新田義貞

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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「こいつは…その、何だ、誰かネタを振らんか!!」
~ 新田義貞 について、織田信長
「な、仲間だ…。やっと仲間にめぐり会えたよおぉ!!」
~ 新田義貞 について、山内一豊
「高氏の野郎をフルボッコにしたる~!!」と勇ましい義貞公。
高氏の野郎をフルボッコにしたる~!!」と勇ましい義貞公。

新田 義貞(にった よしさだ、1301年 - 1338年7月2日)は、鎌倉時代末期~室町時代初期の新田氏棟梁である。

新田朝氏(1274年 - 1318年)の嫡子で、生母は不詳。通称は小太郎。弟に脇屋義助がいる。子は義顕(辰千代/小太郎)、義興(徳寿丸)、義宗(太郎)、嶋田義央(島田義峰とも)ら。

目次

[編集] 人物・略要

[編集] 前半生

上野のド田舎の御曹司と生まれる。一族の大館宗氏堀口貞満里見義胤らとよく「新田愚連隊」を結成し、参謀に船田義昌に迎え、お隣にいる親戚でもある下野の「麻呂野郎」こと又太郎(後の足利高氏)とよく喧嘩を売りに行った。しかし高氏の父の足利貞氏から罵倒されて、小太郎こと義貞はベソかいてよく祖父の新田基氏(1253年 - 1324年、政氏の五男)に泣きついたのである。祖父もと激怒し、よく貞氏とバトルを繰り返した。そのたびに父の朝氏は調停役となり、両人に対してなだめて尻拭いしたものである。

さらに、一族の岩松政経が園田秀俊と組んで水田の利権を巡ったために、基氏は「分家の分際で、総領家(新田家)にさからうとは何事か!」と激怒して、抗争した。その時に幕府北条高時と貞氏から「身の程知らずめ、無位無官の分際で抗議するとは生意気だ。」といわれ、領土を削減され、不当な処置を受けた。義貞はこれを見ていずれ新田家を再興することを誓ったという。

やがて、義貞は成長し鎌倉大番役、京都大番役を歴任した。一方ライバルの高氏は自分が飽きた側室を譲られたが「俺は要らん!」と一点張りでよくトラブルを起こしていた。高氏のほうは後世の義元のように公家の身なりをして自ら「麻呂はの~」と呼んでいた。義貞はそんな高氏に我慢がならなかった。しかも高氏の弟の高国(後の直義)からも「なんでこんな田舎武士が俺たちの親戚なんだ?」と兄弟そろってよく馬鹿にされた。

しかし、義貞はくじけずに弟の脇屋義助とともに足利兄弟に負けじと勤務に励み、その働きぶりを日野資朝吉田定房に認められ後醍醐天皇(名は尊治)との謁見を許された。天皇は「なかなか見事な武将よの、あの高氏とは違うのう」といって、褒められたという。その間に父朝氏は45歳で、祖父基氏も72歳で亡くなった。

だが、義貞は高時の命で河内の悪党の頭領楠木正成を討伐した。その時に正成は義貞に興味を持ち「おたがいにホモ達になりましょう。私の友人の赤松則村も紹介しましょう」と言って、義兄弟の契りを結び、義貞はさっさと上野に引き揚げた。

[編集] 後半生

数年の歳月がながれ、倒幕を目論んだ資朝は後醍醐天皇から罪をなすりつけられ、さっさと処刑にされた。天皇は隠岐に流された。

しかし、北条氏の当主の高時は「田楽踊り」が大好きで、ますます幕府は弱体化した。天皇は隠岐にいた近江の豪族佐々木三郎時信の手引きで、伯耆の悪党の頭領の名和長年を頼り、ついに倒幕を意思表示した。そのころ、後醍醐天皇の庶長子護良親王も赤松則村の後ろ盾で「この際は高氏を味方につければ万全です」と囁かれ、倒幕の行動を起こした。六波羅探題の北条一門の仲時、時益は勢力を抑えるために、高氏の長男の竹若丸を打ち首にした。これを聞いた高氏は激怒し、仲時、時益らを地雷で爆殺し、ついに倒幕を誓った言う。

上野にいた義貞も、執事の義昌の献策で北条方取締役の北条一門の金沢出雲介親連と黒沼彦四郎らに襲い掛かり、彦四郎を斬った(親連は義昌の縁戚のため助命された)。こうして義貞も倒幕に動き出し、新田一門の大館宗氏、堀口貞満、里見義胤を従えて武蔵の分倍河原に向かった。義貞は一族の世良田経広を近侍として、武蔵七党の頭領の横山孝宣を味方につけて、北条泰家(高時の弟)、桜田貞国(北条一門)らの軍勢を破った(分倍河原の戦い)。一気に鎌倉に攻めて、北条氏を滅ぼした(しかし、極楽寺坂で大館宗氏が47歳で戦死した)。義貞は「これで鎌倉は俺のものだ」と感無量になったが、ライバルの高氏からと制止され、強引にに行かされる羽目になり、その間に鎌倉は高氏が独占してしまった。

義貞は弟の義助と一族と共に官位を賜るが、天皇の「日本は朕のものよ!」とする独占行為についていかなかった。また、征夷大将軍となった護良親王は高氏と仲が悪く「お父上はなんでご自身の名の一字を与え、あの高氏のグズを「尊氏」にしたのか、その根拠がよくわからんな!」と叫んで、高氏改め尊氏を襲った。これを知った尊氏は弟の直義(高国から改名)とともに天皇の御所に行って「親王はわれらを葬ろうとしてますぞ!」と言って恫喝した。こうして天皇は父親とは思えない冷酷な態度で、かつての朝資と同様に「あれは息子が勝手にやったこと」と言って、わが子護良親王を足利兄弟に引き渡した。

やがて、信濃で諏訪頼重 (南北朝)が高時の次男北条時行を奉じて腐った天皇親政を廃し、北条氏政権の再興をしようと反乱を起こした。これを聞いた義貞は「いい気味だ。これでミカドもきっと御目をお覚ましになるだろう」とつぶやいた。しかし尊氏は「これこそ麻呂の天下号令でおじゃる」と公言し、さっさと鎌倉に行った。鎌倉に幽閉された親王は直義から「チッ!!親王が謀反軍に渡されたら厄介だ。」と言って、部下の淵野辺義博(淵辺義博とも)に命じて、これをヌッ殺したのである。こうして尊氏は弟によって強引に朝敵とされた(中先代の乱)。

息子の死に激怒した天皇は義貞、正成を召しだして足利兄弟討伐を命じた。こうして義貞は箱根・竹ノ下に向かった。しかし、大友貞載の裏切りで大敗し(貞載は偽装投降した結城親光に惨殺された)、京都に逃げ戻った。一方、播磨に討伐した正成も赤松則村の裏切りで大敗した。以降から義貞と尊氏のバトルが熾烈に極めたのである。やがて正成は湊川の戦いで散り、もうひとりの盟友の名和長年も比叡山で散り、こうして義貞の戦友はいなくなり「俺はさびしい」と愚痴をこぼした。だが、天皇の側近の吉田定房は「この際は勾当内侍藤原北家藤原経尹の娘)とアーン♥♥ばかりしてる腑抜けな義貞を尊氏らに引き渡し、和睦を結びましょう」と好き勝手なことを言い出した。しかしこのことに勘付いた堀口貞満は後醍醐天皇に緊急に拝謁し「われら新田一門を見捨てるならば、そこにおられる定房卿を血祭りにしてからに願います!」と血走ったので、ビビった天皇に代わって定房は「いやいやほんのジョークぢゃよ…ああそうだ。ミカドの皇子恒良親王に譲位させ、越前で親政したらいかがかな?」とうまく逃げたのである。

こうして、恒良親王は即位し「新天皇」となった。庶兄の尊良親王、義貞らに奉じられ、越前の金ヶ崎城に移動した。しかし尊氏は腹心の高師直高師泰兄弟らを総大将にとして討伐させた。はたして、「新天皇」の恒良親王は捕虜され(その直後に直義らに毒殺された)、義貞の長男義顕、尊良親王らは自害し、金ヶ崎城は陥落した(船田義昌は逃げる途中で凍死した)。

義貞は弟の義助と隣接する藤島城に逃れた(間もなく義助は伊予に赴き、軍を集めるが病死)。しかし、今度は越前守護の斯波高経(足利一門)の討伐を受けた。1338年に、義貞は「俺は新田家、そして源氏の棟梁だあ!!!」と叫んでうかつに水田に転び、「アップアップ」しながら、眉間に矢を受けて戦死した(喉を掻き切った説もある)。享年38(39との説もある)。

武勇に長け尊氏、正成に劣らぬほど活躍し、建武の中興においても中枢に身を置き重用された名将にしてはあまりに呆気ない最期であり、『太平記』の小島法師(児島高徳?)曰く、日本中から犬死であると評されたとか。太平記がNHK大河ドラマ化された1991年には、物語で主要人物が無駄死にする、呆気なく死ぬことを意味する動詞「にったる」が生まれた(完了形は「にった」)。

[編集] 不幸なエピソード

  • 源氏の家系の出身らしいが、彼自身微妙に影が薄いのでそんなことはどうでもいい。
  • 鎌倉幕府を滅ぼした。これが最大にして唯一の功績である。
  • 鎌倉幕府を滅ぼしたと言う最大の功績者であるにも拘わらず、知名度と人気を楠木正成北畠顕家らに奪われた。
  • 足利直義と戦場で敵として再開した時「アンタ誰だっけ?」と言われた。
  • いとこ世良田経広タヌキ顔の爺の先祖と自称されたらしい。
  • 新田氏発祥の地上州ではそこそこ有名であるが、フレーズは「ループで名高い新田義貞」。
  • 中の人が急病やらなんやらで次々に交代した。
  • 彼の最期は、水田でもがいているうちに戦死した。
  • 勾当内侍とのロマンス話もあったそうだが、「とにかく影が薄いため」に誰も義貞の恋愛について語ろうとしない。
  • 総合的に義貞は色々な意味で不幸で影が薄い人物である。


[編集] 関連項目


Image:poruporu.png あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!

『おれは "新田義貞" を見つけたと思ったらそれはスタブだった』
な… 何を言ってるのかわからねーと思うが おれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった… 身長が156cmだとか1が2だっただとかそんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… (Portal:スタブ)