本庄繁長

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本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、卓越した武勇、鋭敏な平衡感覚、そして強運を通り越して天運と言っても過言ではない運の良さを備えた北陸の戦国武将である。上杉謙信上杉景勝と上杉家二代に仕え、戦場を縦横無尽に駆け巡って武功を重ねた上杉軍団でも五指に入る猛将。

粗暴な性格に加え自尊心・野心が強く何度も何度も謀反を起こしたり怪しげな行動を取ったり同僚と軋轢を生じたりして、お仕置きされたり一時期逐電したりもしたが、結局は帰参を許され戦国乱世を生き延び、畳の上で大往生を遂げている。瀬戸際の所で適切な判断を謝らない処世術に長けていたこともあろうが、獅子身中の虫と呼んでも差し支えない繁長が再三再四に渡り赦免されたのは、その人柄によるところが大きいと歴史学者達は指摘する。

要するに「粗にして野だが卑にあらず」な好漢だったのである。

人物[編集]

粗暴で狡猾な猛将[編集]

上杉謙信や「愛の人」こと直江兼続をはじめ、上杉家は「義の集団」というイメージが浸透している。むろん、実際には謙信も兼続も、略奪や粛清という乱世を行きぬくうえで避けては通れない茨の道を通っていたのだが、上越市民と、上杉家が最終的に根を下ろした米沢市民が、謙信や兼続が義侠を尊重したという真贋の定かではないエピソードをやたら誇張して喧伝したため、今日の一般人の間では上杉=義の集団であるという印象が通念化している。

しかし、そんな一般人のドギツイ色眼鏡を以ってしても、繁長を謙信や兼続のように「義将」として見る事は出来ないだろう。繁長は武田信玄織田信長などに教唆され度々上杉家に矛先を向けており、それ以外にも天に唾すような背徳的行動、野蛮な所業を数多くやってのけている。人面獣心(もしくは面従腹背)の四文字がこれほどまでに合致する人物も珍しいだろう。

壮絶な前半生[編集]

繁長は出生からして壮絶であり、現代人が思い描く謙信や兼続が唱導する「義」などとはおおよそかけ離れた生い立ちを送った。北越後の豪族の一人、本庄房長の子として生まれた繁長だが、赤子の頃、背信した叔父の小川長資に父と共に居城を追われ、父はまもなく憤死、捲土重来を誓った繁長は数年後、軍勢を集め、また術策を尽くして居城を奪還、叔父長資を自ら太刀を以って成敗し城主の座に帰りついたのである。この時繁長わずか13歳、「わしはこんなところ来とうなかった!」などと泣きじゃくっていた甘ったれの与六とは、既にこの時点で格が違う。繁長の粗忽にして苛烈な気性は、この過酷な少年時代の間に培われたと言って良いだろう。

揚北衆[編集]

戦国時代の北越後は揚北衆と呼ばれる、軍事力、財力を蓄えた有力な土豪達が群雄割拠する激戦区であり、繁長の本庄家もこの揚北衆と呼ばれる土豪の一つであった。謙信の父である長尾為景によって越後は統一されたものの、揚北衆は独立意識が強く、度々離反したり、互いに私闘を繰り広げたりして、長尾・上杉氏にとってはまさしく目の上のタンコブのような問題児ばかりであった。

札付きの問題児[編集]

なかんずく、繁長は問題行動が顕著で、出兵要請を拒んだり、武田信玄に内応して謙信に反逆したり、景勝時代には同じ揚北衆の色部長真といさかいを生じて出奔するなど、曲者ぞろいの揚北衆の中でも背信行為が突出していた。この手の荒くれ者は、尼子家の新宮党、南部家の九戸党よろしく、家中の権力一元化のため粛清されたり、あるいは自滅したりすることが多いのだが、不思議なことに繁長は背信行為を侵してもその度に帰参を許され、重用されている。繁長を殺すことで北越後に生じる波紋の大きさを憂慮した、合戦に関しては卓越した武勇と技量の持ち主であり、謀叛癖を上回る使い勝手の良さがあったため何度も許され重用された、など、いくつか理由は挙げられるが、繁長が乱世を生き延びた何よりの理由は繁長本人の優れた器量と運の良さに帰結する。

以外と世渡り上手[編集]

幼い頃から権謀術数渦巻く乱世の厳しさを肌で味わってきた繁長は、自然とサバイバルの要諦を会得しており、「越えてはいけない一線」を心得ていた。また、信玄に教唆されて謀叛を起こした際、隣国の蘆名盛氏の仲介を得て謙信に帰参を許されているが、これは繁長が近隣の諸大名との間に広い人脈を築いていたことを示唆している。さらに、庄内の大宝寺家が継承問題で揺れた際、「本庄と言う苗字が示すとおり、本来庄内の地は我が本庄家のもので、俺とその血族が統治することこそふさわしい」と強引な口実を設けてで介入して息子の義勝を強引に当主に据えてしまい、後年、庄内の領土を繁長に奪われた出羽の狐惣無事令への抵触を持ち出して秀吉に強訴することで庄内を奪還しようとした際には、秀吉に直々に弁解して最終的に勝訴、庄内の領土を安堵されるなど、交渉のスキル、立て板に水の弁舌も持ち合わせていた。単なる武勇一辺倒の猪武者ではなく、こういう怜悧な面があったからこそ、繁長は太平の世までその首を繋ぐことが出来た。逆に言えば、したたかだったせいで度々謀叛を起こして上杉家に煮え湯を飲ませたとも言える。

この北越の暴れ馬の蛮勇ぶりには謙信も大いに手を焼かされたが、次の当主である景勝には基本的に従順であり、一時期逐電したものの一貫して景勝に忠誠を誓っている。景勝とは馬が合ったとも、肉体言語を以ってして忠勤の志を叩き込まれたからだとも言われている。

主な戦績[編集]

繁長の武功で特筆すべきは、やはり関ヶ原の合戦における、北陸での伊達政宗との戦いであろう。繁長が度々謀叛を起こした独立意識が強い反骨気鋭の武将であることを熟知していた政宗は、慧眼な繁長なら景勝のような無口童貞野郎より俺の方が器量があることに当然気付いているはず、寄らば大樹の陰、誘いを掛ければ容易くよわっちい上杉から最強の独眼竜の側へ鞍替えするだろうとお目出度い解釈をし、繁長に内通を教唆し、承諾を得た。この承諾はフェイクだったのだが、政宗はそれ見た事かと欣喜雀躍し、早くも勝利の余韻に浸っていた。自己陶酔と上杉への侮りから緩みが生じていた政宗に対し、繁長は内応を含ませる言質を取らせておきながら土壇場でこれが空手形であったことを暴露、手薬煉を引いて待ち伏せしていた須田長義と共に政宗を前と後ろから挟撃してフルボッコにした。サンドウィッチにするのには失敗したもののこの時の政宗の負けっぷりとほうほうの体での遁走は相当無様であったらしく、藩の礎石を築いた政宗に汚点がついてしまうことを憂慮した仙台藩の人々の尽力によって、仙台側の史料ではこの合戦自体が捏造扱いされている。

ちなみに同じ頃、愛の人出羽の狐に逆にボコられていた。だらしねぇな!しかも後年、政宗に対して「後姿しか見てなかったもので伊達殿だと気付きませんでした」と挑発しているが、政宗をボコってほうほうのていで遁走させたのは繁長である。お前じゃない

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