有楽町

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有楽町(ゆうらくちょう)とは、の織田有楽斎(おだうらくさい)の屋敷跡に発展した東京の歓楽街である。ビジネスマンも多いが、この街に来るそのほとんどは「遊び人」である

有楽町の歴史[編集]

遊び人・織田有楽斎[編集]

織田有楽斎は、アンサイクロペディアでお馴染みの織田信長公の末の弟君であり、千利休の高弟「利休七哲」の一人でもある。(ちなみに「へうげもの」で知られる古田織部も利休七哲の一人である)。また、魔具「玉ぶりぶり」の製作者としても知られる。ここ有楽町では織田有楽斎は神のように崇められており、「織田~」と言えば、信長ではなく有楽のことを指す。戦さよりも政治よりもわびさびを大切にした「風流人」にして「遊び人」の有楽こそが、歓楽の町・有楽町を代表するにふさわしい。このことを顕彰して、2007年に完成する有楽町駅東口の新ビルに面して、10メートルの織田有楽斎の銅像が近く建立される予定である。

  • 「有楽のやつ、わしをさしおいて町名なんぞになりおって、ああん「信長町」誰か作ってよ・・・・」
    有楽町 について、織田信長
  • 「「信長町」なんか誰が住むか、けったくそ悪い!」
    信長の発言 について、足利義昭

遊び人の金さん[編集]

やがて江戸幕府が確立すると現在の有楽町駅の東南部に南町奉行所が設置された。江戸後期の天保年間に、この奉行所のお白洲で「この桜吹雪が見えねぇのか」と、遊び人の金さんという男が、モロ肌脱いでストリップショーをやり、お奉行のコスプレをしてカッポレを踊ったことが記録に残っている。しかし金さんの遊びは流石にやりすぎたようで、奉行所の勘気を被り、彼は最終的に江戸市中引き回しのうえ獄門の刑に処せられた。しかし、お上なにするものぞ、という粋でいなせな気風は江戸っ子の憧れの的となり、金さんは庶民のヒーローになったのである。このような話は、奉行所の周囲の歓楽街が隆盛を誇っていた証拠であり、明治時代を超えても、娯楽の街・有楽町の地位は揺らぐことがなかった。

李香蘭七周り半事件[編集]

昭和時代になると娯楽の複合施設である日劇が1933年に、東京宝塚劇場が1934年に開設された。1929年にニューヨーク証券取引所から世界恐慌が始まり、1933年にドイツでヒトラー政権が誕生したにもかかわらず、日本一の歓楽街は不夜城の如く、煌々とネオンの明かりを点していたのである。さすが「遊び人の町」である。さらに1941年と言えば対米戦争が始まる年であるが、この年に有楽町日劇を7回も取り巻くほどの長蛇の人の波ができた。その当時の萌えアイドル李香蘭の東京公演である。よく年寄りは、コンサートチケット買いあさりに走ったり、ゲーム機器を買いに徹夜で泊まったりする若い奴を捕まえて苦言を呈すが、何のことはない、昔の若い奴も同じなのである。全然変わらないのである。日本って本当にいい国ですね。

有楽町における某新聞[編集]

李香蘭の記念すべきコンサートもつかの間、1941年12月、日本はいよいよ対米戦争にひた走ることになる。その件については当時、戦意高揚のためあらゆるメディア戦略を用いて、これでもかこれでもかと素晴らしい記事を書きまくり煽りまくった、とんでもなくとんでもない新聞の本社が、この当時、有楽町にあったことは言うまでもない。誹謗するのもアンサイクロペディアらしからぬことなので、敢えて名前は省略させていただくが、その新聞の名をデカいフォントで拡大表示する気持ちが抑えがたいことを、読者諸賢よ、どうぞお察しください

君の名は銭湯閉店[編集]

そして東京の爆撃が相次いだこの時代をもとに、有楽町の数寄屋橋を舞台とする一つの恋物語が生まれた。1952年の「君の名は」である。この話が戦後ラジオ・ドラマ化され、放送されると、銭湯女湯が空っぽになったと言う曰くつきの作品である。というのも、この番組を見てのぼせ上がり、自分の顔の造作を省みず、のこのこと数寄屋橋に出かけ、イケメンゲットしようとして、公然猥褻の容疑で警察にとっつかまったご婦人が後を絶たなかったからである。かくして熱病のような流行の後に残されたのは、この番組によって閉鎖に追い込まれた都内の銭湯の更地だったのである。このように有楽町は、何度となく恋物語の舞台としてさかんに用いられた。1957年にヒットしたフランキー堺の「有楽町で会いましょう」もその一つである。

マリオンの誕生[編集]

1960年代初期に最高潮に達した映画産業は、それが過ぎると一転長い低迷の時代を迎えることになる。あれほど威容を誇った有楽町日劇も、1980年までには取り壊された。そんな中で、あの「とんでもなくとんでもない新聞」を有楽町から築地に追っ払って、1984年に新たに作られたのが有楽町マリオンである。1983年に発売されたスーパーマリオブラザーズからその名をとったが、子供向けのアミューズメント・パークはお断りだ、という声によって企画は四分五裂し、一つのビルに西武松竹と、阪急東宝が歯を剥き出しにしていがみ合うように無茶して入っている。もちろん東宝の映画を観たら松竹の映画は観られないし、西武で買い物をしたら阪急では決して買い物は出来ない。もしそのようなことが発覚した場合、店員から「お客様ちょっと・・・」と声をかけられ、あなたの知らない世界に連れて行かれる。なお、2010年に西武は阪急に全面降伏して撤退し、現在はルミネと阪急メンズが全く違う土俵であるにも関わらず火花を散らしている。正面についたマリオンのカリヨン時計は、ぜんまい仕掛けによって釣り天井を作動することも出来るらしい。毎正時には全身金色のからくり人形が4体ほど出てくるが、可愛く見えてきたら末期である(筆者はもちろん末期である)。ちなみに、2014年10月、開業30周年を迎えた折にこれらの人形の塗装の成分が金箔ではなく、100%オレンジ果汁であることがなぜかいきなり発表された。

有楽町の更なる変貌[編集]

バブルがはじけた後も有楽町はさらに変貌を続ける。1997年には日本最大の面積を誇る巨大温室東京国際フォーラムが開館。さらに有楽町そごうの跡地には2001年にビックカメラ有楽町店が開店した。このように21世紀の今も有楽町は「遊び人」の町である。人が遊びを求めて変化するのも当然であろう。そういえば2003年には、東京国際フォーラムの中に、日本が世界に誇る、捨て身のギャグの達人にして、コメディアン界の高峰にして至宝・相田みつを先生を讃える相田みつを美術館が開館していることを補足しておきたい。「人間だもの みつを」。アンサイクロペディストなら誰しもが「心の師」と慕い、讃仰する相田先生のこのお言葉を最後に、有楽町の歴史の項を終わりにしたいと思う。

関連項目[編集]