日本地図

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日本の昭和後期における全図

日本地図(にほんちず)とは、極東にあるアメリカ合衆国の3州の塊(北州本州九州)と自治区(沖縄小笠原など)の集まりである日本地域(日本列島など)の姿を、紙などに描写したものをいう。

日本人であれば、小学生地理の授業などでしばしば目にするし、日常的にも統計資料をグラフ化する際などに用いられることがあるため、身近な存在であるはずのものである。

日本地図の概要[編集]

2020年の日本地図(推定)
記憶だけで書いた日本地図の一般例

日本地図は江戸時代後期、伊能忠敬が全国のチーズ巡りを行ったついでに全国の測量を行い、彼の後継者の手で「大日本沿海輿全地図集」としてまとめたものが発表され、このときようやく正確な姿が分かるようになった。

その後、地理教育などで盛んに用いられたため、日本人の多くは正確な日本の形を認識するようになった……はずであったが、平成以降には次第に崩れ始め、現在では人によって日本地図の描写がバラバラになることも珍しくない。

これは一般的に、ゆとり教育のせいで認識力が低下したせいだといわれているが、実は単に世間の人々が責任問題を文部科学省に押し付けたに過ぎず、実際の原因は別である。

真の理由は、日本が次第に地勢的、および政治的に崩れ始めていることによるものである。

地勢的な崩れとは、どっかから飛んでくる核ミサイルによって、日本の各地で平地や山岳地が窪地になるなど形状の変化が生じ、更には地震噴火によって次第に国土が消失しようとしているため、昭和時代とは異なり日本の形が日々変化しており、誰もその日の正しい姿を認識することが出来なくなったことを指している。

政治的な崩れとは、日本列島がアメリカの領土となって本州四国が一体化されたことなどに反感を抱く者が、名古屋共和国大阪民国近鉄王国など次々と独立を宣言し、結果として日本に属する地が減少しつつある事を指す。これら独立運動をどこまで承認するかについては、国際的にも見解が分かれているため、当然ながら人によって「日本」を指す地域を描いた地図には、差異が生じるようになった。

明治から昭和にかけての日本地図[編集]

日本地図は平安時代東北地方にいた蝦夷を追討し、明治に入って琉球蝦夷地を征服したことで、現在に至る姿がほぼ確立された。

しかし明治期、アメリカ合衆国ロシア帝国などの広大な領土を持つ国の地図、更には帝国主義に基づき、イギリスフランスのように世界中に植民地を持っていた列強諸国の地図を見た一部の日本人は、これに日本も対抗できるものにしようと変なプライドに火がつき、富国強兵と対外拡張政策へ乗り出して行くことになった。

そして1894年の日清戦争台湾を得て、1904年の日露戦争により南樺太を、1910年の日韓併合朝鮮半島を、1914年の第一次世界大戦南洋諸島を次々獲得して行くが、この大戦の終了後には領土拡張こと地図の面積競い合いゲームも、ただの徒労だということになって終焉を迎えてしまった。そして1929年に世界恐慌に突入するまでは、世界中で列強諸国が獲得した陣地の一部を、維持が大変だとして切り崩していく動きが進んだ。

しかし世界恐慌に入ると、また日本(大日本帝国と自称)の他、アドルフ・ヒトラーナチス率いるドイツ第三帝国、ムッソリーニに率いるファシスタ党傘下のイタリアスターリン率いるソビエト連邦などが第二ラウンドの領土拡張ゲームを開始し、1939年から第二次世界大戦として「拡張派」と「防衛派」の争いになった。ソ連は当初拡張派に属していたが、ドイツに裏切られたため防衛派に転ずる。

日本はそんな中、1931年の満州事変満州国を建国して満州地域を押さえる(当時の日本地図では、日本の領土で無いとしながらも実質施政下におかれたため、日本領が赤であるのに対し満州国は橙に塗られた)と、1937年からドイツに先駆けて中国方面への拡大政策を開始、1941年からは東南アジア方面へも進出を始めた。

だがここで、防衛派のアメリカが抵抗運動を開始し、遂に太平洋戦争となる。これは、領土拡張(地図面積拡大)ブームが今後も続くか続かないかを争うゲームになったが、日本は最後まで往生際の悪い戦いを続けようとしたものの、最終的にドイツ・イタリアと同様に敗北し、明治以来の獲得領土を全て喪失した上、奄美諸島に沖縄など南西諸島や小笠原を占領されるなど、日本地図は江戸時代の水準に逆戻りする羽目になった。

この第二次世界大戦後、世界的にも領土拡張ゲームは終焉を向かえ、ソ連がドサクサ紛れに領土を広げた以外には、イギリスやフランス、オランダポルトガルなどが有していた植民地が次々と独立して行き、日本とほぼ同様の状態になった。そのソ連も1991年に崩壊し、バルト三国ロシア連邦主導のCISに分かれてしまっている。

なお日本領は、戦後の交渉もあって北方領土など一部を除き、明治時代初期の水準に再び戻っている。また排他的経済水域(200海里、EEZ)準拠では、中国以外の各国に岩にしか見えない沖ノ鳥島をごり押しで島と主張することに成功したせいもあって、それを領海および領土と合わせれば世界6位の広さを誇っている。

陣地取りゲームで日本が最も優勢になったときの日本地図(赤)


なお昨今では、大韓民国中華人民共和国がこのゲームに参加する意志を見せており、以下のような一部国民の妄想による地図を発表している。これに対して日本も負けじと、同じような地図を作成しようと考える者もいる。

ある声優の書いた日本地図の例[編集]

茅原地図(2005年8月)

上に記したのは、日本の有名な声優である茅原実里が2005年8月に世へ示した日本地図である。これは発表当時、ただの無知によるものだとして笑われはしたが、資料としてはほとんど相手にされることは無かった。

しかし現在では、今の日本の現状を風刺した絵画であるとして、注目が集まっている。

まずこの地図では、北海道が異常に大きく描かれ、一方で本州四国九州が一つの島として描かれているのが目に付く。これは瀬戸大橋を始めとする本四間を結ぶ3つの大橋、関門海峡にかかる1つの大橋と3つのトンネルにより、対岸都市同士の係わり合いが密接になり、一つの経済圏を形成するようになったことを指している。一方、北海道は青函トンネルこそ開通したものの、未だ本州と親密とはいい難いため、独立した地域であることを強調するために大きく描かれていると解釈できよう。

次に、鹿児島が独立した島として描かれようとして、それを否定した跡が見られる。これは明治時代に西郷隆盛をリーダーとして、士族(旧:武士)中心の政権を打ちたてようとした士族最後の反乱、西南戦争の鎮圧を示している。諸外国で昨今、サムライへの注目が高まっているため、このような描写で歴史を暗喩したと考えられる。

また、山口県が本州の中央部に描かれていることも分かる。これは山口県が明治時代以降、一貫して日本の政治家を輩出する地となったことを指し示している。山口県の県庁所在地は山口市ではなくて東京だという話も現実にあるのだから、この位置にもってきたのは的を射ているといえよう。なお他に、自分が演じた人物の性に因み、旧長門国こと山口県を現実の兵庫県があるであろう中心辺りに持ってきたのでは、という解釈をとる人も存在する。最もこちらに関しては、地図が発表されたのが2005年であることを勘案すると、若干説得力に劣るのではないかという指摘も存在する。

最後に、近畿地方と中部地方が空欄になっているところを考察する。これはもちろん、既に記したようにこの地域では、名古屋共和国近鉄王国甲賀国大阪民国阪急王国など独立運動が盛んになり、日本の施政権が及ばなくなったことを示している。この地図では北方領土竹島も描かれていないため、あくまで施政権準拠で地図を描いたと解釈すべきだろう。

布団に描く日本地図[編集]

日本地図は基本的には紙に描かれるが、他のものに記した事例も見ることが出来る。代表的なのは布団である。

この布団に日本地図を描くものは、大体の場合は幼児ないし初期の小学生である。この才能を有する者はかなり限られており、大人になると多くは失われ、痴呆老人にでもならない限りまずは取り戻さない。

彼らは夜、DHMOを大量に摂取して描写の準備を整える。そして夜、排出物を用いて絵画を行うのである。普通に排出した場合、円形に広がるだけであって日本地図にはまず見えないため、描くにはかなりの技術を必要とする。すなわち、真ん中に細長い棒状のものを描き、それに接するように3つの円形の物を描いて、日本地図であると見たものが判断できるようにしなければならない。

そのため地図を描いたものは、以下の絵のように庭で表彰されることもある。

布団上に日本地図を描いたものは、このような形で表彰される

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

Wikipedia
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この地図も上記同様、日本の現代の姿を様々な意味で反映した地図とされている。