曾我廼家桃蝶

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ウィキペディア専門家気取りたちも「曾我廼家桃蝶」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。

曾我廼家桃蝶(そがのやももちょう、1900~?)、本名中村憬(なかむらさとる)は大正から昭和初期にかけて日本の演劇界で活躍した名女形である。すなわち、女形=である。当たり前の話である。で、問題なのは、経験した人数が1000人を軽く越えているということである。それなのに、彼は童貞である。

なお、この記事はアンサイクロペディアの笑いの中でもトップレベルのドス黒い笑いシックジョーク、トラウマレベルの話である。なんせ、懇切丁寧に大昔のゲイの話をしようってんだから、人によっては確実に見てはいけない類の情報に満ち溢れること請け合いである。

だからやる。

あわせて、この記事は稀代の逸話収集家永六輔氏が1971年に発行した奇書「極道まんだら」に記した本人へのインタビューとインターネットより検索したそのほかの情報を元に構成する。

幼少期[編集]

1900年島根県浜田市に生を受けた桃蝶さんは、生まれたときすでに女の子の顔であったにも関わらず、ついていたことで、彼を取り上げた産婆さんが驚いたなどと語っているが、まぁそこらへんは本人の芸談であると思われる。10歳のときに朝鮮半島に渡り、かの地で姉から化粧女装を覚え、そのことをきっかけとして女形の世界に興味を抱いたといわれている。小さいころはそれなりに女性の体にも興味があったらしく、中学生になってもと一緒でないと寝られなかったり、母親の胸で眠るのがごく普通だったりと、一般人にしてはなかなか濃い少年時代をすごしている。あわせて、小さいころから女性顔であったらしく、小学生の時分、担任からすでにされることはされていたといったような話を語っている。

本人曰く、宿直室で私と二人っきりで勉強を見てくださるときに、先生は私をギュッと抱きしめパンツを脱がしながら言うのです。先生「痛かったら痛いとお言い」さとる君「先生、痛うございます」そうするとやめてくださる本当にいい先生でした、とのことである。

性別?文脈から自分で考えろ。

なお、この文章は延々とこんな話ばかり続く

女形への道[編集]

17歳になった憬くんは、念願の役者修行のために単身東京へ渡り、新派の役者、桃木吉之助の元へ弟子入りし、桃谷三千雄の芸名で女形への道を歩みだすことになる。この時点では、憬くん、すなわち後の桃蝶さんは女装に目覚めた単なる一少年にすぎない。しかし、女形の修行というものが、昔も今も、多分これからも、いかにして女の姿を真似るか、女の生き方を似せるか、いかにして女になるかという命題を突き詰めていく作業であり、なおかつ、その命題の元で延々と育成システムが培われていった世界である。

つまり、あーしてこーしてそーするのがごくごく当たり前という話である。分かりやすく言うなら、男に抱かれて当然。男色バンザイ。ゲイ道一筋。アアコリャコリャ。

そんな女形修行を振り返った際、本人が語る初体験というのが、「桃木先生が、壁の方へ向いて服をまくれというのです。言われたとおりにしますと、先生が私のほうに重なり、こうするんだよ、と強く抱きしめてくださるのです」。

永六輔曰く、これは女形修行において誰でも通る道、とのこと。それを文字に書き起こすのもなんだかという気はするけれど。

正直、書いてて気持ち悪くなってきた

ただし、この段階では桃蝶さんは尻を出したまま単に男に抱きしめられただけにすぎない。というのも、別に恋愛とか初体験とかどうとか言う話ではなく、単に修行をはじめるための第一歩だったからである。師匠としては、桃蝶さんに女形としてごく当然な行いについてイロハのイを伝えたにすぎない。ケツをまくって男に抱きしめられる修行は現実に存在する。そんな色恋とは無縁のシステマティック、機械的な経験が始まりだったせいか、桃蝶さんはなんら感慨もないまま初体験の情景を永六輔に語っている。しかし、逆に淡々と語られる男色衆道ゲイ同性愛の話のえげつなさに、インタビューアーの永六輔すら、桃蝶さんとは目を合わせることができなかったとのこと。

最も、こんな話、芸界では遥か昔から現代に至るまでごくごく当たり前で、それこそ歌舞伎役者なんてものはそのことですら商売の一部である。パトロン、旦那衆、さらには高貴な女性にいたるまで、その身を買われてなんぼ、色恋沙汰も果ては刃傷沙汰に至ってすら己の芸の肥やしにするという話が、江戸時代から現代にかけてひっそりと語られ続けている。無論、実力者になれば芸者を囲ったり、商売女を身受けしたり、むしろ表ざたにすることで芸人としてのをつける遊びができるようになっていくわけである。ただし、なぜか女形出身者で散財や女遊びで悪名が高い役者がほとんどいない点については、いかんともしがたいものがある。そんな遊びより、もっといいものがあったんだろう。きっと。

で、書くことすら憚られる本格的な話はこの直後である。

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桃蝶さんが師匠から教わったのは、いわゆる芸で言うところのでしかなく、いざ実戦、さぁ本番、という話になるとそれはそれは優しい女形の先輩方からの懇切丁寧な指導が待っていた、というわけである。

話は変わるが、この時代、女流作家の草分けとされるこれまた変人の林芙美子の逸話の1つに、執筆に熱中するとどんどん前のめりになっていき、着ているものをはだけさせながらまったくそのことに気づくことなく、最終的に原稿用紙を置いた小机が壁にドンと当たってようやく我に返る、という話がある。

なんでこんな話を差し込むかというと、桃蝶さんもまったく同じだったからである。痛い痛いと逃げていったら部屋の壁にぶち当たって逃げられなくなった、という話である。ついでにその道からも逃げられなくなった、という話でもある。

なんのことはない。部屋の壁にぶち当たったと思ったら、モラルの壁の向こう側に突き抜けていった。

その後、純潔を失った桃蝶さんはで半年ほど苦しんだ後、見事に女形としての才能が開眼する。つまりなんだ。そういうことだ。同じ劇団内の男優にどう見てもらいたいか、どう思われたいかという、仕草、呼吸、間をとことん突き詰めたいという心持になった。

いわゆる、惚れた、という話である。

その結果、ほぼ完璧に一人の男優の理想に近い女性像を身につけることになる。と、今度はなぜか別の男優が桃蝶さんとしたしくなっていく。まぁ、それぐらいに綺麗になったわけだけれど、一途なクセに大変に惚れっぽい桃蝶さんは、もう一人のほうの女性の理想像もまた会得。すると、今度は・・・といった具合に、劇団内部の人間関係を泥まみれにしながら、桃蝶さんは人気の女形として活動を始める。ちなみに、その理想の女性像を会得するためにどれぐらいの激しい稽古があったかというと、本人曰く。朝・昼・晩。さらに言うなら、とっかえひっかえ。精が強くて本当に良かった、とのことである。

あわせて、当時の彼の年齢については考えるな。

しかし、大正から昭和初期の演劇界は女形=「男に抱かれて当然」という世界であるため、なんら問題はない。なんら問題はない

ついでに言うと、ボーイズラブだのやおいだのといった内容を求めてこの記事を読んでいる人に一言。この記事の主な内容は1969年にインタビューした70一歩手前の老人の昔語りで構成されており、バカをやり続けた、貫き通した、でもなーんにも残らなかったという自戒か、もしくは自嘲でできているため、笑うことはできても血湧き肉踊るようなくんずほぐれつなんて話はありません・実際はあったかもしれませんが書く気はありません。そこのところは諦めてください

さらに言えば、かくのごとく惚れっぽい桃蝶さんでしたが、一途な思いのあまり、女性結婚すると桃蝶さんに別れ話をした相手に向けて小指をエンコ詰めして送りつけたこともあります。いたって古風な話です。が、現代を生きる腐女子のお歴々が付いてこれるかというと、どうも微妙な気もします。

当時の話[編集]

大正時代の日本の演劇界は、様々なスタイルが模索されて多くの劇団が熱烈なファンを獲得、しのぎを削る戦国時代に突入していた。そもそも、少し調べるだけで新派だの、新劇だの、新国劇だの、てめえらネーミングセンスなんとかしろと、心底ぼやきたくなるぐらいに似たような名前ばかり出てきやがる。ちなみにその内容は、「新派」は劇団名であり、なおかつ、当時の演劇の一派を表す言葉でもある。各地に〇〇新派と呼ばれる地方劇団が結成され、日本中の多くの若者が演劇の道を志すきっかけとなった。その劇風は主に日本の庶民の暮らしが主であり、現在でもその名を残す劇団が各地で活躍している。それに対して「新劇」は演劇の一派としての名前で、新派とは逆に海外の演劇やその翻案、プロレタリア演劇などを好んで上演。政治批判ドンと来いというその思想の元、日本全国の血の気の多い若者の受け皿として大きく発展。その血の気の多さから警察から幾度となく弾圧を受けるも、現在もその演劇活動は文学座や俳優座などに引き継がれている。最後の「新国劇」はそのまんま劇団名であり、大正時代から昭和の終わりまで時代劇一筋で活動。こちらは、新劇とは逆に、血の気の多いファンを大量に獲得したことで有名だった。

そんな演劇界の現状ではあったけれど、実は現在の芸能界とは決定的な違いが存在する。それは当時の芸能において女優というものがほとんどまったく存在しておらず、男女が競演するなんてことはまず考えられないという世相だった。実際、1899年川上貞奴がアメリカで初めて舞台に立ったことが日本の女優史の始まりとされるも、大正時代はそこから十数年しか経過していない。そう簡単には世の中には広まらない。

結局、明治大正昭和初期にいたるまで一般的に演劇の世界とはほぼ男だらけの世界であり、ごくごくたまに女優が出てくると、それはそのまま性差別、職業差別の槍玉に上がるような状況だった。だからこそ1908年に川上貞奴が女優養成所を設立すると大ニュースとなり、1914年に女性専門の宝塚歌劇団が結成されると世の中がひっくりかえるほどの衝撃を持って受け止められたわけである。

そんな時代だからこそ、各種劇団における女形の存在意義の高さは相当なものであった。そもそも、女性がそこにいなかったわけだから。そのくせ、客の半分が女性なワケだから。けれど、上手くしたもので、日本には歌舞伎の世界で男性が女性を演じる文化が培われていた。そのため、その育成システムから何からそっくりそのまま演劇の世界に持ち込んだことで、日本の演劇のレベルはある程度無理のない状態で向上していくことになる。ただし、カオスっぷりもハンパないものになるけれど。その引き継いだ内容が、着物の着付けや仕草、間の取り方といった直接的に芸に関わるような話だけならともかく、による三角関係のいざこざやら、男の愛人の存在を隠すために結婚、などといったべらっぼうなレベルの裏話とその系譜も受け継いだ結果、演劇の世界ならば男が女を演じてもいいという文化が日本に根付くことになる。大都市圏の芸能である歌舞伎だけに許された価値観が全国に飛び火していったわけである。しかし、その文化が芸能の世界にいたるまで、そして大衆の世界にいたるまでは、相当な時間が必要になる。

そんな時代を背景に、新しく女形の一員となった我らが桃蝶さんは、まさにこれから女優が登場する一歩手前、女形流行の最盛期に、唯一洋装のできる女形として一気に衆目を集める存在となり、衆目を集めた結果、ナニがナニしてナントヤラ。の遍歴、幾多の別れ、修羅場を越えた真実の愛、イッタイドウシテソウナッタ。としか言いようのない経験を積み重ねることになる。

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桃蝶さんの色懺悔はここからが本番。とにっかく、下の話になると桃蝶さんのエンジンは全開になる。曰く、実は二十歳までがなかっただの、さらに、立ったこともなかっただの。信じるか信じないかは別として、少なくとも、桃蝶さんならありえなくはない。嫌な話だ。さらに続けて言うには、「私は女になろうだなんて思ったことはなかった。ただ、自分なりに美しくなろうと思った結果、女性に見えるようになった」とのことである。そのくせ、本人は女性よりも男性のほうが美しいだなんていってますが、そこらへんの話の矛盾は本人も自覚していると見え、「異常だの病気だのといわれますが、こればっかりは体験しなければわからない」とのことです。で、「自分だけの特別な世界でひっそりと生きていくだけでいい」「アブノーマルや、変態だといわれても、そうじゃないと分かってる」「でも、こうやって改めて話してみるとやっぱりおかしいんじゃないかって思います」。

せっかくなので、桃蝶さんの結論については触れずに、直後に語った話に突入。

一時期、学生の初体験の相手になることに凝った桃蝶さん。舞台の上から客席を見てエモノを狙い定めていると、だいたい桃蝶さんの女主人公を見てポーっとしている若者がいる。そんな彼に舞台上から秋波を送ると、効果覿面。中学生やら何かが舞台後の楽屋の前で桃蝶さんに会いたいとウロウロするなんてことがよくあったそうで。で、さっぱりと化粧を落として男に戻った桃蝶さんは、そんな中学生を誘って一緒に散歩。もっとも、当時は男女が手をつないで歩くなんてことは厳禁だった時代である。そんな中、女装して中学生と一緒に手をつないでいたら、無粋な連中に口さがない噂を立てられても致し方なかった。そのため、あえて男と男、風紀を乱さない姿で人前を闊歩することで、警察だろうがなんだろうがお構いなくどこだろうと二人で行く桃蝶さんだった。

暗がりにも

すいません。どう考えてみてもやっぱりおかしいです。

ちなみに、当時は旧制中学の時代であるため、とりあえず、現在の高校生に当たる子供達が桃蝶さんの毒牙か、もしくは優しい指導の下でウンヌンカンヌンドータラコータラソレワッショイワッショイと思ってください。尋常小学校卒業直後だと、本当にひどい話になるけれど。

この段階で、インタビューをしている永六輔氏は桃蝶さんに妖気を感じている。そもそも、インタビュー開始直後に「奥さんから奪っちゃおうかしら」などと物騒な話を永氏は聞かされている。そして、インタビュー後も、桃蝶さんの生霊に取り付かれていると告白している。さもありなん。

なお、桃蝶さんはそんな当時のことを思い返し、こう言います「優しくしないとダメ」と。そのほかの詳細な記述については以下の一文にとどめる。後は各人で判断されたし。間違っちゃいないから

ポンといれてあげたの

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18の年に女形としての一歩を踏み出した桃蝶さんが、確固たる地位を築きあげるのは、1930年大阪曾我廼家五郎一座の旗揚げの際に看板女形として迎えられたことに始まる。曾我廼家桃蝶の名もこの入団時に名づけられたものである。それまでは、芸名を桃谷三千雄から桃谷婦似男、美智夫と変更し、1924年に桃木吉之助と同じ新派の重鎮、花柳章太郎の元で本格的な女形として鍛え上げられ、その際、藤山寛美の父である藤山秋美からも教えを受けている。そしてメキメキと腕を上げた桃蝶さんはしかし、前述のように劇団内でも恋多き男として有名で、そもそも関東で活躍していた桃蝶さんがどうして関西の劇団に引き抜かれたかというと、それがなぜかは誰にもワカラナイ。けれど、東京の劇団のほうには、桃蝶さんを引き止めづらい何かが確実にあったと思われる。最も、引き抜いた曾我廼家五郎という人がまたとんでもない人で、なんと、一座の旗揚げメンバーの選出の際の基準となったのは、本人の好み

地方の劇団から自分の好みの女形を片っ端から引っこ抜いて、自分の劇団に入れまくった五郎座長は、その後にも入れまくったことでも悪名が高い。ただし、本人は普通に妻帯し、妾もぎょうさんいたというんだから、世の中は狂っている。ちなみに、桃蝶さんも桃蝶さんで、「五郎さんはいつも台本はお妾さんの家で書くんです。しかも、出てくる女主人公がそのお妾さんの性格そのまんま。だから、事前にお妾さんのタイプを盗んでおくと先生は大喜びで、男主人公として舞台の上で私をぎゅっと抱きしめてキスも平気でしてくるんです」。

ちなみに、日本映画で初めてキスシーンが描かれたのは、1946年に制作された「はたちの青春」といわれている。ガーゼごしのキスだったが、それでも風紀を乱すものとして大バッシングにあっている。その10年以上前から公衆の面前で男同士平然とこんなことをしているわけだから、そらあ、人気が爆発するのも頷ける話である。世の中は狂っている。しかもアングラではなく、普通の芝居小屋、老若男女貴賤を問わずにそんな光景を垂れ流し続けたわけで。ついでに言えば、曾我廼家五郎劇団ってのが、実は2010年現在も上方のお笑い界を支え続ける松竹新喜劇の前身だったりもする。あな恐ろしや

しかし、上方喜劇の歴史に燦然と名を残す曾我廼家五郎座長も、桃蝶さんに言わせれば「私に言わせれば、女知らずの私よりも、男も女も知っている座長のほうがよっぽど変態だと思うんですけどねえ」。

・・・この件については明確な回答を避けたいと思う。

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大阪に拠点を移した桃蝶さんだったが、移転直後、彼女の人生で最も長い期間を過ごすことになるパトロンができる。爵位を持っていた彼を桃蝶さんは殿様とぼかしてはいるけれど、関西の有力大名で殿さまの愛称で呼ばれている大名は、どう考えてもあそこしかない。

その殿様との関係を桃蝶さんがお妾であるといっていることから、相手が妻帯していることは間違いないのだけれど、そんなことはお構いなく、殿様と桃蝶さんの愛人関係は実に豪快。逢引するのにわざわざ警察を呼びよせ、巡査を一人ずつ一丁ごとに並べて、その前をいい年をした男二人が手を引いていく。どこの国のどの時代の話なんだかにわかには信じられないけれど、1930年代の日本の話である。しかも、そんな権力者と関係しているにも関わらず、恋多き桃蝶さんが浮気をするんだから実にとんでもない。その内訳が、年端もいかぬいたいけな店の小僧さんから、中学生大学生を経て、最終的に強盗に至るといった具合で、「まるで電車を乗り換えるみたい」とは本人の談である。

ちなみに、1930年に関西に来た桃蝶さんと18年続く関係を結び、戦後、一度会った際にそれっきりという話から、戦後2~3年で亡くなった人物で、しかもどこぞの関西地方の殿様関連の人物をウィキペディアで調べたところ、ドンピシャリすぎて泣きたくなるような該当者がいたりもする。故人の名誉、および地域の名誉のためにこれ以上の情報は秘すことにする。

調べなけりゃよかった

時代[編集]

この時代、明治以降の富国強兵政策によって、日本国民で男子たるものは皆、徴兵検査を受けるのが慣わしだった。もちろん、女形であろうがなかろうがそんなことは関係なく、桃蝶さんも徴兵検査を受けている。しかし、女形の中にはふんどし一丁での検査を徹底的に嫌う人も存在し、中には自殺したなんて話もあるという。そんな逸話もちらほらとある検査だったけれども、桃蝶さんはあっけらかんとしたもんで、検査の一項目である「痔持ち」であるかどうかの検査についてこう語っている「普段は暗い中でやってるのに今回は明るい場所で、ちょうどお産に使うような台に乗せられた状態で、周りからもジロジロと見られている中で、しかも検査官がいい男で・・・」

頭が痛くなる

幸い、兵隊として採用されることは回避できた桃蝶さんだったが、第二次大戦中は海軍の軍事工場に徴用されたため、大戦末期には幾度となく米軍による空襲に遭遇する。しかし、そんな中でもやっぱり桃蝶さんは桃蝶さんで、「海軍の軍事工場だから、つまり新人の水兵さんが一杯いるでしょ、だから空襲警報が鳴って灯火管制の中で防空壕に避難すると、もう体をギュッと押し付けあうぐらいにして、コチョコチョと・・・」

コチョコチョって、あーた。命の危険が迫ってるときに何やってんですか。・・・ナニやってんですね。すいませんでした

幸い、インタビューによるとその段階で空襲警報が解除されて、多くの新兵が桃蝶さんの魔の手を逃れたとある。まさに、前門の米軍、こ・・・

・・・

・・・次の話題にいこう。

1945年に日本が敗戦し時代がガラリと変化しても、桃蝶さんが変わると思っているようならまだまだ甘い。

ある夜、進駐軍の一兵士が空襲で焼けた街を歩いていると、そこに妙齢の日本美人がどこからともなく現れて、しきりにその兵士を自分の家に誘うのです。あぁ、この人は敗戦によって生活手段を失い、このような手段でお金を稼がざるを得ないのか・・・と思いその家に付いていき、一夜をともにすると、なんのことはない、桃蝶さんだったという話である。黒人白人も分け隔てなく相手にした桃蝶さんだったが、どう考えても、自分がであるという話を相手に伝える手段を持っていたとは思えない。

ことの顛末[編集]

戦後、桃蝶さんは曾我廼家五郎一座を離れ、新派に再び属する。その際、尊敬する花柳章太郎と曾我廼家五郎から一字ずつもらい、「二見章五」名義で活動する。さすがにこの時代になると桃蝶さんといえどもえぐい話はないのだけれど、いかんせん、桃蝶さんである。単に成功率が低くなっただけである。

その証拠に、上方お笑い界の重鎮、上岡龍太郎が若いときに、桃蝶さんにナンパされたことがあると告白している。1942年に生まれ、18歳のときにお笑いの世界に飛び込んだ彼と桃蝶さんの芸暦はぎりぎり重なっており、さすが桃蝶さん。還暦過ぎにも関わらずに、10代の好青年をナンパとは、まさに三つ子の魂百まで、を地で行っている。

けれど、そんな桃蝶さんの色遍歴も終わるときが訪れる。

1966年、寄る年波に逆らうことを諦めた桃蝶さんはついに女形稼業の引退を決断。その頃には、すでに新派にも松竹新喜劇にも女形はほとんど残っていない状態だった。そして、引退の結果として、当たり前の話だが、天涯孤独の身となる。当たり前の話だが。パトロンもなく、子もなく、親族は疎遠。結局のところ、よくある行く末の姿である。しかし、転んでもタダでは起きない桃蝶さんは、引退直後に自分の人生を一冊の本として出版。自分の性を赤裸々に語っている。「芸に生き、愛に生き」との題名で出版されたこの本は、その強烈な内容で世の中に衝撃を与えることになり、現在でも天下の奇書としてその名をとどめている。さらに、もしかしたら、この本は日本で一番最初に同性愛を告白した自伝ではないかと語る人もいる。

・・・どう考えても、世間にバレッバレな話を最初に告白というのもおかしな話であるけれど。

その後[編集]

その後の桃蝶さんの記録については、定かではない。一応、引退直後に名女優、京塚昌子さんのマネージャーとして活動したことは、永六輔氏のインタビューにも見られている。その後の記録としては、インターネットで検索すると、1980年に上方お笑い界の巨頭、桂米朝師匠と対談したことが伺える。しかし、それからの記録はプッツリと途絶えている。

1984年に極道まんだらの文庫版が発売された際、インタビューをした20人のうち、生きているのは3人だけになったという記述があとがきに存在し、そのうちの1人が1987年に亡くなった漫才師の桜川ぴん助氏、2人目が1995年に亡くなったプロレスラーミスター珍、そして最後の1人は1992年に亡くなった江戸時代のアニメ、錦影絵の伝承者だった小林源次郎翁であることから、1980年から84年の間に桃蝶さんはお亡くなりになられたものと思われる。

悲しいかな、芸人の末路は、記憶をとどめる者によって常に記録され続けていくのに対し、いかんせんゲイ人の末路ってものが、いかに記憶にとどめがたい内容であるか、闇に葬るべき内容であるかよく判る話である。一応、桃蝶さんは芸暦50年に迫る新派の代表的な女形であったにも関わらず、没年すら記録されていない。この現状は、結局のところ、記録させたくない何かが積み重なった結果である。平たく言えば、ゲイ暦である。

が、そのまま忘れさられるのも面白くないからこそ、こうやって記録したくなる変人が出てくる。

まぁ、そんなもんである

注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
ここに書かれた内容も嘘や出鱈目である可能性が高いです。
…と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……以上の記述は全て事実なのである。
ここまで我慢して読んできた貴方、いくらなんでもネタだと思ったろ? そうじゃないんだこれが…

艶姿[編集]

関連項目[編集]