新田義貞

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高氏の野郎をフルボッコにしたる~!!」と勇ましい義貞公。

新田 義貞(にった よしさだ、1300年または1301年 - 1338年7月2日)は、南北朝時代に活躍した武将の一人。足利尊氏同様、源氏の流を汲む名門の出身で、尊氏とはライバル関係にあり、幾度も刃を交えたが、まぐれで数回勝ちを収めたレアケースを除けば負けっぱなしで、吉野の後醍醐天皇達からも役立たず呼ばわりされていた。その噛ませ犬っぷりたるや、今川義元武田勝頼などの比ではなく、多くの高名な歴史学者達から、新田義貞は日本史上最大の噛ませ犬であるというお墨付きを貰っている。

そんな義貞だが、出生地である群馬県と、晩年を過ごした福井県では、一応郷土の英雄ということにされている。しかし福井県は他にも優れた歴史上の人物を多数輩出しているため、人気はそっちに取られて義貞はあまり崇拝、称賛されることはない。一方で、群馬県は義貞ぐらいしか地元のヒーローがいないので、県民から贔屓の引き倒しと言っても良いほど礼賛されている。しかし、そんな群馬県民を以ってしても、義貞が噛ませ犬であるという事実は否定出来ないようだ。

人物概説[編集]

新田氏は、源氏の流を汲む名門の1つであるが、近年の研究によれば、名前の「義」の字は元服時に、足利尊氏の兄で僅かな期間、足利氏の当主であった足利高義から貰ったらしい。というのも、新田氏は足利氏の強い影響下にあり、義貞の父・朝氏の代までは足利氏の当主から「氏」の字を与えられており、義貞にはその字が入っていないからということらしい。高義が死んで高氏(尊氏の初名)が足利氏の当主となり、初めは高氏に協力的であったが、鎌倉幕府滅亡後は互いにライバルとして戦うことになる。

鎌倉に攻め入り北条一門を滅ぼした幕府打倒の最大の功労者だが、その後はライバル足利尊氏に負け続けて惨めな醜態を晒し、最期は越前の辺境で流れ矢に当たって無様な戦死を遂げた。竜頭蛇尾の典型である。

決して凡愚な人物ではなかった。むしろ同時代を生きた武将達の中では充分名将の範疇に入るだろう。が、相手が悪すぎた。さらに上司に恵まれなかった。そして可哀想なくらい天運に見放された男であった。色々な意味で宿敵足利尊氏とは正反対の人物。ちなみに徳川家康は義貞のいとこ世良田経広(世良田次郎三郎)の末裔を称したらしいが、いくら征夷大将軍に就任するため源氏を僭称する必要があったとは言え何ゆえ義貞のような負け犬、噛ませ犬の末裔を自称したのか甚だ不明である。

後醍醐天皇の親政に尽力し帝の為に殉死した人物ゆえ、一応戦前は「忠臣」として持て囃されたが、戦後になると皇国史観補正がなくなり、更に今まで国賊と糾弾された宿敵尊氏の評価が上昇するに伴い、凡将、無能、アホウ、間抜けと散々に貶められた。楠木正成は評価の見方こそ変わったものの扱き下ろされる事はなかったのに義貞はこの扱い、酷すぎる。

南北朝時代を描いた小説などでも大抵噛ませ犬か楠木正成の足を引っ張る嫌われ役として登場する。北方謙三などはしつこいほど愚将、凡将と連呼している。そんなに義貞が嫌いか。

生涯[編集]

前半生[編集]

14世紀前半、上野のド田舎に生まれる。新田氏は新田荘に所領を持つ御家人で、河内源氏の流れを汲む、一応名門の家柄である。しかし同じく源氏の流れを汲むも、有力御家人として北条氏と姻戚関係に有った隣国下野の足利氏と違って新田氏は一介の御家人に過ぎず、しかも義貞の代の頃には他の御家人同様分割相続の弊害、貨幣経済の浸透の煽りをモロに食らって窮乏している貧乏御家人であった。

義貞は新田荘の開拓に精励する一方、幕府に出仕し執権北条氏へ忠勤を尽くす、普通のサラリーマンであった。

だが、楠木正成文観から天皇教に入信するよう勧誘を受けた事で義貞の生涯は一転する。折りしもこの頃、義貞は病を得て勤務を休んでいたのだが、幕府は義貞の健康を顧慮することなく、これを義貞の怠惰であると激しく難詰しており、幕府と義貞との主従の信頼関係には亀裂が生じていた。

朝廷はこの亀裂に巧妙に付入り、後醍醐天皇の元でなら破格の待遇が得られるなど根拠の定かでない巧言令色を用いて義貞をヘッドハンティングする事に成功した。

朝廷は義貞に、もし幕府を打倒した暁には相応の恩賞を与えると約束を取り付けたが、空手形のつもりであった。朝廷は義貞を時間稼ぎの捨て石にするつもりであった。所詮は田舎武士。朝廷にとっては使えるだけ使って用が済んだら弊履の如く捨てるだけの存在である。義貞は1333年幕府軍に対して挙兵したが、集まった兵士は当初は100足らず、朝廷は援軍を寄越すと言ったが寄越さない。義貞軍は風前の灯であるかのように見えた。

しかし義貞軍は破竹の快進撃を見せ、派遣された幕府の討伐軍を次々と撃破、また鎌倉から脱出した足利義詮とも合流して彼を旗頭として仰いだことにより更に軍勢が各地より輻輳し、続けざまに戦勝を重ねてゆき、新田・足利連合軍はたちまち雲霞の如き大軍となった。飛ぶ鳥を落とす勢いの義貞は遂に鎌倉に迫った。

鎌倉は三方を山に、一方を海に囲まれた、攻め落とすのに大変難儀する天然の要害であったが、義貞はいとも容易く突破し、鎌倉に突入、幕府を滅ぼしてしまった。挙兵からわずか1ヶ月足らずの出来事であり、上野の田舎武士など所詮捨て石にしかならないと思っていた朝廷の一同は仰天した。かくして新田義貞は歴史の表舞台に華々しく勇躍した。

噛ませ犬としての後半生[編集]

…が、それからの義貞の生涯は下り坂を転がり落ちる蹴鞠の鞠の如く惨めなものであった。幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の新政が発足されると、義貞も幕府を滅ぼした功績を讃えられ、京都の治安を管轄する武者所の筆頭に抜擢され、名和長年楠木正成ら新興武士と共に、建武の新政内で大いに栄達した。

しかし、後醍醐天皇は義貞ら就中優れた功績のあったものを除いて、御内や公家ばかり優遇したため、疎外された武士達が足利尊氏に叛逆を教唆、躁鬱病の尊氏はこの時躁状態だったので誘いに乗ってしまい天皇に反旗を翻した。この時、尊氏は義貞が鎌倉幕府を滅ぼせたのは、俺が随行させた息子の足利義詮の威光のおかげで、義貞は勝ちに便乗して火事場泥棒しただけの三流だと後醍醐天皇に訴えた。なんとも酷い言い草だが、武士達の多くは、足利尊氏の方が新田義貞より金持ちで金を恵んでくれるため尊氏のこの言い分を正しいと支持した。鎌倉幕府を滅ぼしてからしばらく、尊氏も義貞も鎌倉に留まっていたのだが、尊氏が金の力にものを言わせて武士達を懐柔し、またその悪く言えばメンヘラだが寛容でおおらかな人柄が親近感を得たせいもあって武士達は皆尊氏に刷りより、義貞は孤立した挙句、尊氏に言いがかりを付けられて糾弾され鎌倉にいてもいられなくなり鎌倉から京都へ退去せざるを得なくなっている。上野の雄々しき武士が、政治力で温室育ちのメンヘラに惨敗した瞬間であった。この後、尊氏は鎌倉でやりたい放題するようになり、南北朝の泥仕合が始まる。

義貞は北畠顕家らと共に尊氏の迎撃に当たり、尊氏の軍勢と幾度となく干戈を交えるが、一度は尊氏を完膚なきまでに叩きのめした顕家と対照的に随所随所で負けっぱなしであり、正成からは「こんな薄馬鹿野郎を伴っているとせっかくの建武中興も瓦解しますから、この馬鹿を捨てて尊氏と和睦しましょう」等と後醍醐天皇に注進され、また湊川の戦いではその楠木正成を見捨てて京都に帰還し、奥州から上洛してくる北畠顕家と上手く連携が取れず、結局合流できずに顕家が戦死する原因を作ったりと味方の足を引っ張りまくった。そんな負け続けの義貞だが、箱根でぼろ負けして京都まで逃げる途中、天竜川で追撃してくる尊氏を足止めするため橋を切断して切り落すべきと部下が提案した折には「大工さん達の苦労を水泡に帰すような行為をしてはいけない」と言って制止したというエピソードがあり、下々のものに配慮ができる人格者であったようだ。なお、この逸話を聞いた高師直佐々木道誉は、橋落とさないとかバカじゃねえのと散々嘲笑したらしい。

幕府を滅ぼした功績で辛うじて新政内で地位を確保していた義貞だが度重なる失敗で愛想を付かされ越前に左遷させられる。転戦の最中でいつも自分の代わりに軍の指揮采配を振るっていた番頭格の船田義昌を失ったり、弟脇屋義助に愛想を付かされて去られたりと、文字通り単なるデクの坊と化していく凋落の一途を辿りながらも、めげずに北陸の領国経営と賊軍討伐に尽力した義貞だが、最期は斯波高経の軍勢とたまたま遭遇して交戦になり、水田でもがいている最中に流れ矢が眉間を貫通して討死にした。

この時の義貞の死にっぷりは相当無様であったらしく、首を取った斯波軍の兵士は首を見るまで義貞だと気付かなかった。また義貞の部下達は義貞が水田でもがいて死んでゆくのを遠巻きに見ていただけだったらしい。指揮官のピンチを指をくわえて見ているだけの将兵が何処にいようか、義貞の兵達への指揮がよほど杜撰であったか、兵達がわざと義貞を見殺しにしたとしか思えない。

いずれにしよ、義貞は落ちるとこまで落ちた末に「犬死(太平記曰く)」した。

人物[編集]

今川義元が桶狭間で奇襲を受けて戦死してしまったばっかりに後世に至るまで凡愚の烙印を押されて嘲笑されるように、人の評価が死に際で決まってしまうということがよくある。

義貞も後半生のダメっぷりとみっともない最期から凡庸、愚将の烙印を押されることが多く、迅速、的確な鎌倉攻めも「たまたま上手く成功しただけ」と言われてしまう始末である。しかし、義貞は決して凡庸な人物ではない。

鎌倉攻めに関してこんなエピソードがある。義貞軍は鎌倉に攻め入るため稲村ヶ崎まで進軍したが、稲村ヶ崎は切り立った崖が多く、進軍するには難儀する隘路であった。しかし義貞は干潮によって崖下に道が開け、活路を作れることを察知し、干潮を待って一挙に進軍、鎌倉に攻め入った。

「太平記」によると、この時義貞は宝剣を海の中に投げ込み、神に活路を開く事を懇願したという。果たせるかな潮が引いて道が開け、神の恩寵を賜ったと士気は大いに昂揚した。つまり義貞は干潮を士気昂揚のパフォーマンスにも利用したのである。

このように機転の利く義貞は、やはりひとかどの人物だったと言える。じゃあ何で後半生はあんなに駄目駄目だったの?という話については、諸説錯綜していて判然としないが、以下のようなものがある。

女に誑かされた?[編集]

古典太平記によると、義貞は京での生活の中で某公家の娘である勾当内侍と恋仲になり、色恋にうつつを抜かす内に的確で臨機応変な判断や迅速な指揮など、武将として大切なものを喪失してしまい、彼の采配に悪影響を及ぼしたと書かれている。ここでの勾当内侍は、義貞の人生に暗い影を落とした、所謂ファムファタール(宿命の女)の典型として描かれている。

しかし、勾当内侍なる女性は「太平記」の中にしか登場せず、『梅松論』などの比較的価値が高い一次史料にはそのような女性の名は全く見られない。

これは、軍記物なので当然なのだが、太平記における義貞と勾当内侍のエピソードは物語性が強く現実味に乏しい(ウィキペディア風に言うと「検証可能性」を満たしていない)ことから、太平記の作者による創作である可能性が高い。しかし、田舎育ちの実直で朴訥な男が都会の女との落花流水で人生を狂わせられる、と言うのはよくあることなので、可能性が無きに等しいとは一概に言い切れない。

足を引っ張ったのは朝廷の連中だった[編集]

鎌倉幕府打倒に功績があった、足利尊氏への牽制用の駒に便利と言っても、朝廷の公家達にとっては義貞も所詮は東国の野蛮な武士、所謂「東夷」であり、公家の生まれである北畠顕家や、同じ出自の低い武士でも京都の公家、寺社勢力と緊密な繋がりのある楠木正成らとは乖離しており、密に疎外され、軽んじられていたであろう。

太平記には、顕家が義貞と合流できなかったのは、義貞如き成り上がりの田舎武士に手柄を上げられるのが気に入らない顕家が合流を拒んだからだと書かれている。連帯感が取れなかった責任を義貞一人に押し付けるのは酷ではないか。むしろ正成や顕家ら、朝廷やそれに付随する西国武士に瑕疵があったのではないか。

…と、このようなことをいくら声高々と提唱したところで、濁世の俗人共はヒーローである正成やイケメン貴公子顕家を礼賛し、都合の悪い点は全て義貞に擦り付けてくるのだ。酷いよね。でもこれが現実なんだよね。

中の人が入れ替わった[編集]

前半生の輝かしい武功と、後半生の負け戦に次ぐ凋落…同じ人物にしてはあまりに落差がありすぎる、という疑問から生まれた異説である。

実は義貞本人は鎌倉攻めの激闘の最中討死にしており、その後の義貞は彼の影武者であったというのだ。確かに、そう考えれば采配が衰え、負け戦続きであったこともうなずける。

そう言えば、義貞の子孫を名乗った徳川家康にも影武者説がある。しかもこちらは何回も影武者が入れ替わったという疑惑まで浮上している。果たしてこれは偶然の一致なのだろうか?

福井に波及した義貞の不幸[編集]

いずれにせよ、義貞は天運に見放された男だった。そして彼の不運は、福井県全域に感染することになる。

戦国時代、越前を支配した朝倉義景は、織田信長に追い詰められ、最後は一族にまで裏切られて非業の死を遂げたが、これは義景の無能ではなく、義貞の不運が感染したことが原因である。

朝倉滅亡後に越前を統治した柴田勝家豊臣秀吉との角逐に敗れて滅亡したり、松平忠直を始め、幕藩体制下で越前の藩主を務めた当主達が相次いで発狂したり、幕末期、越前藩を拠点に活躍した橋本左内横井小楠も非業の死を遂げたりしたのも、福井に蔓延した義貞の不幸が原因である。

近年、エチゼンクラゲが大量発生し、福井の漁業が激甚な打撃を被ったが、これも義貞がばら撒いた不運の所為であることは言うまでもない。

群馬に波及した義貞の不幸[編集]

福井のみならず地元の群馬にも義貞の不幸は沈潜しつづけている。 江戸時代中期の吉良上野介はAKO47によるエクスリーム討ち入り、幕末には小栗上野介が明治新政府によるエクストリーム佐幕派残党刈りにおいて見事噛ませ犬を演じた。「上野介イコール噛ませ犬」を印象づけたのもひとえに義貞の噛ませ犬魂の名残といえよう。

漫画家あだち充(群馬県出身)による著作「タッチ」に出てくる新田明男・由香兄妹は義貞の末裔であると言われている。もちろん兄妹そろって噛ませ犬役である。

群馬県出身である小渕恵三元総理大臣の突然の死去も義貞の不幸が伝染したのが原因だと言われており、2001年には義貞の悪霊を除霊する儀式が執り行われた。

同情される義貞[編集]

義貞は優れた武将であったが、身勝手な上司の恣意によって「使い捨て」にされ、越前という冬将軍が吹き荒れる過酷な環境で活動しなければならず、実力を発揮できなかった。かつては凡庸とこき下ろされたが、近年ではそういう人物評が高まりを見せている。環境と上司に恵まれず、使い捨てにされるという境涯は、社畜派遣切りの被害者を中心とする弱者達の共感を呼び、可哀想な武将として同情されるようになった。

一方で成果主義者達からは、どれだけ努力しようと無様な結果しか残せなかったんだから負け犬に変わりないじゃんと辛辣な評価を受けている。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「新田義貞」の項目を執筆しています。