明智光秀

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
「ざまあ 金柑頭ざまあ」
明智光秀 について、織田信長
「よくやったぞ!光秀!」
明智光秀 について、足利義昭
禿鼠宗易に見事に騙されたもののふの光秀。

明智光秀(あけちみつひで、1528年 - 1582年6月13日[要出典])は、戦国時代武将。通称は十兵衛、または維任日向守。斎藤道三に簒奪された美濃国美濃源氏土岐氏の一門であるとされる。遠祖は土岐光国の子・明智光保であり、また先祖のひとりが南北朝時代後醍醐天皇道楽の犠牲者となった明智国益であるといわれる。子は光慶、女婿は三宅弥平次こと明智秀満

概要[編集]

若い頃に、惣領家の土岐頼芸が斎藤道三に追われ、土岐一門は四散したのだが、明智氏は例外的に土岐一門でありながら道三の妻の実家であったため、難を逃れることができた。ところが道三の子の斎藤義龍が自分は土岐頼芸の御落胤だと宣言して、道三を討ち滅ぼすと、道三に味方していた明智氏も滅ぼされてしまった。光秀自身はかろうじて美濃を脱出して、他国へ放浪の旅に出る。中国地方を支配する毛利元就に仕官しようとしたが、「才覚はあるが、将来の禍根になりそうだ」と言われて断られたという。今からみれば、元就は織田信長以上に人の本質を見抜いていたといえる。会津まで放浪した時には、そこで、同族で養子に迎えた幼い舟木秀光と邂逅したともいう。

やがて光秀は細川藤孝のコネで、将軍足利義輝の弟の足利義昭に仕えることができた。ところが将軍足利義輝松永弾正三好義継らによって暗殺されると、藤孝とともに義昭を奉じて越前国朝倉義景(日下部姓)を頼る。だが、義景は優柔不断で隣国加賀の一向一揆の侵攻に悩んでいたために、光秀らはだらしがない義景に見切りをつけて織田信長を頼った。信長は、自分の濃姫)の親族ということもあってか光秀をいたく気に入り、明らかに藤孝より家柄の低い光秀を重用し、城持ち大名に抜擢した。こうして信長と光秀は相思相愛の関係になり、信長と足利義昭が対立すると、あっさり義昭を見捨てて信長に加勢した。信長も光秀の愛に応えるべく、天王寺の戦いで光秀の砦に敵の大軍が攻め寄せて陥落しそうで危ないと知ると、みずからわずかな兵力のみを率いて敵の大軍に突撃し、負傷しながらも光秀を助けたほどであった。こうして信長と光秀は相思相愛の関係を深め、光秀が明智家の家法で「石ころのような自分を信長様は引き立ててくれた」と書き記すほど信長LOVEの光秀だったが、気変わりしやすい信長がとある一匹のにあらん限りの愛情を注ぎ始めると、光秀は日増しに情緒不安定になっていく。この頃から当項目と同様に二人の関係は一気に雲行きが怪しくなっていく

しかし信長は光秀への愛をスッパリ断ち切ったわけではなく、むしろ光秀⇒ツンデレ猿⇒デレデレという姿勢を鮮明に打ち出していったのだが、既に統合失調症寸前の状態に陥っていた光秀には文字通りの逆効果。もはや光秀の中の主君への愛は激しい憎悪へと昇華し、ついには丸腰同然の状態で熟睡していた信長を勢いのみで自殺に追い込んでしまう本能寺の変)。事が全て終わった後、光秀はハタと我に帰って狼狽し、細川藤孝らに助けを求めるが、光秀に対して激しいジェラシーを抱いていた藤孝にシカトされてしまう。そうこうしているうちに関西から雲に乗って飛んで来た猿に、山崎の戦いでコテンパンに打ち負かされ、最期は「鬼畜米英!!」と絶叫しながら竹槍の訓練をしていた愚民どもに誤って刺し殺されてしまった…と伝えられているが、光秀のものとされる首は腐乱が激しく判別がつかなかったため、実はこの話に確証はない。一説には天海になったとも伝えられている。

要点[編集]

一応日本の歴史を変えたことになっている、禿頭のオッサンである。グローバルな観点から言えば、日本のブルータス、もしくはガヴリロ・プリンツィプとでも言うべき人物。キンカン(みかんの一種)頭という渾名があることから、薄田兼相同様、オレンジの可能性がある。とある文献には若い頃は岐阜の山奥でみかん畑を耕していたとか書かれている。

京都本能寺で宴会を催していた丸腰同然の主君・織田信長の寝込みを襲い、あっさり殺してしまったこと、その後形式上の天下人となったものの僅か11日後に猿にボロ負けして(山崎の戦い)最期は愚民どもにあっけなく殺されたことなどはあまりにも有名で、三日天下の代名詞として今日に至るまで嘲笑、憐憫されている。

人物[編集]

「中間管理職の悲哀」と言う言葉がこれほど似合う人物もいないだろう。死してなお、主君の顔色を察することの出来ないKYだの裏切り者だのと烙印を押されてきたが、近年では自称子孫の必死の顕彰活動とアンチ信長による死に物狂いのネガティブキャンペーンのおかげで再評価されて同情される傾向にある。小説、漫画・ゲーム・ドラマなどの物語においては悲壮感に色彩を添えるため、本能寺の変の際、生え際が後退した55歳の冴えないオッサン(つまり信長より年上)であり、目的のためなら虚言も辞さない陰険な性格…という定説は大抵シカトされ、信長に理不尽な仕打ちを受ける悲劇のイケメン武将として描かれることが多く、主におばちゃん大きいお姉さん達を間に人気を博している。

いわゆる腐女子のためのビジュアル系の光秀。

クソ真面目な性格であり、信長からは溺愛されていたと言われている(ただし存在は忘れ去られており便利君1号とみなされていた、という説も)。しかし、妄想や自己陶酔が激しいと言う別の面を持っていたように二重人格者であり、精神的に追い詰められたりストレスが極限に達したりすると、もう一人のハイテンションな人格になり、発狂したかのような狂気に溢れた台詞を連発していたらしい。白目をむきながらよだれを垂らし、およそ地球上の言語と思えぬような言葉を連呼したりするなどの奇行も多く報告されており、彼と慣れ親しんだ同僚や部下からは「いつものことだ……」とスルーされていた。藤孝の息子である細川忠興に気違い仲間の素質を見出し、彼を弟子にとって調教し、立派な気違いに育て上げた。立派な気違いになった褒美として、光秀は自分の娘である玉子(細川ガラシャ)を忠興に嫁がせている(彼女もまた、光秀や忠興ほどではないが、立派な変人であった)。だが前述のように光秀が信長の態度に発狂して主君を討つと、忠興にも父・藤孝同様にソッポを向かれてしまった。

信長の比叡山攻めに反対した人格者、と歴史漫画で表現されていることもあるが、実際には虐殺行為に手を抜いた様子は見られず(むしろ手を抜いていたのは猿であったともいわれる)積極的だったことから、「悪僧どもとその愛人どもを一掃出来るのじゃぞ!」というような信長の愛に満ちた説得に負けて全面的に賛成したのだとと考えられる。

頭がキンカンみたいに禿げ上がっていたことから、信長からは「キンカン頭」という渾名で呼ばれていた。無論、光秀がキンカン頭(禿)になったのは、信長との相思相愛の関係があまりに激しく燃え上がり過ぎたが故のストレスが原因である。それを隠す為に普段はロン毛ヅラを被っていたが、どう見てもモロバレであったらしい。また、織田家に雇われた軍事顧問ランスに散々激しい調教を受けたことを相当恨んでいたらしい。光秀はマザコンとしても有名であり、人質に差し出していた母親が信長が約定を反故にしたため処刑されてしまい、それが本能寺の変の動機になった、という説が存在するが、光秀の母はそれより前に病没しており、どうも光秀本人のみがそう思い込んでいたフシがある。もっとも、これが仮に事実だとしても、信長が約定を反故にするのは常套手段であり、そのことは相思相愛の仲であった光秀も重々承知してたはずであるのだが…。さらに言えば、前述の光秀の虚言癖などから、この時差し出した母親は煮るなり焼くなりどうでもしていい偽者であった、と推測される。このことからも、本能寺の変前後の光秀の精神状態は尋常なものではなく、もはや現実と幻覚の区別が出来ない状態に陥っていたことが窺える。

関連項目[編集]

騙した相手が悪かったとしか言いようがない。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「明智光秀」の項目を執筆しています。
Quqpacmanlogo3.png
明智光秀が放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/武将」へ収録されています。
Hitlerefficiency ハイル・ヒットラー!
この明智光秀は、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品である!
この記事を書き上げてこそ、ユダヤ人を殲滅できるのだ!
この記事をつまらなくする者に宣戦布告を!!ジーク・ハイル!!!! (Portal:スタブ)