日常系アニメ

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日常系アニメ(にちじょうけいー)とは、全然日常とはかけ離れた世界を描いているアニメである。

概要[編集]

原作が4コマ漫画であることが多い。登場人物の多くは女性キャラで、概ね小学生から高校生。彼女達の学校生活に焦点が当てられ、ストーリーが進行する。流血や殺人、戦争の描写は全くと言っていいほどなく、可愛い女の子達の和気藹々としたシーンばかり描かれている。

全然日常じゃない[編集]

上の概要で言及した日常系アニメの特徴だけを以て、既に全然日常を描いてなんかいないことが分かる。

まず女の子ばかり出てくるのが極めて不自然である。女子高を舞台としている作品も多いが、女子高を舞台にした作品にしても、女子高の中だけで作品が展開されるわけではない。旅行や街で買い物をする描写はある。しかしそうした場面にも男のキャラは殆ど出て来ないか、出てきても謎の黒装束としてロクな台詞もなく処理されることが多い。

これが何を示唆しているのか、考えられる事実はただ一つ、これら「日常系アニメ」の世界は、「男が抹殺された世界」だったのだ。そう考えれば辻褄が合うし、そうとしか考えられない。おそらくこうした日常系アニメの世界では、既に人間はメスだけで生殖できるようになっており、オスが不要な存在になって自然淘汰されたかホロコーストによって皆殺しにされたと推測される。

そうなれば、真っ先に抹殺されるだろう豚のようなたちがこのようなアニメを愛好しているとされる。しかし、抹殺されそうになっている彼らが本当に好きなのかどうかを探った公正な社会統計は存在していない。「今日も平和だね。君たちがリアルにモテないのは決して世間のせいじゃないんだよ。どう考えてもお前たちが悪いんだよなんすむー」と牧歌的な世界を見せ付けてくる彼女たちに対して、牧歌的に存在ごと排斥されることになる層の方が多いはずだ。

日常にしては平和すぎる[編集]

日常系アニメの多くは作者が日本人で、日本の日常を基準に物語が製作される。

しかし、日本の日常は世界の非日常であることを、孤島に引きこもっている日本人達は気づかない。日本はおかしいくらいに治安が良い国だと他の国々からは言われており、日本人達も平和ボケしている。他の大多数の世界の人々から見れば、日本の日常は天国か、平和ボケした白痴の巣窟であり、一般的な日常とは乖離している。

イラクアフガニスタンでは長年紛争が続いている。アフリカでは医療やインフラが全然発達しておらず、紛争地域も多く、病気と犯罪が常に隣り合わせにある死の世界が「日常」である。中南米は医療、インフラの観点ではアフリカよりは良好だが、格差社会が著しく、ギャングマフィアによる殺人、誘拐、暴行が横行している。平和ボケした日本人から見れば地獄そのものだが、彼らにとってはそれが日常なのだ。

こうした地域にいる人々が、日本の日常系アニメを見るとまずこう指摘する。

「こんなにインフラが発達してるなんてありえない、ここはおとぎ話の世界なのか?」
日常系アニメ について、シエラレオネ
「女の子達だけで街を歩いていて平気とかおかしい。普通ならずものにレイプされるか誘拐される」
日常系アニメ について、エルサルバドル
「道端に死体が転がっていない。」
日常系アニメ について、メキシコ
「店のカウンターに鉄格子が設けられていない。無防備すぎる。」
日常系アニメ について、グアテマラ
「物乞いが一人も出て来ない」
日常系アニメ について、ニカラグア
「俺らの暮らしている日常は普通1日3回ぐらいは銃声聞くんだけど、この手のアニメ一発の銃声も聞こえて来ないよね。これでどこが「日常アニメ」なの?」
日常系アニメ について、パナマ
「街がきれいすぎる」
日常系アニメ について、ブラジル
「女が肌を露出しすぎている、女が学問を受けている、けしからん、アラーの裁きを受けろ!」
日常系アニメ について、イスラム教原理主義者

髪の色[編集]

日常系アニメに出てくるキャラクターの多くは特徴的な髪の色をしている。日常系アニメは多く日本を舞台としており、登場人物らも名前から日本人だと推察される。たまに海外の留学生が混ざっていたりするが、多くは日本人である。

日本人は原則として黒髪であり、染めでもしない限り髪の色が変色することはない。そのため、登場人物達は皆髪の毛を染めていると推察される。髪の毛を染めるような人間がどういう人間か、真っ先に類推されるのは、ゴロツキ、チンピラ、ギャング、マフィアなどである。

以上の点を勘案すると、日常系アニメの主要登場人物達は、ゴロツキ、チンピラ、ギャング、マフィア……つまりアウトローということになる。主要登場人物がアウトローという点で最早全然日常系アニメではない。あるいは、アウトロー達の日常を描いたアニメなのかもしれないが、それにしては、外国人達が指摘したように、これらのアニメはあまりにも平和すぎるのである。

新日常系アニメ[編集]

富野由悠季虚淵玄は「世界基準で通用する、本当の日常系のアニメを作る」ことを信条として、度々本格的日常系アニメを作っている。彼らの作る本格的日常系アニメは、流血と暴力と理不尽な死が蔓延する、本当の日常を描いた作品が多く、外国人も一定の評価を下している。一方で、「やはり御都合主義が多い、平和ボケした日本人が作った作品だ」という批判も受けている。要するに、現実は鬱アニメよりもグロくて救いようがないということである。

彼らの作品では男性が一定数以上存在し、戦闘のない場面でも女の子のほのぼのした会話風景は狭義の日常系アニメと比べて少なめだが、それを少し進化させ、「ほのぼの女の子会話風景」のすぐ隣に「あまりに悲惨過ぎる世界」を描き出す「新日常系アニメ」というジャンルが登場してきている。このジャンルでは、普段は平和にほのぼのと学園生活部している女の子たちが、その延長線上で特に個性を持たない外敵どもを除去する勇者となって戦闘し、ご都合主義的に勝利しても、その過程で味方の方が傷ついていく。

これらの作品では、いたいけな女の子たちの無邪気な平和空間を護るために、泥だらけ血まみれになって戦う不細工でもいざという時に頼りになる屈強な男たちは登場してこない。男たちは「格差社会化の過程で失われてしまったかつての総中流社会の風景」をどこからか見出して家か喫茶店の中でゾンビのように糸色望しているだけだ。実際の総中流社会でどこにそんな戦闘光景があったのかと突っ込んでも、彼らは出所不明の郷愁に浸るばかりで何も答えようとしない。

男子の職分だったはずの戦士としての役柄も少女たちが担わなければならない社会空間が舞台になっているのなら、現実の日常世界ではありえない設定となっている。彼女たちは外部から鑑賞しているだけの大きな男たちを自分たちの引き立て役として親切にすることはあっても、本心から受け入れて自分たちの結婚相手に選ぶことは決してありえまい。

関連項目[編集]