本能寺の変

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本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天下人への道を歩んでいた魔王織田信長が息抜きの為に宿泊した本能寺で、火の不始末による失火(放火説もある)から火災が発生し、近隣にいた信長の腹心である明智光秀が本能寺の異変を察知して真っ先に駆けつけたが時既に遅し、逃げ遅れた信長が死んでしまったという事故である。

概要[編集]

火の不始末によって火災が発生し、本能寺から逃げ遅れた魔王織田信長が焼死した事故である。非常口に壊れた仏像などの荷物を置いて、避難路を塞いだとして本能寺の管理責任者である僧が、消防法違反で京都所司代に斬首された。しかし、「信長は、親子喧嘩の末、プッツンした織田信忠によって斬られ、本能寺の変が起きる前に、妙覚寺において遺体となっていた」という真実は、光秀以外知らない秘密である。

その後、「第一発見者の光秀が犯人ではないか」という巷説が飛び交い、織田家臣達がこれを信じ込んでしまい、逆徒の烙印を押された哀れな光秀は己の潔白を証明する間もなく、中国から素っ裸で舞い戻ってきた豊臣秀吉にボコボコにされ、最期は落武者狩りに竹槍で殺されたとか殺されなかったとか。

後世、天下人、日本の英雄たる信長がそんな呆気ない事故で死ぬことが信じられない日本人達はデマの謀反説を妄信、海北友松など一部の人間が「本能寺の変は事故である」という文献を残しているにもかかわらずこれを抹消し、今では「明智光秀が逆意を抱いて信長を殺した。さらに光秀の裏には黒幕がいる」というデマから生じたトンデモ説が事実としてまかり通っている(歴史の教科書にまで史実として掲載されている)始末である。

なお、井沢元彦の著書「銀魔伝」の中では、信長抹殺を企てた銀魔によって光秀は濡れ衣を着せられたという事になってる(もちろんこれは井沢氏が歴史を元にして書いたフィクションであり、井沢氏は「黒幕などいなかった」と後に結論付けた。しかし井沢氏があくまでフィクションとして書いた説が意外と事実に近いのである)。ほんと、冤罪とは恐ろしい。

ただ、歴史上、家臣が主を殺すという例は稀有というほどではない。世界規模で言えばカエサルなどの支配者が部下の裏切りによって殺され、日本でも室町時代には信長の前世と言われる室町幕府6代将軍足利義教が、突然発狂した赤松満祐にその場で殺される嘉吉の乱という前例がある。しかも、本能寺の変が起こったのは下剋上がまかり通っている乱世であり、決して不可解な事ではない。

にも関わらず、何故かこの事件は衆目を集め、幼稚園児から大学教授などいい歳した大人までが必死こいて真相や黒幕を探り、想像力を働かせ様々な妄想を垂れ流し、不毛な議論を延々と続け、挙句の果てには様々なトンデモ本を出版する(しかもそれを買う奴がいる)という滑稽な現象が起こっている。

今日では、信長が死亡した事故と、信長の死に関してやたらと詮索したがる熱心な人達が後を絶たない不思議な現象も合わせて本能寺の変と呼ぶ。つまり本能寺の変は現在進行で今尚継続している。だが、その誰もが「本能寺から信長の遺体が発見されなかった」、「信長亡き後第六天魔王になれた筈の織田信忠が何故か安土城に撤退しなかった」という重要な事実には、目を背け、日々ネタの作成に勤しんでいる。

経緯[編集]

本能寺の変の様子

1582年天目山武田勝頼を滅ぼし、信長の天下統一も成就の一歩手前まで迫っていた。6月1日、信長はヤスケ森蘭丸ら僅かな手勢を連れて本能寺に立ち寄り、茶会を開いた。だが、茶会に立ち寄った息子の織田信忠と口論となり、親子喧嘩は妙覚寺に着いた後も続いた。頭に血が上った織田信忠は、ただの口喧嘩に刀を取り出し、信長を斬り捨てた。信長は、信忠が冗談で刀を抜いたと考えた為、反応出来なかった。信忠は、家臣や茶会の参加者と相談し、「茶会が長引いたため、信長は一晩本能寺に宿泊した。」ということにした。翌日の未明、口裏を合わせた茶会の参加者の一人が、本能寺に火を点け、信忠が信長の遺体を隠す為の時間稼ぎを行った。

同日、明智光秀羽柴秀吉の中国遠征軍の援軍として丹波亀山城を出、備中へと向かう道中にあった。しかし、桂川を渡り掛けた時、本能寺の辺りの空が赤く染まっているに気が付く。光秀は急遽軍勢を引き返し本能寺へ急行するが、辿り着いた時は既に遅し、本能寺は業火に包まれていた。この時光秀は消火作業をしたともしなかったとも言われているが、いずれにせよ火の手の回りが速く、瞬く間に本能寺は炎上した。光秀は、信長が脱出した形跡を懸命に探したが、発見出来ず、途方に暮れた。その後、光秀は信長の遺体だけでも、焼け跡から発見しようと考え、捜索を継続した。

同刻、信長嫡男、織田信忠が、信長を斬った後になって後悔していた。二条御所に到着したと同時に、信忠は、父信長の遺体などに火を点け、証拠隠滅を図った。しかし、予想外に火の回りが早く、二条御所が炎に包まれた。京都所司代の村井貞勝が鎮火にあたったが、火災を防ぐことに失敗。この火事により信忠と村井貞勝が死亡する。

これら二軒の事件は、偶発的に起こったものであったが、「天下人とその息子が火事によって一度に死亡する」という類を見ない奇怪な大事件に見えた為、噂が好きな堺や京の庶民はこの二軒を関連づけ、噂が噂を呼んだ。結果、第一発見者である光秀に嫌疑がかけられ、ついには「光秀が信長、信忠を殺した」という飛躍した妄想が飛び交うようになる。この噂は瞬く間に全国に喧伝され、さも事実のように言われるようになった。慌てた光秀は無実を証明するべく、安土城にいた信長の正妻、濃姫を訪ねる。元々光秀は斎藤道三に仕えており、その娘である濃姫とも交流がありそのツテを頼ろうとした。

しかし、濃姫は蒲生賢秀の本拠日野に退避し、光秀を門前払いをする。「噂を鵜呑みにして光秀を夫殺しと看做して拒絶した」、あるいは、「厄介事に巻き込まれるのを単に嫌がった」と考えられるが、おそらく後者であろう。仮に、これが事実とすれば、「濃姫はよしみのある光秀を見捨てた何とも薄情な女」ということになるため、司馬遼太郎などは彼女の名誉が損なわれないように本能寺で信長に殉じたと捏造をしている。

光秀は、その後も近衛前久細川藤孝筒井順慶、摂津衆ら与力の大名や交流のある者達に自分の無実を証明してくれるよう頼む。が、濃姫同様に彼らも皆噂を信じ、光秀を無視・拒絶した。蒼白になる光秀だった。

だが、さらに悪いことに、四国の長曾我部元親から光秀に祝辞の文が届けられる。既に四国まで「光秀が信長を殺したというデマ」は、広まっており、元親は、完全に信じ込んでいた。元親は、一度は信長と同盟を結びながら一方的に同盟を破棄されている。光秀は、元親との同盟に尽力したため、元親は「自分の為に信長を裏切って殺してくれたのだ」と勝手に思い込んでいた。庶民の嗅覚は鋭く、元親から祝辞の文が送られた事もたちまち広まり、光秀が信長を殺した、という噂の信憑性に拍車をかける結果となってしまった。光秀は元親から祝辞を受け取った時、思わず「空気読め!」と絶叫したという。

光秀が狼狽している内に羽柴秀吉が備中から神業とも呼べる迅速さで引き返す。所謂中国大返しと呼ばれるこのとんぼ返りは、あまりの手際の良さから秀吉黒幕説を唱える妄想癖の激しい連中もいるが、秀吉は元々過酷な大自然の中で生きてきた野生の猿なのでこの程度造作も無い事である。光秀は秀吉に宛てて自分の身の潔白を訴える書状をしたためた。しかし天下を取る気満々の秀吉は「光秀が無実だろうが知ったこっちゃない。謀反人は死すべし!」と書状を焼き捨てた。かくして光秀は弁解する余地も与えられず山崎で秀吉の軍に一方的に蹴散らされ、敗走途中落武者狩りに殺された。ただ後世の人々からは生き残って南光坊天海になった、あるいは源義経のように大陸に渡ったなどと色々妄想されており、仮想戦記のネタにされている。

出火原因[編集]

何故本能寺から突然火の手が上がり、全焼するほどの大火災となったのか、様々な説が唱えられている。

火遊び説[編集]

延暦寺を焼き討ちするなど、信長は無類の火遊び好きとして知られる。おそらくこの日も天下統一の前祝いなどと称して盛大な火遊びをやったのだろう。その火が扇風機などに煽られて瞬く間に本能寺に燃え広がり、逃げ遅れた信長は落命した。

盛大なオ○ニー説[編集]

一部の歴史的資料では明智光秀はとんでもない変態であったと書き記されており、目撃者である自称第六天魔王(笑)ガキによると、自分の検閲により削除をシゴきながらアへ顔で涎を垂らし奇声を上げていたとのこと。

蘭丸による無理心中[編集]

信長の寵童として知られる森蘭丸だが、信長は蘭丸の下の弟である坊丸、力丸も傍に侍らせていた。蘭丸はこの弟達と信長の関係を巡って敵対関係にあったといわれており、やけっぱちになった蘭丸が無理心中を図り、本能寺に放火した。

黒人ヤスケのタバコの不始末[編集]

宣教師の奴隷として連れて来られたヤスケはヘビー・スモーカーとして有名であった。天正年間には既にスペイン人により煙草が伝来されていたが、まだ日本にはそれ程普及しておらず、灰皿も存在しなかった。そのためヤスケはすい終えた煙草を床などに投げ捨てており、その不始末が元で出火した。或いは寝煙草が原因だったとも。尚、ヤスケは信忠と共に二条御所にいたとも伝えられており、それが正しければ煙草が原因で炎上したのは本能寺ではなく二条御所ということになる。現在はヤスケの煙草が原因で炎上したのは二条御所というのが定説になりつつあるが、ただ信忠も父信長同様火遊びが好きだったので火遊びによる出火の可能性もある。

尚、変の前夜信長は茶会を開いていた、と通説では言われているが、茶会ではなく酒宴を催していた可能性が高い。本能寺で一泊したのもそのまま酔いつぶれて寝てしまったからであろう。泥酔状態なら逃げ遅れて焼け死んでしまったというのも納得がいく。

信長の苦肉の策[編集]

「自ら命を絶つなら」と、若かりし頃から戦にも利用していた屁に信長自ら引火した。詳細は三ええケツを参照。

郷ひろみがゲリラライブ[編集]

郷ひろみと所属事務所が無許可でトレーラーで本能寺に詰め寄り、名曲『GOLD FINGER '99』を歌い始め、炎は摂氏1200度あるのに、

♪ あ~ち~ち~、あ~ち~! 燃えてるんだろ~か~?

とまるで炎に気づいていなかった。信長は部屋の前をトレーラーで塞がれ出られず「是非もナシ」。

謀反と黒幕[編集]

光秀は信長からいじめを受け、積年の恨みが爆発して謀反に及んだ(いじめの原因は光秀がKYであった事が原因だと酷評する歴史家も存在した)、あるいは光秀が野心を起こし天下を取ろうとしたなど、動機に差異はあれど、戦前までは多くの人々が本能寺の変は光秀によるクーデターだと信じて疑わなかった。しかし光秀ほどの教養、分別、地位のある男が(精神的に追い詰められたとしても)社会的リスクを省みずに謀反という無謀な行動に及ぶとはとても考えられない。明らかに突発的な暴挙であり、事後、何ら手立てを講じることなく秀吉に討たれているのもおよそ光秀らしくない。無実の光秀は何も知らず、訳も分からず混乱している内に逆賊扱いされて討たれてしまったというのが実情だろう。流石に戦後になるとマヌケな日本人も疑問視するようになったが、それでも一部の頭の固い連中(例えばこんな人達)は頑なに「信長は謀反によって討たれた」と信じて疑わず、光秀を利用、あるいは謀反を教唆した黒幕がいるという説が提唱されるようになった。秀吉、徳川家康足利義昭長曾我部元親近衛前久千利休イエズス会ラプラスの魔、ロゴス、挙句の果てには朝廷までもが黒幕の槍玉として挙げられ、収拾がつかない状態となっている。今でも尚、誰が黒幕なのか無駄な議論がかわされており、おそらく今後も明確な答えが導き出される事は無いだろう。ここに嘗てアンサイクロペディアで一世を風靡したとあるヒップホップ歌手のありがたい言葉を付記しておく。

「人類の大半は誰が織田信長を殺したかなんて気にしちゃいない。」
本能寺の変 について、カニエ・ウェスト

新説[編集]

最近になって、一人のアンサイクロペディアンによって新説が提唱された。彼曰く、本能寺の変の真の黒幕は桶屋であるというのだ。フローチャート式で説明するとこうなる

本能寺が炎上する
信長が死ぬ
真っ先に現場に駆けつけた光秀が疑われる
無責任な大衆は光秀の反抗と勝手に決め付ける
それを信じ込んだ秀吉が中国大返し、山崎で光秀を討つ。
野心を触発された秀吉は織田家乗っ取りを画策する。
結果、信長の息子達や柴田勝家らと対立、内ゲバが起こる
内紛により無駄な血が流れ多くの命が失われる。
織田家瓦解の為天下統一が遅れる
戦乱が長引き、やはり多くの戦死者が出る
死人を収容する死体桶が必要になる。
桶屋が儲かる。


光秀の動機、真犯人について議論が交わされる
議論は白熱しやがて煽り合いになる。
さらにエスカレートし乱闘に発展する。
野次馬も加わり規模が拡大、日本中で乱闘騒ぎとなる。
多数の死者が出る
死人を収容する桶が必要になる
やっぱり桶屋が儲かる。

信長の死で最も実利を得たものは誰か?桶屋である。信長の死に関する議論が交わされて最も得をするものは誰か?桶屋である。某アンサイクロペディアンはここから逆説的に本能寺の変の真犯人は桶屋であると説いた。

関連項目[編集]