朝黄龍明郎

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朝黄龍明郎(あさおうりゅう あきろう、Morning Yellow Dragon、1981年2月1日 - ?)は、モンゴル国ウランバートル市出身の今は亡きの相撲レスラーである。現役時代は高砂部屋に所属しており、最高位は大関であった。生きていれば国内に住んでいるはずであるが、警察は7年たった現在でも発見できておらず、現在の居場所は不明であったが、その後、死亡していたことが判明した。

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ウィキペディア専門家気取りたちも「朝黄龍明郎」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。

来歴[編集]

日本の高知県にある某高校を経て1999年7月に若松部屋(現・高砂部屋)で初土俵を踏む。朝青龍と3ヶ月遅れの入門である。朝青龍、朝赤龍と並んで同時に日本へ来たため、3人とも若松部屋(当時)に入門させようとした師匠の元大関朝潮(現・高砂親方)が3人の四股名をあらかじめ決めておいたため、3人の名前には共通点が多い。

1999年7月場所で初土俵を踏んで翌9月場所に番付にはじめて名前が載る。この場所を6勝1敗の好成績で終え、翌11月場所は初めての序二段であった。

2000年1月場所も序二段の地位であったが、下の名前を改名する。これまでの「太徳(ふとのり)」は名前としては珍しいものであり、当時難読とまで言われたことからこの場所から「明郎(あきろう)」に改名する。この場所好調で翌3月場所は三段目で迎えた。この場所、7戦全勝で幕下昇進となったが、初めての幕下であった5月場所、2勝5敗で三段目へ跳ね返される。しかし跳ね返された7月場所は7戦全勝でおしくも決定戦で優勝を逃すものの幕下に再び番付を上げた。この9月場所は4勝3敗であったが、不戦勝が1つある星勘定であり非常に危なかった。

幕下の半ばに番付を上げた11月場所。両親が交通事故に遭って父親が一時意識不明の重態、母親は意識不明ののち死亡する悲劇のなかで場所に挑む。この場所を7戦全勝の幕下優勝で飾った。優勝インタビューでは「天国へ旅立った母親への自分にできる唯一の見送り」とコメントを残し、優勝賞金の金一封は母親の葬式の費用として使った。

幕下11枚目につけた2001年1月場所、前半を4連勝で乗り切ったがその4勝目をあげた7日目の相撲で自身が怪我をした。5番・6番相撲と連敗し、13日目に組まれた7番相撲は休場(不戦敗)となった。翌3月場所は公傷休場。

5月場所の地位は幕下東7枚目。休場明けのこの場所を6勝1敗と好調な成績で乗り切り7月場所は東2枚目。この場所の成績は5勝2敗であったが番付運が悪く翌9月場所は幕下東筆頭に留まった。この場所を4勝3敗と勝ち越して翌11月場所には新十両、東12枚目となる。なんと、この新十両場所を15戦全勝、史上3人目の全勝優勝が新十両力士であったのだ。当然2002年1月場所は新入幕、前頭東13枚目につける。

新入幕の場所、序盤6連敗と厳しい星勘定であったがその後9連勝と見事な相撲で勝ち越す。翌3月場所は西8枚目で11勝4敗で技能賞を獲得、翌5月場所は東筆頭で迎える。だが、初めての上位挑戦、番付を30枚以上も駆け上がってきたその勢いだけで横綱大関を倒せるわけがなかった。平幕相手になんとか白星を積んで6勝9敗、翌7月場所は西2枚目。

この7月場所を5連勝、5連敗、また5連勝という奇特な星勘定で2ケタ10番勝って敢闘賞を受賞。翌9月場所は新三役、西関脇であった。しかし三役の地位にはなじめず、この場所新大関であった朝青龍とは違って7勝8敗の負け越しとなる。翌11月場所は西小結。この場所は11勝4敗の好成績で殊勲賞を受賞、2003年1月場所は東関脇と番付を戻した。

1月場所を14勝1敗で朝青龍と同部屋優勝決定戦。結果は敗れるものの翌3月場所を大関とりの場所として関脇で迎える。この場所も2ケタ11番勝ち(1つは不戦勝)、不戦勝があることで多少議論になったらしいが、不戦勝はなりたくてなるものではないとして結論はまとまり、満場一致で大関に昇進する。

新大関の5月場所、初日から13連勝と奇跡の連勝劇を続けていたが、14日目に黒星を喫する。この1番で左腕を脱臼し、優勝争いのトップでありながら千秋楽を休場、13勝2敗で横綱朝青龍と同部屋優勝決定戦となるがもちろん戦えるわけがなく不戦敗。翌7月場所は公傷休場となる。

その時に悲劇が起こる。7月場所12日目に朝黄龍が失踪したのである。9月場所、11月場所と連続して全休したため大関を史上最短で陥落、関脇に落ちた2004年1月場所以降も全休を続けており、ついに2005年11月場所には番付に名前すら載せてもらえない地位にまで転落してしまった。この事件はワイドショーなどでも話題になり、相撲協会も減俸100%や出場停止3場所など、厳しい制裁処分を現在も引き続き下しているが、現在の状況は一切不明。本人は未だに発見されていないが、親方が代わりに引退届けを提出した、すでに協会を解雇されているなど噂が絶えない存在である。

その後、病没したとの情報があるが、没年月日と場所は未だに判明していない。

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なお、「真相報道バンキシャ!」という番組において、朝黄龍の近況を知るものが何人かいたが、いずれも「下関の海へ飛び込むところを見た」「日本海で泳いでいるところを見た」「中国の海岸から出てくるところを発見した」「中国の中を歩いているところを見つけた」「モンゴル観光をしたら発見した」など多数あり、捜索には必然的に大人数を要すると思われている。なお、朝黄龍が合法的に国外へ脱出した記録は残っておらず、目撃証言がすべて正しければ、下関から日本海を泳いで中国まで渡り、陸路でモンゴルまで帰ったということが最有力であるが、信憑性は定かではない。また、現在その存在を覚えているものは地球上に10人もいないと思われる。そう、誰も気にしないのだ。だってあの頭の固いウィキペディアにすら記事がないのだから。

ただ2010年8月の相撲協会の調査により朝黄龍は付け人と共にその頃に異次元に飛ばされていたことがわかった。朝黄龍以外は帰ってこれたものの朝黄龍だけは現地に残りその世界を救わなければならなかったと語っている。ただその世界が現存しているのかは確認できていない。過去にも現役大関が本場所取り組み中にその世界へ飛ばされたことがあり、後に付け人がそのことをノンフィクション物語としてニコニコ動画に投稿していることから、今回もそれに似た事例の可能性がある。現在もその世界に留まっているが、協会が使いを送ったことを公表しており、まもなく帰参できるものと思われる。復帰場所は大関格付け出しとして本場所の土俵に復帰させることになっているが、向こうの世界とこっちの世界では時間軸が異なっている可能性があり、復帰した際にどのような姿、力になっているかはわからない。

レファレンス[編集]

1999年7月 前相撲 --●● ●●●○○------ 2勝5敗 三番出世 朝黄龍
1999年9月 東序ノ口13 ○--○-○-○○--●--○ 6勝1敗
1999年11月 西序二段101 ○-●-○--●-○-●-○- 4勝3敗
2000年1月 東序二段66 -○-●-○-○-○-○--○ 6勝1敗
2000年3月 西三段目100 ○--○○-○-○--○○-- 7勝0敗 同点(1)
2000年5月 西幕下60 ●-●-○-●-○-●--●- 2勝5敗
2000年7月 東三段目36 -○-○-○-○○-○-○-- 7勝0敗 同点(2)
2000年9月 東幕下51 ○-●-●-○--□●---○ 4勝3敗
2000年11月 東幕下41 -○○-○-○--○○-○-- 7勝0敗 優勝(1)
2001年1月 西幕下11 ○-○--○○-●--●■-- 4勝3敗
2001年3月 東幕下7 --------------- 0勝0敗7休 公傷
2001年5月 東幕下7 ○-○-○--○○--○●-- 6勝1敗
2001年7月 東幕下2 ●-○-○--○-○-○-●- 5勝2敗
2001年9月 東幕下1 -●○-○-●-○●----○ 4勝3敗
2001年11月 東十両12 ○○○○○○○○○○○○○○○ 15勝0敗 優勝(1)
2002年1月 東前頭13 ●●●●●●○○○○○○○○○ 9勝6敗
2002年3月 西前頭8 ●○○○□●○○○○○○○●● 11勝4敗 技能賞(1)
2002年5月 東前頭1 ●●●●●○●●○●○○●○○ 6勝9敗
2002年7月 西前頭2 ○○○○○●●●●●○○○○○ 10勝5敗 敢闘賞(1)
2002年9月 西関脇 ○○●○○○●○○●●■--- 7勝5敗3休
2002年11月 西小結 ○○○○○○○○○●●●○●○ 11勝4敗 殊勲賞(1)
2003年1月 東関脇 ○○○●○○○○○○○○○○○ 14勝1敗 敢闘賞(2)
殊勲賞(2)
同点(1)
2003年3月 東関脇 ●○○○●○○○○●○●○○○ 11勝4敗 技能賞(2)
2003年5月 東大関3 ○○○○○○○○○○○○○●■ 13勝2敗 同点(1)
2003年7月 東大関 --------------- 0勝0敗15休 公傷
2003年9月 東大関3 --------------- 0勝0敗15休
2003年11月 東大関3 --------------- 0勝0敗15休
2004年1月 東関脇2 --------------- 0勝0敗15休 出場停止
2004年3月 西前頭10 --------------- 0勝0敗15休 出場停止
2004年5月 西十両7 --------------- 0勝0敗15休 出場停止
2004年7月 西幕下6 --------------- 0勝0敗15休
2004年9月 西幕下46 --------------- 0勝0敗7休 出場停止
2004年11月 西三段目26 --------------- 0勝0敗7休 出場停止
2005年1月 西三段目76 --------------- 0勝0敗7休 出場停止
2005年3月 西序二段26 --------------- 0勝0敗7休 出場停止
2005年5月 東序二段86 --------------- 0勝0敗7休 出場停止
2005年7月 東序二段146 --------------- 0勝0敗7休
2005年9月 西序ノ口9 --------------- 0勝0敗7休
2005年11月 以下省略

四股名履歴[編集]

  • 1999年7月 - 11月 朝黄龍太徳(あさおうりゅう ふとのり)
  • 2000年1月 - ? 朝黄龍明郎( - あきろう)

内部リンク[編集]


朝青龍殴られ 01.jpg この項目「朝黄龍明郎」は、ちゃんこ不足のようでごわす。
さあ、そこの新弟子も力士の要たるちゃんこを作ってみるでごわす。強く当たったらあとは流れで行くでごわす。ごっちゃんです! (Portal:スタブ)