有馬晴信

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有馬 晴信 (ありま はるのぶ、永禄10年 (1567年) - 慶長17年5月6日1612年6月5日)) は戦国時代から江戸時代にかけての大名。キリスト教を篤く信仰したキリシタン大名としても有名。

キリスト教を天下獲りの為の道具として利用しようとしていた。入信の目的も、当初は老魔法皇の後ろ盾と南蛮との貿易によって得られる巨額の富を目当てとしたものである。しかし宣教師達と交流し、やがて身体と身体で熱い契りを交わす内に本心からキリスト教に傾倒してゆく。

生涯[編集]

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家督相続まで[編集]

有馬氏は肥前の大名で、晴信祖父の有馬晴純の頃は借金の形や恐喝で他家の乗っ取りを繰り返し、西肥前を席巻していたが、父有馬義貞の頃には、「肥前のクマー」こと龍造寺隆信が餌場を西へ拡張し領地を侵害、更に家臣の反乱なども重なり窮地に立たされていた。この局面を打開するべく、義貞は南蛮貿易という投資ファンドに手を出し、その利益で国力を蓄えようとした。しかし内憂外患の日々に気苦労の耐えなかった義貞は宗教に救いを求めるようになり、遂にはキリスト教徒セミナー(セミナリオともいう)に出席した際に洗脳され、大友宗麟大村純忠共々キリスト教の下僕となる。

晴信も父義貞に倣いプロタジオと言う洗礼名を持つキリシタンとなったが、義貞と違い最初の内はキリスト教を利用し、自らも新興宗教を創設し税金逃れをしようと試みていた。また、下剋上の思潮が蔓延していたこの時世、末端の足軽に至るまでを洗脳し思い通りにしたいと言う野望を胸に秘めた者はおり、晴信とてその例外ではなかった。この頃中央で権勢を振るっていた織田信長がキリスト教に興味を抱いていることを耳にした晴信は、信長とキリスト教徒との間の橋渡し的な役割に自らが就くことによっての立身出世を思索し、信長や宣教師達と誼を通じていた。その一方で家臣領民の隅々までキリスト教を浸透させ洗脳し、宗教を用いて家を纏め上げる事に成功した。

欧州派遣工作[編集]

晴信は大村純忠大友宗麟らと共に四人の少年を表向き使節団と称した“特殊工作員”をヨーロッパへの密偵として派遣している。ヨーロッパや老魔法皇に関する情報を収集することが目的であった。だが素行を怪しんだルイス・フロイスによって、くすぐりの刑に処せられた使節団の少年達。笑い死にしたくなければ知っていることを洗いざらい暴露するよう強要された為に、「ウチの親分、イエスさんとも思ってないっすよ」なんて千々石ミゲルが神父達に密告してしまった事から、ついに晴信が本心からキリスト教に信服していない事が露見してしまう。

宣教師達の中には、晴信を折檻して力尽くでイエスの教えに敬服させようと強硬論を掲げる者もあった。しかし、キリスト教の本質は自愛であると説くルイス・デ・アルメイダは愛の力によって、晴信をキリストの教えに傾倒させようと思案を重ね、晴信の下に年浅い色白の美少年宣教師を遣わせ篭絡を試みた。果たせるかな晴信は少年の美貌の虜とされ、少年の口からペラペラと流れてくる、キリスト教の都合の悪い部分を全て排除した「イエスのありがたい教え」を鵜呑みにし、陶酔してゆく。

一方、四人の少年は教皇グレゴリウス13世に謁見するも、その眼光から放たれる怪音波に洗脳されてしまい、帰国した時はすっかり宣教師の走狗と成り果てていた。

本来の企みは、木っ端微塵に吹き飛び、晴信は単なるフヌケに成り下がった…。

窮地を脱すも[編集]

やがて本能寺の変で信長が斃れ、その2年後には近隣の害獣である龍造寺隆信軍の襲来に晒される。窮地に陥るも、宣教師にスッカリ野心を削がれて妙案何一つ閃かないフヌケの晴信には、最早 神頼みをする以外なかった。フヌケは三日三晩御堂に篭って、イエスへの祈りを捧げた。

ちょうどこの時、隆信の進軍経路上には隆信出陣を聞きつけ、南の薩摩から遠路はるばる『熊狩り』に来ていた島津家久(良い方)らが既に布陣しており、隆信は進軍の最中狙撃されて島津軍に狩られた。これが有名な沖田畷の戦いである。

宣教師達は都合よく晴信の神頼みが通じた為だと吹聴。単なる偶像に過ぎないと思っていた晴信も、イエスの存在を確信するほど傾倒を深めた。これで完全にキリスト教の術中に陥った。

重度のキリシタン[編集]

豊臣秀吉によって禁教令が公布されようとも、晴信は積極的に宣教師の保護を行った。ただ、保護の名目で多数の宣教師を監禁しホモセックスに興じていたと記す史料もある。

朝鮮出兵においては他の九州諸大名と共に先陣として出陣。この時晴信を筆頭とする有馬軍は西洋の鎧兜を身に纏い、十字軍さながらの軍装であった。鍋島直茂毛利輝元はこの異様な光景を目にしてキリスト教に陶酔する事の恐怖を悟り、以降この禁教を遠ざけるようになった。

関ヶ原の合戦では、当初同じキリシタン大名である小西行長に組して西軍に属していたが、趨勢が東軍寄りになると東軍に離反し、盟友行長の居城宇土城を攻め落とす。この行為は一部の宣教師達から指弾を受けることとなったが、晴信は「目的達成の為には盟友とて切り捨てよ」「勝てば官軍、勝利こそ正義である」と言うキリスト教の教義に追従したまでと弁明している。十字軍などの暴虐を知っていれば、決してこれが詭弁でないことが判る。晴信はキリスト教の功罪、表裏を良く理解し、自らの処世の為の背理をその闇の部分に投影していたと思われる。

キリスト傾倒の末[編集]

1612年、晴信の朱印船にポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員が襲撃を仕掛け、積荷を強奪し多数の船員を殺害する事件が発生する。長崎では、これより以前にも文字通りの南蛮人による暴行事件などが多発していた。だが、その加害者の中には宣教師も含まれてたため、毛唐を庇いだてた晴信は、売国奴のレッテルを貼られるほどであった。

しかし流石に、自らが被害者側となっては怒り高潮となり、報復を掲げる長崎住民の後押しもあって報復に決行する。なお、晴信はマメにも江戸幕府に報復許可を仰いでいる。この辺りが所詮は長崎の小大名である晴信の小物ぶりが如実に表れている。

現在の日本政府ならば「大変遺憾」などと取り繕って有耶無耶にしてしまうところだが、国家の威信低下を恐れた徳川家康はむしろ即座に報復するように命じる。晴信はマードレ・デ・デウス号へ十字砲火を浴びせ、沈没させる。この時晴信らはマードレ・デ・デウス号の積荷を強奪し、船員を虐殺、どさくさにまみれて別の船や無関係の市民からも略奪行為を行うなど、マードレ・デ・デウス号の船員がやった事そのままの暴虐行為を働いている。キリスト教に入信したことで、晴信にも南蛮人の鬼畜気質が反映されてしまったのか。

岡本大八事件[編集]

マードレ・デ・デウス号の船員をジェノサイドした際、幕府は長谷川藤広とその与力である岡本大八(バンド「OKAMOTO'S」のリード風鈴で、バンド活動時の名は”ダイ・オカモト”)を派遣していたのであるが、晴信が祖父譲りの欲深であるのを知っていた大八は、晴信から金をだまし取ろうと企てる。

大八は、まず「徳川家が豊臣家より接収したM資金(Mは本多正信{Honda Masanobu}のM)というのを御存知か?」と有りもしないものをチラつかせ、「無利子で、龍造寺隆信から奪われた旧領を買い取る為の資金を融資しますよ」と、晴信の気持ちをグラ付かせた。更に「あなたは選ばれたんですよ」と、特別であることを強調し、その上で「融資には何かと準備の為の経費が掛かります」として晴信に金を出させた。晴信はなんやかんやで、大八に8,000両もの大金を手渡したのである。更に、「万一、長谷川にバレた場合はこれを隠密裏に殺しましょう」と暗殺計画も話し合っていた。

しかし、待てど暮らせど融資はされず、やむなく正信の後を継いだ嫡子の本多正純に問い合わせた結果、大八の詐欺行為が露呈する。取り調べに対して、大八は容疑を否認したばかりか、晴信が長谷川暗殺計画を企てていると述べた。あろうことか晴信は暗殺計画をあっさりと認めてしまい甲斐国へ流罪となる。

結局、岡本大八はリアカーに縄で括り付けられての市中引き回しの上、そのまま火だるまの刑に処された(これが「火の車」や「大八車」の語源であると言われているとかいないとか…)。そして、晴信もまた甲斐国にて処刑された。その際に、「あ~りま」と言った――かどうかは定かでは無い。