事の執筆者 について、清太

関連項目[編集]