本田圭佑

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本田 圭佑ほんだ けいすけ1986年6月13日~)は、日本大阪郊外で生まれたサッカー選手

2014年現在、イタリアセリエAACミランに在籍。通称は「世界の本田さん」。若かりし頃より、重度のビッグマウスとして知られ、自尊心が非常に強いため、私たちは彼を「△(さんかっけー)」と呼ばねばならない。ただし、サッカー日本代表時には、その脅威の得点力も、自尊心&監督との軋轢から来るチームメイトとの大きな溝、さらには彼にピッタリ張り付くマンマークのせいで、たびたび試合中、フィールド上に存在しなくなる。そんなときは、「(÷)かっこわる」と呼んでやるのが老婆心というものである。

プレー中の本田(左)。エトー(中央)と激しいプレーを演じている。

来歴[編集]

生まれから最初の覚醒まで[編集]

本田△の一族は九州の球磨川流域に根源を持っており、祖父と曽祖父母(祖父の両親)は球磨川流域の村で生まれ育った。祖父・本田満と祖父の弟・本田大三郎は、高度経済成長期に九州から大阪に移住した。この本田△の一族からは多くのアスリートが育っており、中でも父の従兄弟である本田多聞(大三郎の息子)はアマレスのオリンピック代表にしてプロレスリング・ノアの重鎮、さらには、練習嫌いの伝説で多くの人間に知られている。

本田△が生まれた1986年6月13日は、ディエゴ・マラドーナが神の手を使って世界を跪かせた、メキシコWCの真っ最中である。そんな時代背景で生まれ育った本田△も、一族の持つアスリートとしての天分に恵まれていたとみえ、小学2年生から始めたサッカーではあまりパっとせず、中学生時代にガンバ大阪ユースに所属するが、最終的にユース選手になることもできず、実家から遠く離れた金沢の星稜高校に進学した際には、ジュニアユースで全国2位、高校選手権でベスト4程度の戦績しか残すことができなかった。本田(÷)。逆に兄である弘幸はアルゼンチンの名門チームであるリバープレートに留学、アルゼンチンのプロリーグで1年プレーした後、J1である大分に所属する。ことに決まった後、大負傷で引退。当時、名古屋グランパスに練習生としてくっついていた本田(÷)は、この悲劇を境に最初の覚醒を果たす。

その結果、2005年に名古屋と契約後直後からレギュラーとして活躍。北京オリンピックの代表にも選ばれるなど、アスリート一族の名に恥じぬ活躍を見せる。

・・・両方ともチームの成績は聞くな。(÷)

オランダでの活躍[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「VVVフェンロー」の項目を執筆しています。

早くから海外での活躍を公言していた本田さんだったが、北京オリンピック予選での活躍、特にYoutubeで流された2回変化する無回転フリーキックが世界中に衝撃を与える。最も、この時点では特に名もない日本人選手に過ぎなかったけれど、この段階でバクチ好きな若手育成主体のヨーロッパのクラブが動き出したことは本田さんにとって大変幸運だった。

そして、2008年1月にオランダVVVフェンローに移籍。入団会見にて、「車のホンダではありません」とオランダ人もビックリのギャグを放つ。入団早々舌(絶)好調をアピールするも、直後にチームは2部に降格。本田(÷)。さらに、同年6月、満を持して出場した北京オリンピックでは、反町康治監督に対し謀反をおこし、勝手に作戦を変更。日本は1次リーグ全敗という悲劇に見舞われる。そのくせ、試合後本田さんは「上手くできた」とコメント。敗戦にもかかわらず、「なぜ?」と思う人も多いだろうが、本田さんは上手くやったのである。(÷)

しかし、2部リーグに落ちたVVVでは主将に就任、八面六臂の大活躍を見せ、リーグMVPを獲得し、最終的にチームの1部昇格を演出。2度目の覚醒を果たす。さらに、ビッグチームからの誘いをことごとく拒否しチームに残留。VVVサポーターの心をがっちりとつかむことに成功する。本田△

そして、2009年は新シーズン開幕とともにゴールを量産。まさに。しかし、良くも悪くもオランダリーグの格下チームに過ぎないVVVとキャリアのステップアップを望む本田△との間では、シーズン中の移籍はすでに決定事項だった。そして、年明け、2010年の初めに、ロシアの強豪CSKAモスクワへおよそ12億円で移籍。当初、7~8億円を想定していたVVVにとっては破格の数字であり、また、本田△にとっても、同年のチャンピオンズリーグに出場するチームへ所属することは、まさに願ったりかなったりという状況だった。

CSKAモスクワへの移籍[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「PFC CSKAモスクワ」の項目を執筆しています。

ここでもすごい本田さん。移籍直後の練習試合でゴールにアシストを量産。またたく間にチームに溶け込むと早々にレギュラーの座をゲットし、迎えたロシアリーグでもいきなり初戦のロスタイムに勝ち越しゴールをゲット。さらには、念願の舞台であったチャンピオンズリーグでも、スペインの強豪セビージャ戦でいきなり1アシスト1ゴールの大活躍で、チームを8強に導く。おい、ここ、アンサイクロペディアだよな?

この大活躍に、インターネットでは、本田△ではあきたらない。むしろ、本田ではないか、との話もでてきたが、無事、準々決勝でイタリアインテルにボッコボコにされる。その後、ロシアリーグにおいても、なぜか不慣れなボランチに従事。悪くは無いがよくもないという戦績が続く中、いつの間にか本田△という話はなくなっていき、さらにはワールドカップ南アフリカ大会の練習試合でもまるで活躍できず、本田伝説いつの間にか終了・・・と思われていた。

日本代表での活躍[編集]

そんな中、岡田ジャパンが練習試合に1度たりとも勝てないという非常事態が勃発。原因は守備陣の崩壊と得点力不足。端的に言えば中村俊輔シュンスーケ・ナカムーラ。別名、ザル守備の神。そんな中村とポジションがかぶった本田さんは、岡田ジャパンの試行錯誤に巻き込まれる形で、まったく活躍のできないポジションを右往左往することになる。本田(÷)。結局、呼吸して、なおかつ走り回る守備の穴である中村をベンチに閉じ込めることが決定したのはワールドカップ開幕直前。そして、まったく得点できないフォワード陣をなんとかするために岡田監督がとった奇策が、ミッドフィルダーの本田さんをフォワードのポジションに据えることだった。しかも、ワントップ。

しかし、そんなムチャブリに見事答えた本田△。ワールドカップ初戦の日本対カメルーン戦は、本田さんが決めた1点を守りきって見事日本が勝利。逆に言うと、日本のフォワードのことについて、誰も触れるな、ということでもある。その後、格上のオランダ戦では見事に空気化。インテル戦と同じく一流のディフェンダーの前では急造ワントップなぞまったく意味を成さないことを露呈してしまい、1-0で敗北。(÷)。もっとも、どう考えても本田さんが悪いわけではないけれど。

ところがぎっちょん。なななんと、W杯決勝トーナメントを賭けたデンマーク戦で本田さんが大活躍。1ゴール1アシスト、しかもワールドカップではほぼありえない35mものロングフリーキックを決めてしまう。しかも、ダメ押しとなるアシストを絶妙な個人技で演出。もちろん、この大活躍に日本はもとより世界中から大絶賛。一躍、日本一のサッカー選手として世界に認められることになる。本田△

おい、やっぱりここアンサイクロペディアじゃねえって

しかし、この活躍にはもちろん裏がある。基本的に勝つしかなかったデンマークは序盤から攻撃主体でプレイスタイルを組み立てて、高地での試合にも関わらずスタミナ無視で試合に臨んでいた&本田さんの実力を見誤っていた。特に彼の持ち味であるブレ玉のフリーキックへの対応をしていなかった。まぁ、35mはさすがに対応しなくても仕方ないレベルだけれど。また、1点取られた後、急遽、本田さんのフリーキックを警戒して本田さんへの壁を厚くしたところ、裏をかかれて遠藤保仁にW杯としては44年ぶりとなる1試合2本目のフリーキックを決められ、前半の段階で絶望的な2点差をつけられてしまう。デンマーク(÷)。その結果、イチかバチかで後半開始早々、パワープレイ(超攻撃的布陣)で日本へ攻めかかるをえず、ようやく30分過ぎにPKで1点返したものの、高地での試合に選手はもうバテバテ、そんな中、嫌らしいことに岡田監督は日本人のFWで最も足の早い岡崎慎司を投入する。そして、後半40分過ぎにバッテバテのデンマークのディフェンス陣を切り裂いて本田さんが個人技でゴール前に飛び出し、キーパーをひきつけた後に、岡崎にパス→ものの見事なごっつぁんゴール。

このように、本田さんの活躍の半分はデンマークの判断ミスで出来ているため、冷静な日本人であるならばだの、救世主だのといった実情にそぐわない言葉を使用するべきではない。実際、そんな話が出た、出てしまった次の試合のパラグアイ戦において、ガッッッツリマンマークを食らって、攻撃面で代表に貢献することができなかった。が、それでもマンオブザマッチを獲得する本田△。でも、試合はPK戦で敗北。優勝を公言していた本田さん(÷)

このように、実は一流のディフェンダーにピッタリくっつかれるとあまり活躍できなくなる本田さんであるけれど、そんなディフェンス陣にピッタリくっつかれてもガスガス活躍できるのは、南アフリカ大会時点での現役選手で言うなら全盛期のロナウドメッシといった超絶な化け物連中、翻ってみてもサッカーの歴史においてレジェンドクラスであるペレやらクライフマラドーナといったレベルの、しかも、そのキャリアにおいても全盛期でしか存在しないため、今の本田さんにそんなレベルを求めるのは酷というものである。むしろ、本田さんを抑えればほぼ得点源がなくなってしまう日本代表のメンバー編成のほうがよっぽど問題である。もっとも、同じような話は多くの国で聞かれるわけだけれど。

アジアカップ2011での活躍[編集]

そんな本田さんが再び世界に名を知らしめたのが、2011年1月に開催されたAFCアジアカップ2011inカタール。この大会で本田さんは攻守にわたって大活躍。1試合を除く全ての試合、トップ下で活躍しまくる。なお、このアジア大会は日本代表にとってほとんど何かのコントでしかありえないようなシーンが続出。本来なら主人公として露出しまくる本田さんも、その爆笑コントの一登場人物と化した感もあり、正直、活躍したけど書くべきことが見当たらない。

ソシテ、ココハアンサイクロペディアダヨ。カイテテオモシロクナイジジツハカレイニスルースルヨ

というわけで、普通に大会優勝、MVP。とりあえず、二度と真正面にPK蹴るな

なお、アンサイクロペディア的に書いてて面白い話といえば、CSKAモスクワで本来不慣れなボランチで使われ続けた結果、本田さんのディフェンス能力がとんでもないことになり、もはや日本の守備に欠かせない存在になったことと、大会で大活躍した割りに高額な移籍金がネックになって有名クラブへの移籍の話が微塵も出なかったこと、そして本田さんと違って謙虚にやってきた同僚の長友佑都選手が、本田さんを追い抜いて一足飛びにイタリアインテル・ミラノに移籍したことぐらいである。こればかりは長友△

でも、それに負けず劣らず本田△

CSKAモスクワのその後[編集]

CSKAモスクワ入団後、海外サッカーの王道から外れてしまった弊害として、活躍するんだけれど目立たないという悪循環に陥ってしまった本田さん。しかし、日本代表ではそれこそトップ中のトップとして活躍、特に2012年から2013年にかけてサッカー日本代表がW杯予選を突破する原動力として大活躍。アジアの強豪を相手に格が違うプレーを見せ付ける。本田△。そして、CSKAモスクワでもロシアプレミアリーグ優勝およびロシアカップの獲得に貢献・・・したんだけれども、実は、けっこーな長期間、怪我で試合に出場していなかった件については目を瞑るわけにはいかない。(÷)。さらに、2013年6月に行われたコンフェデレーションズカップでも、ロシアカップならびにW杯予選直後に3連戦という超過密スケジュールの影響で、がっつりコンディションを落としてしまい、それにつられるかのうように、日本も予選で3戦全敗。もっとも、相手がブラジルイタリアメキシコという段階で、ほぼ想定内なわけだけれど。

んが、その中に、イタリア相手に3-4、しかも前半終了時に2-1でリードというハチャメチャな試合があり、そこでしっかりとPKを決めて、並み居るイタリアのDF相手にバチバチやった本田さんが、各国のスカウトに注視されないわけがない。しかも、CSKAとの契約がちょうど2013年末に期日を迎え、しかも怪我明けでコンディションも悪い上、最近の公式戦で連敗中=評価額がちょーっと落ち目、世界的に有名な選手の割りに安い、というまさにお手ごろ価格な状況で、移籍期間を迎えるんだから、そらあ色々と色々と本田さんの周囲が動いてくるわけで。

しかも、負けはしたんだけれども世界中が注目したコンフェデ杯で、強豪イタリアを相手に笑える試合・・・もとい世界中が興奮した試合を作り出した主役の1人である本田さんに、各国のトップ倶楽部が獲得に動かなかったらおかしい。実際、なぜだかバルト三国のリトアニアにあるFKダイナヴァが獲得を表明していたけれども、このオファーはそれぐらい、本田さんの評価額がお手ごろになった証拠、かもしれない。結局、ACミランが200万ユーロという超破格オファーで契約を結ぶ、かもしれない。様々な憶測が飛び交った。

で、誰もが2012年夏のロシア脱出を疑わなかったんだけど、ところがどっこい。あのロシアンマフィア・スルツキ監督の寵愛からは逃れることは出来ず、CSKAは予定外の高額移籍金をACミランに吹っかけることで移籍を延期させたのであった。おそロシア。

そんなクラブでの鬱憤を晴らすかのように、11月の欧州遠征において強豪オランダに2-2、「赤い悪魔」ベルギーに3-2と日本代表ではしっかり結果を残す本田△

え、セルビアベラルーシ?知らない子ですね・・・

ACミランへの移籍、W杯まで[編集]

そして来たる2013年12月11日、エアオファー論争に突如として終止符が打たれることとなる。ACミランのアドリアーノ・ガッリアーニCEOが「(2014年)1月3日よりウチの選手になる、背番号は10」と公式アナウンスしたのだ。

念願の移籍を手にした本田△は、ジャパニーズ企業の協力を得て自身の肉体を「世界のHONDA」へと改造し、イタリア行きの飛行機に乗り込んだのであった。

だがしかし、カルチョの地へと踏み立ったHONDAには数々の試練が。

第一にコンディションの問題。Jリーグで言うところのフォルラン並に猛烈な歓迎を受けたHONDAは、食事会やらイベントやらでしばらくボールから遠ざかってしまった。 もともとスタミナのある選手ではなかったものの、前述の理由から45分程度しか起用されなかったため、「運動量が少ない選手」のレッテルを貼られてしまうことになる。(÷)

第二にポジションの問題。そもそもHONDAの適正ポジションは「トップ下」とされているが、これは主に代表やCSKAモスクワにおいて信頼を勝ち取ったからこそ実力を発揮できる場所だということ。 HONDA本人はそんなトップ下での起用を求めていたんだけど、当ポジションには既にレジェンド・カカーが君臨していたので、セードルフ監督に右に追いやられてしまった。(÷)

第三にメンバーの問題。そもそも13-14シーズンのACミランで故障やスランプを抱えていない選手を探す方が難しい。 産婦人科で処女を探すようなものかもしれない。高給取りのレジェンドより新加入の若手の方が結果出してるあたりからお察し。 ストライカーもイタリア代表バロテッリぐらいしか居ない。その問題児バロちゃんも気分屋で、守備に全く貢献しないのでHONDAは彼の子守に奔走する羽目になってしまった。 かといって彼を外してしまうと誰も点が取れないので、結局バロテッリの一発に頼るほかないというチームとしてズタズタの状態であった。こればかりはミラン(÷)

...といった悪条件が重なり、HONDAは移籍初シーズンで1ゴール2アシスト(リーグ戦のみ)と、思うような結果を残すことは出来なかった。改めて(÷)。 ミラン10番HONDAと日本代表本田は別人だという噂も飛び交うほど。

ACミラン自体も8位でシーズンを終え、セードルフ監督は更迭、下部組織のインザーギ監督が後釜に入ったが、果たしてHONDAはミラン再建の要となるのだろうか。頑張って欲しいものである。

代表ではHONDAから本田△に戻り、クラブでの不調と相まって心配されたものの、W杯直前の親善試合ではある程度の結果を残した。 そして誰もが、本田△自身が優勝を公言してはばからないブラジルW杯に向けて調整が出来ているように見えた・・・。

ブラジルW杯[編集]

そんなものはなかった。いいか、なかったんだ。


(÷)

それでも全得点に絡んだ本田△

人物[編集]

  • 両手に腕時計をはめていることで有名。しかし、多くの人間が(÷)と言うに言えないのは、本人の結果の積み重ねによるものである。
  • 2008年に結婚。お相手は幼稚園の先生。本田△をどうやって導いたらいいかを示しているとも言える。2012年には息子を授かった。2013年現在、3人+柴犬1匹で生活中。
  • VVVフェンローのストライカー、サンドロ・カラブロとは相思相愛に近い中で、多くの婦女子どもに狙われていた。しかし、オランダリーグに所属した当初の本田(÷)本田△に覚醒させたのがカラブロであるならば、2部リーグでの得点王をカラブロに獲得させたのも本田△の力によるものであるため、婦女子に狙われようがどうしようが、一緒にさせておくしかなかったことも確かである。
  • その後に移籍したCSKAモスクワでは、残念ながら婦女子の歓喜するような話は出ていない。そもそも、情報自体が少ない。一応、本田さんをボランチに追いやったロシアのホープ「アラン・ジャゴエフ」との確執が噂されるも、さすがに才能を開花させたカラブロさんのような絡みは発生していない模様。多分。最も、一応は守備の才能を開花させるきっかけとなったのは彼の存在によるものなんだけどね。
  • やっとの思いでロシア脱出を果たし、今やセリエAの中堅チームにまで落ちぶれてしまったACミランを立て直すため、コーチ兼選手に転向した本田△。バロテッリやカカ、次期監督のセードルフにまで本田節の戦略を叩き込んでいる。コミュ力半端ないって。入団してすぐめっちゃ意見するもん。

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快進撃を続ける本田△であったが、2013年3月ごろからネット上で「目がおかしい」と指摘されるようになった。レーシック手術(1年ほど前に施術済)の失敗やらパセドー病やらストレスやら柿谷の禁則事項ですやら様々な憶測が飛び交ったが、結局インフルエンザの合併症だったと言われる。最近は割と症状が軽減されてきた模様。病後の方がイケメンになったという声もちらほら。

エアオファー[編集]

ミラン移籍までの本田△はエアオファー(特にスポニチの飛ばし記事)がしょっちゅう来ることで有名である。 VVV時代から多くのエアオファーが来ていた。 そのあまりのエアオファーの多さから「エア圭」と呼ばれるようになった。本田△

エアオファー一覧[編集]

名言[編集]

  • 2008年1月、オランダ1部リーグVVVフェンロ入団記者会見にて「車のホンダではありません
  • 2008年4月、VVVフェンロへの移籍後のインタビューにて「なんで他人が俺の進む道を決めんねんって思ってた。自分の道は、自分が決めるっていうことです」
  • 2008年8月、五輪GLでのナイジェリア戦後のインタビューで「サッカーでは勝っていたが勝負に負けた
  • 2008年8月、五輪GL敗退決定後のオランダとの消化試合で反町康治監督の「オランダは巧いから深追いしなくていい」という指示に反発し、試合後のインタビューで「それはごもっともだけどオレの考えは違った
  • 同上、インタビュー内にて自身がオランダに決勝のPKを与えてしまったことについて「審判に邪魔されたとしか言いようがない」
  • 同上、インタビュー内にて得点のために何が必要か尋ねられて「やっぱり最後は個の力だと思う
  • 2008年11月、VVVフェンロがリーグ戦10連勝を達成し、自身も後半アディショナルタイムに1アシストを決めた試合後のインタビューにて「(チームにはボールを持ったら)とりあえずオレを見ておけっていつも言ってる」
  • 2009年1月、VVVフェンロでの第21節を終え、シーズン前半を振り返って「相手に勝ち目がなかったって思わせるのがチャンピオンだと思っているし、そういう勝ち方をしたい
  • 2009年1月、日本代表へ合流して「代表は誇りだし、どんなタイトな日程でも呼ばれたらどこでも駆けつけるのが当然
  • 2009年4月、VVVフェンロで1ゴール1アシストを記録して「自分の完全な世界に入っていました
  • 2009年5月、A代表でのポジションを争う中村俊輔に対して「実績も信頼も違う。でも僕には俊さんにないものがあると思う」
  • 2009年8月、PSV相手に1ゴール1アシストを決め「誰にも止められないというところまでこの1年で突入していきたい
  • 2009年8月、ドルトレヒト戦でVVVフェンロの初キャプテンを務めて「俺はリスクを背負えるポジションが合う
  • 2009年8月、VVVフェンロでの3試合連続ゴールを決め、移籍が有力と報じられてのインタビューで「たかが3試合で(評価が)変わるの? 結局(欧州スカウトの)見る目のなさを感じている
  • 同上、インタビュー内にて「でも、そんなに頑固じゃないので僕の(移籍への)扉は開いている。でも一番残りたいのはオランダということ」
  • 2009年9月、日本テレビ系列『SUPERうぐるす』内のインタビューで自身のプレースタイルについて「凄い(ゴールに)飢えていますね。自分がたまに怖くなりますからね」
  • 2009年9月、オランダ戦後中村俊輔が報道陣に暗に本田を批判するコメントをしたことに対して「言いたいことがあるなら、直接言ってくれればいい。その方が代表は強くなる」
  • 2010年3月、自身のFKが決勝ゴールとなった欧州CL第2戦を終えて「日本人初とか興味がない。僕が目指しているのは遥か上なんで」
  • 2010年6月、W杯南ア大会のカメルーン戦で決勝ゴールを決めて「まあ、持っているなと
  • 2010年6月、W杯南ア大会のパラグアイ戦にPK戦の末敗れて「サッカーで緊張したことはない
  • 2010年7月、連日報道される自身の移籍問題について「現状はオレの描く本田圭佑ストーリーに全然追いついてきていない
  • 2010年11月、ボランチを経験して得たものについて尋ねられ「オレを評価するのはオレ自身
  • 2011年6月、キリン杯チェコ戦の翌日、自身の現状について「俺は今、谷底にいる」「俺の人生は挫折の連続なんです
  • 2013年8月より、ニンテンドー3DS用ソフト『モンスターハンター4』のCMイメージキャラクターに起用される。CM内にて「絶対アイルーグッジョブおもてるよ
  • 2013年6月、ブラジルW杯の本大会出場を決め、チームに必要なことを尋ねられて「シンプルに言えば個だと思う
  • 2013年11月、国際親善試合のベルギー戦を翌日に控えて「当然勝算はあります。ベルギーも評価だけ高くて歴史のある国ではない
  • 2013年12月、新天地ACミランでのプレーについて「いわゆるオンリーワンにはなりたいと思っていますね」←new!

プレイスタイル[編集]

[編集]

自由 奔放

(÷)[編集]

自分 勝手