有賀大尉

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出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』 民明書房『零戦放流記、有賀大尉の思ひ出にて』
有賀大尉
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基本資料
本名 有賀候 
通り名 有賀大尉 
生没年 1921年5月24日 - 2009年1月21日 
身体情報 身長は162cm程であったと言われている 
職業 軍人 
出身地 大分県豊岡村(現:日出町) 
出没場所 第二次世界大戦
日中戦争
南太平洋の戦い
日本本土の戦い 
所属 大日本帝国海軍、鷽八百航空隊他

有賀 候ありが そうろう1921年5月24日2009年1月21日)は、大日本帝国海軍戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍大尉、最終階級は海軍少佐。岩本哲三や西澤廣義と並び、太平洋戦争時における日本のエース・パイロットとして知られる。戦後に海軍時代の経験を綴った著書『零戦放流記』と、戦友たちや家族による逸話を集めた『零戦放流記、有賀大尉の思ひ出にて』の2冊があるが、現在では絶版となっている。

2009年永眠。著書は、神田神保町付近でもなかなか発見することができないと言われる。

某フライトシミュレータをプレイする人たちの間では何故か彼の知名度が高い。

来歴・人物[編集]

海軍兵学校から戦闘機搭乗員へ[編集]

大分県豊岡村に有賀吉三郎・お春の三男として生まれる。 三男であることから家を継ぐことができないため、彼の進学について父が名士に相談した際に海軍兵学校への進学を進められる。 有賀は学校の成績が良かったことと猛勉強の甲斐あって無事兵学校に入ることが出来た。

この頃から自身の将来について真剣に考えるようになり、兵学校に通う間に航空機と出会う事となる。 ある日有賀は空を飛ぶ航空機に見惚れ、「いいなぁ、俺も飛行機に乗ってみたいなぁ。」と思っていたと語っている。 しかし、閃いてからの有賀の決断は早く、直ぐに航空兵としての道を歩む事を決心する。

撃墜王への道[編集]

彼は教育期間中から早くも戦闘機乗りとしての才能を発揮し始め、戦闘機動や巴戦は教官も唸るほどの実力を見せ付けたという。 佐伯航空隊での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終え、1936年4月9日の大村航空隊配属を経て、5月15日には中国本土の航空隊に異動。 ここでの国民党軍を支援するフライングタイガースとの交戦が初の実戦となった、この日は指揮官 山岡大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗しており、延べ20分間の空戦で2機撃墜2機小破の戦果を挙げたという。 中国本土での空戦を交え、有賀は実戦での経験を積み、一戦一戦の教訓を着実に吸収しつつあった。 後に有賀は「中国での経験がなければ私は最後まで生き残ることはできなかったでしょう。中国での戦いは良い実戦慣れの為の戦いでした。」と語っている。

以降、太平洋戦線への配属後も併せて1943年までには合計85機を撃墜したとされている、しかし裏づけとなる資料が終戦の際に散逸してしまっているため、戦中の足取りについては不明な点が多く残されている。 有賀に関わった人物達の証言によれば撃墜機は大小含めて250機以上と言われており。それだけ有賀が撃墜している瞬間を目の当たりにしたパイロットが多かったのであろう。 有賀は零戦の性能を常に最大限に生かす戦い方を心がけ、確実な先読み、卓越した操縦、的確な射撃を常に実行する事ができており、連合機パイロットからは太平洋の白い死神と異名をつけられていた。 しかし、そんな有賀も被弾しライトつけてバンク振ってる敵機に情けをかける意外な一面も持ち合わせていた。

1944年1月には、教官を経てテストパイロットとして横須賀空技廠に配属となる。その後も本土防衛の為に幾度も出撃。主に使用していたのは零戦であったが、1944年末からは紫電改などにも搭乗している。短期間ながらも紫電改は有賀大尉の撃墜記録を伸ばすのに多いに貢献した。撃墜数は85機程であるといわれてる。 紫電改については「機動性、武装共に申し分無く。実に良い戦闘機で紫電改の採用があと2年早かったら・・・」と著書において語っている。

1945年終戦を経て、大分に帰り、農園を営む傍ら執筆したのが『零戦放流記』である。

逸話[編集]

『零戦放流記、有賀大尉の思ひ出にて』に書かれた逸話に下記のようなものがある。

当時私は爆撃隊に所属していました。 忘れもしません。ミッドウェイ初日の攻撃時の時でした。 私達は敵艦船を撃滅すべく九十九式艦上爆撃機で出撃しました。護衛機には有賀大尉率いる中隊でありました。 敵艦船を確認しないうちに敵のレーダーによって察知されていたのでしょうか。 敵のグラマン。30機はいたでしょうか、太陽を背に迫ってきて有賀大尉達は激しい空戦へと突入したのでした。 しかし私達に迫ってくる機もいます。私もこの目で3機は確実に味方が敵機に撃墜されたのを確認しました。 そしてついに私の番が回ってきました。敵のグラマンは私の機に機銃を浴びせかけてきました。 主翼から揺れを感じ、後部機銃から声が聞こえなくなり、ここまでかと諦めかけた瞬間でした。 ピタリと敵機の曳光弾が飛んでこなくなり、機体を少し上に上げるとそこには有賀大尉の機が既にグラマンを撃墜しており、グラマンは火を噴きながら不規則な機動をして堕ちていきました。 有賀大尉は私の横に来てにこりと微笑みかけ、私は聞こえないと分かりつつも大声で「有賀大尉!護衛に感謝します!!」と叫びました。 そして有賀大尉はバンクを振ると私の機から離れ、他の獲物へと攻撃を開始していました。 この空戦には射撃の名手、馬居 流岩一飛曹なども参加してまして、零戦の喪失は2機、艦爆機は4機の喪失で敵戦闘機は全機落としたと聞きました。

命を救ってくださった有賀大尉には今もって感謝しております。


莫壇大尉(莫壇 十嘉のこと)と、1942年南太平洋において私が出撃から帰ってきた時のことでした。 私たち艦爆隊は4時間分ほど攻撃から帰ってきたところでしたが、莫壇大尉が敵機に機銃受けた機体の破片を受けて負傷しました。 大尉が治療を受けに行くため付き添っていったのですが、そこに駆けつけてきたのが有賀大尉でした。 「莫ちゃん、貴様何をやっておるか!」 あんなに痛がっていたのに、笑いながら「有賀。今回の作戦は、貴様が護衛にこなかったからだよ。」と言うと、「貴様も養生しろよ!」と微笑み返すと隊へ戻っていきました。

1944年。そんな莫壇大尉も米艦隊への攻撃の際ついに散華されたと聞いたとき。この時のことを思い出しました。


私の前を1機のグラマンを追う有賀大尉の機が見ました。 グラマンは薄く煙のようなものを曳いていましたが、その軌道はしっかりしていた様に思えました。 ですが突如として大尉の機は敵機を追うのをやめてしまったのです。

基地へ帰ったと、大尉に聞くと。 「ライトつけてバンク振ってる機体は見逃すのが俺の騎士道だ。でも、上には内緒だぞ。」そう笑顔で言うとピストへ歩いていかれました。

1965年頃、このときのパイロットが大分の有賀大尉を探し出して米国ミラマー海軍飛行場のエアショーに招待し、共にブルーエンジェルスのアクロバットを観覧したそうです。 また海軍エースを育てるトップガンの本拠地である同基地で、大尉は講演を行ったとの事。 公演が終わると若いパイロットたちが大尉の下へ駆け寄ってきたとの事です。

「第2章 国は違えど、戦闘機乗りの先輩として」より


ガダナルカナルへの攻撃部隊の支援を終え、帰路に着いたところでした。 私達戦闘機中隊はまだ燃料に余裕があったことから、再び、折り返すことにしたのです。 大尉は一式陸攻の窓に向かい、サインを送りました。 彼らは「有賀大尉!護衛に感謝します!!」と言っているように見えました。

私は中隊、僚機にRyoki>Rejoinを送り、再度、敵機を求めて東へ向かったのです。

その後です。私が僚機を失ってしまったのは。 ダダダダダ!機銃の音がしました。それがチュンチュン(雀 聡史)の最後でした。 彼の実家は、蔵満鉄工所という名前で経営をしており、彼が唯一の跡取りでした。

「第3章 あの日の記憶」より


私は、有賀大尉の僚機として真珠湾攻撃などにも参加しました。 その後も、1942年までに大少合わせて24機を撃墜していたのですが、1942年6月-ミッドウェイ海戦に参加した時です。被弾し、帰還時にエンジンが着火。辛うじて近くにあった島に味方機に見守られながら不時着しました。その後、海軍では行方不明扱いとなっていたようです。 私は島で何とか生きながらえ、たまたま海岸に様子を見にいった所、偶然にも空を飛ぶ艦上偵察機彩雲に発見され、同日、一〇式艦上偵察機に救出されました。 救出された9月から極度の栄養失調に追われていた私ですが、内地に送還されることになりました。 その後です。1944年-本土防衛の為九州地方に再配属され、そこで有賀大尉と再開したのです。 私と出合った有賀大尉は「幽霊ではないな?貴様が無事で本当に良かった」とお互い涙して抱擁しあいました。

俣阿 往[Mataa ou] 「第5章 2年の月日」より


当時、我々海軍パイロットの間ではこの怪現象は有名でした。 白くてくねくね動く、謎の物体を見た者は必ず消息を絶つとね。 太平洋の亡霊伝説まで生まれ、出撃を嫌がるパイロットが続出しました。 当時の我々は、あれが人間の乗ったジークだとは思いもよらなかったのです。

グレゴリー・S・サザーランド大尉「第8章 連合国パイロットから見た有賀大尉」より


これは祖父(有賀 候)と共に浦安鼠王国に行った時の話です。忘れもしません。

幼い私の目の前で、巨大なお察し下さい検閲により削除が地面に躓いて頭を落としてしまったのです。 祖父はそれをすばやく拾い上げると、優しく微笑みながらさっきまでお察し下さいだった、XXXXXの頭にそっとかぶせたのです。 巨大なお察し下さいは祖父に一言、こう言いました。「有賀大尉!」と

「第10章 家族」より


彼の愛機がいかに、優れているのか聞いたときの話です。

有賀大尉「スピナーの先は、ここで感じてました。」

と大尉は、股間を指差しました。 私が「え?ここですか?」と聞き返すと、

有賀大尉「両翼の翼端は、操縦かんを握る中指で"感じさせて"ましたね。また、エンジンはイクかイカかないか、ギリギリのところ。あえぐ寸前でミクスチャーを調整して、黒い吐息がエンジンから出ないように長時間飛行していました。」

と返してきたのです。 私は、あれはパイロットが飛行機を擬人化して「彼女」と呼ぶのとかけていたのだと思います。 おそらく「前を2、後ろを9」も、正上位とバックからの事を指しているのだと思います。

また、零戦の隠れた便利な機能についても教えてくれました。 有賀大尉「アメリカ海軍のグラマン(F4Fのこと)はギアダウン・アップするのにぐるぐる何度もまわしていると聞いた。零戦は1発でビンビンやで。翼の上面に勃起メーターが付いていて、ギアがびんびんか出ているか色で判別できるんや。」

「第11章 零戦の性能について」より


うちのお婆ちゃんが子供の頃に用水路に落ちたんだ。 そのときに国民学校宇宙科の生徒さんが助けてくれたそうだ。 第2次星間戦争の10年前ぐらいのことらしい。 その助けてくれた人は後に有名な戦闘機パイロットの子孫で、彼もまた可変戦闘機(バリアブルファイター)搭乗者で 「アリガ」さんという方らしいと言っていたよ。 そして、アリガさんは、こう言ったんだって「抱きしめて!ラバウルの果てまで!」キラッ☆

第105移民船団 OITA在住者 「第20章 大宇宙の騎士」より


有賀大尉の言葉[編集]

・常に頭と体を使え。自分がやられないで敵を倒せる方法を常に考え続けるんだ。

・射撃の時は敵機だけを見るな。常に弾道と敵を照らし合わせ敵が弾道の中に入るようにしてやるんだ。

・敵は確かにアメリカ人だが、ヤツらもパイロットだ。戦闘機パイロットの仲間なんだよ。その事だけは絶対に忘れるなよ。

・前を2、後ろを9で飛ぶんだ。つまり一割り増しだ。


零戦放流記 「第24章 教官として」より


親族[編集]

・有賀の長男、有賀一郎はF86セイバー乗りになっており、F86最後の米空軍との模擬空戦やってファントムIIに撃墜判定を与えている。その後、航空自衛隊を退職。
 一郎は現在、高齢ながらもアクロバットチーム AAA(Ariga Acrobat Airplanes)をアメリカで結成しチームディレクターとして、アメリカ内外で活躍中である。
・有賀の次男、有賀甲一は家業を継ぐと共に太平洋戦争の研究家としても海外からは高い評価を浴びている。
・有賀の長女、有賀恭子はいたって平坦な生活を送っており、大学卒業後は上京、結婚して主婦生活を送っている。
・有賀の孫(末娘、有賀恭子の子)、鷲田豹伍は現在航空自衛隊でF15を駆っており、国内の戦技競技会でトップを取ったことがある。
また、様々な航空祭などでも活躍中。

参考文献[編集]

  • 零戦放流記』(民明書房)
  • 『零戦放流記、有賀大尉の思ひ出にて』(民明書房)

関連項目[編集]