本多正信

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本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、徳川家康の側近にして、友人である。「本佐録」を著し、「サディズム」の語源になった人物として知られる。

人物[編集]

徳川家康配下のいわゆる「三河武士」と言われる武士達は、剛直で土臭い気風の連中が多い。しかしながら、正信は彼らとは一線を画する気質の持ち主である。同じ本多姓の本多忠勝榊原康政のように武勇をもって功績を立てたのではなく、頭脳を生かし主に謀略面で家康の天下取りに寄与した。知恵を以って貢献する能吏という点では豊臣秀吉に対する石田三成と共通する要素がある。

事実、本多忠勝は「腰抜け」「同じ本多一族でもこんな弱い奴は初めてだ」、榊原康政は「塩や味噌を勘定するしかできない」「腸が腐ってる奴」と、正信を見下す評価もあった。しかし、この2人は軍師として従事する正信の器を見込んだ発言とも取れる。

家康との仲の良さについて[編集]

家康の正信への信頼は篤く、正信は家康から「友」と呼ばれた。正信は家康の考えていることが手に取るように分かり、家康が欲しい反応を即応で見せることから、海外の文献では正信を超能力者であると指摘していることもある。また、家康が死んで程なく、つがいの鳥のように正信も逝去したことから、両者は一つの心臓を共有していたという珍説も展開されている。

松永久秀の元での修行[編集]

家康の側近として栄達した正信だが、その生涯には紆余曲折があった。三河は一向衆徒の多い風土であり、正信もまた衆徒であった。その為、本願寺が煽動して一向一揆が起こった際、これに荷担し、三河から放逐された。正信とその子本多正純を不倶戴天の敵と忌避した大久保忠教は、その著書『三河物語』で、逼迫していた正信を保護し、援助してやったのは他ならぬ我ら大久保一族であると誇らしげに吹聴している。事実かどうかは今となっては確かめようもなく、歪曲と解釈するか、事実と解釈するかは読者の判断に任せるしかない。

三河を去った正信は、実はしばしの間松永久秀の世話になっていた。そこで久秀から乱世を生き抜く「悪知恵」を伝授され、後の参謀としての智謀と狡猾さを涵養したと言われている。なお、追い詰められたら天守閣を爆破して派手に散れという美学も久秀から教わったようで、後に江戸城を家康が改築する際、正信は爆薬を城に仕掛けることを提案している。当然、この提案は一蹴された。

幕政への貢献[編集]

本多正信は『関ヶ原の戦い』の軍議では、息子の正純と一緒に家康の次男結城秀康を次期将軍候補に推挙するなど、江戸幕府初期の幕政に大きく寄与し、幕府の土台を構築した功労者の一人とされている。一方では、『関ヶ原の戦い』の軍議で、自分が後見した徳川秀忠を次期将軍候補に推挙した大久保忠隣大久保長安(大蔵藤十郎)など、多くの政敵を権謀術数を用いて陥れたため、正信は土台を築いたが、その土台は正信が陥れた者達の屍が素材になっていると風刺されることもあった。

立身出世を望まず[編集]

権謀術数に精通し世渡り上手であった正信は、出る杭が打たれることを熟知していた。そのため、貢献への褒美として領地の加増を家康から打診された時、丁重に謝絶している。加増を受けることを承諾すれば、ますます反感を買い、失脚への道に足を踏み入れることになるだろうと、慎重な姿勢をとっていたのだ。

なお、正信の子本多正純は、加増の打診を受諾して領地を増やし、それが遠因となったのかは不明だが、あまりにも荒唐無稽な謀叛の嫌疑をかけられて失脚した。正純は正信のような慎重さと検挙さに欠けていたと非難されるが、正純が失脚したのは単に正信が死去し、若手の幕臣が台頭して正純の政治力が薄弱になっていただけで、正純が加増の打診を謝絶したらしたで難癖をつけられて失脚させられたことは想像に難くない。

「サディズム」の語源に[編集]

彼の著書『本佐録』は、為政者としての要諦を綴った名著として知られている。本来は農民を諭すための「百姓は財の余らぬように不足になきように治むる事、道なり」と記述されたものであるが、松平伊豆守信綱太閤検地を実施した秀吉のやり方を見習って「百姓は生かさず殺さず」にされたことや神尾春央の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」の言葉に改竄されたことは有名であり、この言葉が独り歩きして、正信の印象が時間をかけて嬲り殺しにするのを悦楽と感じる狂人であると曲解され、独り歩きするようになってしまった。そして、相手を甚振ることを、正信の官途であり、『本佐録』の題名にもなった「佐渡守」に由来し「サディズム」と呼ぶようになってしまい、現在に至った(本当は松平伊豆守と神尾の改竄なのだが…)。マルキ・ド・サドがサディズムの語源であるという説は、全くの誤謬である。