支離滅裂

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支離滅裂(しりめつれつ)とは、一般的に表現の体裁をとっているものの、何かがおかしく、そして何かが狂っていることを受け手に感じさせた結果、表現足りえないと判断される何かである。しかし、一般的には一貫性が存在しないためにおかしいとされる表現であっても、中には意図して一部を抜いたり、意図して狂わせることで、支離滅裂であってもなお、表現を体裁をとるものがいくつか存在する。

この記事では、そういった表現の技術及び事例、さらには実際に使用する際のテクニックも交えて説明する。

概要[編集]

一般的に表現と呼ばれるものには、不文律と呼ばれるものが多く存在する。文章で言うならば、名詞動詞形容動詞、さらにはてにをはなどの助詞を使用することで、日本語としてのフラグを立て、常識というフラグを立て、そして受け手が理解できるという大きなフラグを立てることができる。しかし、世の中には、そういったフラグをへし折ることに情熱を燃やす連中がいる上、さらには時代ごとにそれらの表現にとって必要なフラグが様々であるため、場合によっては支離滅裂であると見なされる過去の文章や、最初から支離滅裂であることを目指す表現、何よりも、本当のことを言うと物理的に首が飛ぶような話を表現する際には、心をこめて支離滅裂にしないといけないというのが、世の中のめんどくさいところである。

各種フラグの説明[編集]

時代[編集]

支離滅裂の中でも特に支離滅裂であるもの。それは、多くの場合、天啓や予言、さらには占いなどの形をとって現れる。中でも、中国の歴史においては、楽しいぐらい、うれしいぐらいにワケノワカラナイ予言が山のように存在しており、そういった支離滅裂な内容を、なぜだか、革命に結びつけることでも知られている。ぶっちゃければ、後世において、その王朝が天によって定められたということにしたい連中が、そういう逸話を創作しまくったせいであるのだけれども、おっそろしいことに、そういった話は日本の江戸時代でも普通に伝えられていて、緑毛の亀が見つかったから吉兆だの証だの、白い雉が見つかったから改元するだのといった、後世から見れば意味が分からない所業についても、当時としてはごく当たり前。むしろ、こういった情勢を把握せずに、人類の歴史を支離滅裂の塊だと思うほうがまずかったりもする。

実際、桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された直後、混乱する幕府首脳陣が何を行ったかというと、幕府の根幹を揺るがす凶事が発生した以上、まずは年号を改めることで、不幸な流れを断ち切るという、歴史を知らん連中にとっては支離滅裂以外何者でもない政治を行っているものの、当時としてはこれが当たり前なのである。

イエロージャーナリズム[編集]

基本、売れればいいのが資本主義におけるマスメディアの本質である以上、たとえ言ってることが狂っていても国家に害をなしても、さらには国際情勢に悪影響を与えたとしても、正義である。たとえ、それが支離滅裂であっても。

ノストラダムスの大予言[編集]

こういった支離滅裂な表現であればあるほど、後世に影響を及ぼしやすいことは、世界中の多くの人々が1999年に嫌というほど味わっている。それこそが、ノストラダムスの大予言とされる一連の予言とされるもので、その中に1999年に地球が滅びるとかいう話があったがために、それはそれは楽しい事態が巻き起こる。しかして、その実態は、作者である占星術師でなおかつ詩人、さらには職業的扇動者、いわゆるイエロージャーナリズムの元祖であるミシェル・ノストラダムス(1503年~1566年)が、生前に詩作した作品を、彼の死語に「百詩篇集」と名づけた詩集に取りまとめたことが、後の災いとなっていく。やけに修飾語が多用されて意味が分からない単語がそこかしこに散見された上に文法もめちゃくちゃ。そして、読めば読むほど人々を不安にさせる暗示がちりばめられるといった、大変に心が掻きたてられるよい文章であったこと、さらには国王の死や後の戦乱、災害など、読み方によってはいくらでもこじつけることが可能な支離滅裂さが、後にそういう話が大好きな連中にいいように悪用されて、結果、こうすれば人をだませるねという大いなるテキストとして利用されることになる。

結局のところ、人々は心をかき乱されると、その理由や答えを求めたくなる生き物である。そのため、単純に意味の分からない支離滅裂な文章であっても、数少ない断片から至極かってに答えを導き出して、これまた至極かってに心の安静を求めようとする。そうすることで、詩人とジャーナリストは糊口を得るのだけれど、いかんせん、過去の名作をいつまでもこねくりまわして数百年もの間、人々を不安にさせて、自分にとって都合のいい解釈から金品を巻き上げる連中が思いのほか多かった結果、支離滅裂についても、1つのテクニックが完成することになる。

わけの分からない何かを積み重ね続けると、人々は勝手に不安がる。そこに、実はこういう意味があっただの、これは予言であるだのと付加価値をつけることで、なぜだか、答えを求めたい人間が勝手に答えを見つけ出すと同時に、多くの場合、一種の宗教のようになってしまって、はたから見るとバカでないかというざまを見せ付けることになる。

朝日新聞[編集]

そんな中、イエロージャーナリズムの極地とも言える支離滅裂さを例示するのに、これほどありがたい存在はないというのが、いわゆる朝日新聞であり、彼らにによる一連の従軍慰安婦問題に関する報道である。つまり、自らがスクープとして大々的に報道した慰安婦問題が、90年代から2000年代にかけて国際的に日本による歴史上最低最悪の人権侵害として日本政府を揺るがし続けたと思ったら、2015年に一連の報道が誤報でした、誤りでしたと認めて社長が責任をとって辞任。自社を揺るがす大問題となったにも関わらず、まったく国民にも政府にも謝罪せずに、さらには、社長の辞任後も慰安婦問題は人権問題だと正々堂々すり替えを行い、日本が人権を無視した国際的な問題であることに変わりは無いと批難し続けると攻撃し続けるその様は、多くの読者及び日本人にとって、支離滅裂どころの騒ぎではない。無論、そうせざるをえない何かが朝日新聞を突き動かしていることは確実であるものの、やってることはノストラダムスの大予言に新しい意味が存在した!だの、もしくは、ノストラダムスに代わる新しい予言の書が見つかった!だのといった話となんら変わりは無い。

せめて、ノストラダムスと同じように、死んでから発表すりゃあいいのにね。

なんせ、この時点で最初に立てておくべき、信頼される情報源というフラグが折れている中で、理路整然と正義を気取られても困るしジャーナリズムを標榜されてもさらに困る。結局のところ、嘘つきだと思われている中で、さして信頼のおける情報源すら提示せずに本当のことを伝えようとしたところで、書いてる人間の頭が支離滅裂であると思われるだけであると同時に、それを校正し掲載する編集部と会社全体のやってることもまた、支離滅裂だと多くの日本人に思われている。そして、その判断はすべからく正しい上に、むしろそのままであってほしいと思われる時点で行き着くところにまで行ってしまっている。

なぜなら、基本的にノストラダムスの予言も朝日新聞の理路整然とした論調も、何かよくないことが起こると多くの人々に思わせる場合に明確な指標が指し示されるケースが多い。特に、ノストラダムスが後世に解読班を編成しなければ意味が分からないしっちゃかめっちゃかな文章の中、1999年に世界は滅びるといった、実に分かりやすい文章が差し挟まれたのと同じように、民主党政権の際に急に朝日新聞の論調が温和になり平和的になり、政権のやることなすこと全てスルー、オールOKという中で、急速に日本が崩壊していったことはほぼ同じ。基本、支離滅裂な連中が理路整然とし始めるときほど危ないことはないことを教えてくれる。つまり、人々を狂気にしさらせる表現というものは、時代の空気と敏感に反応しており、ある瞬間、見えないものが見えるようになるとき、つながっていなかったピースがカッチリとはまったときに、一気にそれまでのフラグを全て回収、理路整然とした論調が形成される。なお、民主党政権の場合は、韓国中国からのバックアップというフラグを全て回収、さらにはリーマンショックの影響でアメリカの経済が没落していったことが、朝日新聞が支離滅裂さを無くすきっかけとなっている。

その結果、どれほどの災厄が訪れたかは定かではないものの、とりあえず、朝日新聞は狂っていないといけないと多くの国民に知らしめるには十分なほどの悲劇が日本を襲うことになる。

文学[編集]

文学なるものは、基本、固定された型枠にシステマティックな言葉をはめることで意味さえ通じればそれでいいなどというわたけた存在ではない。基本、意味程度で無意味を表すことが不可能な以上、型枠を破壊しシステムにバグを発生させ、その上でなお恥知らずな中で文学と名乗り続けることで、積み重ね続けた歴史がある。

支離滅裂でないと表せないものは、世の中には多い。ことのほか多い。

宮沢賢治[編集]

こういった危険極まりない支離滅裂な話もあれば、それとは逆のベクトルのさっぱりワカランけれども、まぁ、なんかいい。という話もそこかしこに存在するのが、支離滅裂というものである。特に、宮沢賢治の童話にはその傾向が強く現れており、クラムボンはカプカプ笑ったよ、もしくは、あめゆじゅうとてちてけんじゃといった無意味な文章と、実は意味のある文章、さらには雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズといった、一目見て誰でも分かる文章が渾然一体となって各作品を引き立たせる手法が、日本の文学に大きな影響を与えることになる。つまるところ、無意味があれば意味が映えると同時に、意味が光り輝くと、無意味と、それに伴う支離滅裂もまた意味を探してみたくなる。幸い、あめゆじゅとてちてけんじゃについては、宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市周辺の方言であることが分かっており、雨雪をとってきて賢治という意味である。なお、クラムボンについては意味不明である。

こういった意味不明を許容させるのもさせないのも、ひとえに技術に集約される。つまり、全部無意味支離滅裂読者発狂作者逃亡、という話よりも、ところどころに意味不明でかつ支離滅裂でも、作品全体に1つのテーマが流れていれば、そこから人は意味を読み取る性質を持っており、その結果、クラムボンという五文字を推察することが1つの学問となっていく。あわせて、こういった無意味から意味をつむぎだすことで人間の創造力が鍛えられるため、クラムボンがなんであるかは特に重要ではない。むしろ、こういった答えが存在しない問いにどう反応するかが1つの答えでもある。つまるところ、支離滅裂な表現にはそういった別の意味が付随される。

場合もある。

リズム[編集]

人間は、リズムにさえ乗れば、意味を求めようとする生き物である。そう思わないと到底理解できないというか、意味が分からないで押しつぶされるような表現が世の中には存在しており、押しつぶされた人間がなぜ押しつぶされたかを長く考え続けるという話がある。まぁ、意味から求めると絶対に開かないドアの前で、多くのチューコーセーやリセーで物事を考えたいレンチューが野垂れ死んでいる中、ちょちょちょいと老子荘子ゲーデルの不完全性定理でも使用して、世の中には絶対にたどり着かない答えや無為の為といった自分の考えを抜いて事象を考える技術を持たないと、基本、若ければ若いほど、どこかで何かにつっかかる。

その結果、1960年代よりロックンロールが世界を席巻することになり、ラップは、少なくとも英語圏においては、新しい表現方法およびリズムであると認知され、なおかつ、巨大市場として成立することになる。もちろん、そのせいで世の中には誰も気にしないという反作用が広く知れ渡ることになるけれど。

談志・円鏡歌謡合戦[編集]

1960年代に放送されたラジオ番組の中でも、伝説と謳われた作品の一つ。内容は、立川談志橘家圓蔵(当時、月の家円鏡)が掛け合いで当時のニュースやなにやらを話し合い、場面の転換で木魚のポン!という音が入るという単純な構成な番組であるのだけれども、まず新進気鋭の落語家同士の掛け合いという時点で、語りの技術がものすごい上、そもそも初めからノープランな状況の中でお互いがお互いの言葉を拾い続けるために話が支離滅裂どころの騒ぎではなく、支・離・・・滅・・・・・・裂レベルで話が通じていないのだけれども、信じがたいほど面白い。とにかくも、2人の落語家の掛け合いのリズムと即興のネタの即興ゆえの面白さと、意味を求めると死ねるという恐ろしさが両立した番組である。実際、会話のキャッチボールではなく言葉でのボクシングであることを理解しないと、意味不明がボディーブロー、しかも正確に肝臓に突き刺さるレベルで襲い掛かってくる。

なお、この番組のせいで円鏡の才能が枯れたんじゃねえかっていう話については、異議を唱えたい。ただし、この番組以降、守りに入るのも仕方ない。

ちなみにこの番組の恐ろしい話として、基本、2人の掛け合いについて録音で行っていたため、どうしても編集によって掛け合いを切って番組の時間内に2人の掛け合いを収めないといけなかったのだけれど、もともと支離滅裂だから切りやすいかというとまったくそんなことはなく、編集に当たったディレクターがノイローゼになったという話が存在するレベルで完成された支離滅裂という、意味が分からないエピソードがある。

あわせて、この番組について当事者の談志はいろいろと芸の深遠に迫る話を残しているのだけれども、絶対に説明してはいけないため説明しない。

宗教[編集]

世の中には、預言者のハゲを馬鹿にしたらが現れてバカにした子供達を引き裂いたことが、なぜだか神のなされし正しき行いとする宗教が存在し、しかも世界中でその教えが広められているように、宗教というものの中には、意味が分からないものをつなげつなげて無理やりに意味をもたせるような行いが正当化され、技術化されていった歴史が存在する。特に近代以降、そういった技術がより洗練され、より分かりやすい情報として広がるようになっていくと、その根っこにある、支離滅裂な傾向もまた嫌になるほど増えていく。実際、天皇だろうと大統領だろうと総理大臣だろうと気にしないで背後霊を召喚するくせに、自分の家族の背後霊には無頓着なワケワカラン宗教がポっと出たり、戸田城聖に芸事を仕込まれた名誉会長の過去を世の中から抹消したい学会が世界平和や人間革命を謳っていたりと、新興宗教というものは、実に清廉さとは遠く離れたカオスの只中にある。

まぁ、世界三大宗教の創始者の1人が、9歳の女の子に手を出したかどうかで1000年以上も紛糾し続けるのもまた宗教というものである以上、血が流れないんであれば支離滅裂程度で済めばまだマシ。むしろ、宗教対立で戦争を起こすぐらいなら新興だろうと古参だろうと理路整然でも支離滅裂でもどうでもいいので、静かにやってほしいというのが主な部外者の感想でもある。

出口王仁三郎[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「出口王仁三郎」の項目を執筆しています。

耳で見て/目で聞き鼻で/物食ふて/口で嗅がねば/神はわからず

表現というものを大体2通りに分類し、1つは過去からの継承、もう1つを新しいものの創造とした場合、後者が成功するような人間はまあマレである。人々に受け入れられるような新しい何かを生み出せた上、それで生き延びる芸能人は、だいたい1年に3人程度。そのぐらいの人数、過去に見たことのない歌や笑い、形容しがたい何かを生み出せたとしたら、その国の芸能はしっかりと維持されていると言え、人々の心の余裕は十分にあると判断できる。しかし、世の中にはその創造というやつの苦労をまるで気にせずに垂れ流し続けるというおっそろしい存在がいて、特に、それが新興宗教の教祖という立場であると、大変なことになる。特に、神からの言葉という基本的に支離滅裂な言葉のつらなりと、それを繋げようとする努力が、時代を作り出す作り出す。

まぁ、信者のほうでも御神託から意味を見出そうとする作業と神話を綴りだしていく作業を繰り返すことで、支離滅裂な時代の情報、空気をつなぎ合わせることに長けるようになる。その結果、ギリシャ哲学が勃興することになり、悲劇や喜劇が発達。また、日本においても平安時代からもたらされた密教陰陽道などが、そういった御神託などの支離滅裂な何かを朝廷文化にもたらし、その結果、大変に日本色に染まった仏教や、日本独自の神道が平安期の宗教文化を築き上げていく。と同時に、平安文学が最盛期を迎えることになるのも仕方ない。ワケノワカラナイものから意味を見出し、それを意味があるようにつなぎ合わせるという技術を発達させれば、自然とそうなる。

と同時に、世の中の先を見たい見据えたい人々が、そういった勢力に飛びつくのもまた致し方ない。

というわけで、大本教の教祖にして昭和の歴史に名を残す化け物、出口王仁三郎については心をこめて深く語らないことにする。とりあえず、出征する信者のお守り袋の中に「我敵大勝利」と書かれた紙を仕込んだ上、日中戦争の時点で正々堂々将来の日本の敗北を預言、それも大日本帝国滅亡まで公言した結果、一宗教に対する国を挙げての大弾圧を食らう時点で、創価学会程度では比べ物にならない。また、その滅亡とやらを正確に当てる時点でいわずもがな。結局、時代の中に潜むてんでバラバラの情報をトランス状態でつなぎ合わせて神の言葉にするという話は、信者にとっても国にとっても時代にとっても実に破壊力が大きい。そして、そのトランス状態を数十年にわたって維持すると、まあ、大変なことになりやすい。

アンサイクロペディアにおける支離滅裂[編集]

以上のように、世の中には様々な意図を持った支離滅裂が存在しており、その意図を汲むことでバラバラな情報をつなぎ合わせるという技術もまた存在している。その結果、推理小説SF小説など、何かのを機軸とした物語には必然的に読者の期待が生まれ、意味不明なものがつなぎあわされる喜びを読後感として得ることに勤しんでいる。しかし、そういった作業はどうしても経験が必要であり手錬れの書き手や編集などが介在することでつなぎ合わされるか、そうでなければ放り投げっぱなし。結果、意味不明、支離滅裂なまま作品をぶん投げる人間も多く、実際、アンサイクロペディアでもそういった書き手の文章、ネタについては一文に触れただけ、見た瞬間にオチが想像できるようになる。なってしまうレベルで多い。多すぎる。

曰く、バイト数が絶対的に少ない、テンプレート使用過多、思想の偏向に堪えられない情報量の無さと分析力の少なさ、何より読まれているのは書き手自身という自覚の無さが、支離滅裂なネタを継続的につなぐ努力をせずにそのまま記事を消去させるきっかけとなっていく。かくて、文学は悪貨ならぬ、悪文の元に廃れる。

けれども、世の中には上記のようなフラグを隠して、意味不明の名の下にネタや技術をふんだんにぶち込んで世の中にはまだ面白い人間がいるということを証明する連中もやはりいる。そのため、決して支離滅裂を否定してはならないのもまた、アンサイクロペディアである。

不条理[編集]

支離滅裂と並ぶ、もう1つの理路整然の敵というかアンチテーゼ、それが不条理である。すなわち理路整然と進むことが全て世の中のお約束、条理となっている中、それがぶっ壊れる際に一文字「不」を頭に添えて使用され乱用されるのだけれど、実に困ったことに現実世界にはそういった理路なんとかと動いていくシステマティックな活動が、時間をかけて少しずつ変化するより早く、むしろわずか1秒で世界ごと壊れていき、不条理が蔓延するという話が存在する。というのも、世の中に条理が蔓延すればするほど、あるきっかけで瞬時にお約束が壊れることが多く、結果、不条理に巻き込まれた人々に支離滅裂に近い別の条理すなわちお約束が襲い掛かってくる。

その昔、ベストセラーとなった「マーフィーの法則」にあった法則の1つにワインバーグの法則というものがあり、「プログラマープログラムを作成するように建築家がビルを建てれば、最初にやってくるキツツキによって文明は崩壊する」。というシニカルにもほどがあるネタがあるのだけれども、とりあえず、嫌になるほど例示したけど気にしないでまた例示する2011年3月11日、そのキツツキが飛んでくる。

というわけで、この日に発生した東日本大震災では理路整然とマグニチュード9.0のエネルギーを太平洋の海底に叩きつけ、その結果、最大で40mを越える大量の塩分を含んだ水が東北地方沿岸を襲うことになり、当たり前の話であるけれど、2万人を超える人々が一瞬で海に消える。20兆円に迫る財産もしかり。これも世の中の条理というか、日本の災害の歴史の中でのお約束なのだけれども、実際は直後に起こった福島第一原発事故も含めて、幸福を財産を故郷を命を失い、人生感をバラバラにされた数十万人、数百万人、数千万人もの人々の前に、ただただ不条理の三文字が重くのしかかる。

逆に言うと、世の中の理路整然というものはその程度のものでしかない。そして、積み上げてきたシステムや歴史、常識などという話は一瞬で瓦解するからこその世の中である。そこから始まる楽しいカオスにこそ、支離滅裂という言葉の本当の意味がある。

これまた、関東大震災阪神大震災でよく見られた光景であり、その後の動きもまた、政治に疎い与党による無意味な政争や嵩にかかった他国からの圧力、日本経済の混乱に加えて思った以上に打たれ強い日本人という現実を知り、絶対に忘れない恨みや恩義といった感情でバラバラになった価値観をつなぎあわせていく。日本の災害の歴史によくある光景である。

で、何がおっそろしいかというと、そういう価値観の再創造というものは、実は技術の塊である。不条理を受け入れて支離滅裂を繰り返し、ありえない結論に至ったとしても、ただただ現実を突破口としてそれを次の理路整然にまで組み上げていく。そして、組み上げた同士でぶつけ合い、壊しあって、再度また組み上げていく。いつもすぎる時代の光景である。

そういった、時代を創る、もしくは新しい価値観すなわち理路整然、条理、お約束を受け入れる作業において、上記の支離滅裂の事例がどれぐらい役立つやら。むしろ、世の中の表現というものの価値はそこにあるというレベルで、ぶっ壊れた価値観をつなぎ合わせるのに、もしくは価値観がぶっ壊れても理性的でいるのに、さらには、ぶっ壊れたままでも腹を据えて時代の動きを見極めるのに役立つやら。とりあえず、ジェイムズ・ジョイス万歳。安倍公房さんありがとう。寺山修司さん最高!T・S・エリオット氏は神様です。加えて、立川談志は化け物で、大野一雄はキチガイでサミュエル・ベケットもやっぱりキチガイで、サイバラも調度よい具合に頭が発酵していて、ブルーハーツもそう思えばこそ理性的。友部正人たま山海塾別役実電気グルーヴ唐十郎マイルス・デイビス土方巽ラーメンズ友川カズキが常識が壊れることを教えてくれたように、世の中も壊れる。その覚悟があるかないかで、その後の自我を取り戻す時間が変わっていく。実にクソめんどくさいことに。

大災害と戦争は世の中が支離滅裂でも死にはしないことを教えてくれるけれど、そういった別の意味での理路整然はひたすらに住みにくい生きにくいこともまた教えてくれる。

ハナモゲラ啄木[編集]

いい加減、支離滅裂という記事において理路整然とした思考に関する技術ばかり取り上げるのもなんなので、信じがたいほど役に立つ支離滅裂を使った創作の技術について記載する。それは、石川啄木という異常に情景を575に組み込むことに長けた歌人の作品を最後の部分だけ使用、最初の5757の部分をハナモゲラで代用することで、なぜだか、そこに、一種独特の作風が生まれることを楽しむと同時に、作り手の耳を鍛え、なおかつ、支離滅裂をリズムでつなぎ合わせる訓練を行うものである。

ちなみに、やろうとしていることは大橋巨泉ハッパフミフミとさほど変わらないけれど、「ぢっと手を見る」や「泣けとごとくに」、「かにとたわむる」といった情景が、ひとたびハナモゲラと組み合わさることで、なぜだか、そこに意味が見えるようになると同時に、機械的に生み出される言葉の最後に情景を差し挟むことで、即座に、何度でも、イメージを組み合わせる訓練ができる上、場合によってはそこからネタも拾えるという素晴らしさ。やりすぎると死ぬけれど、やらないと世界中に隠れている支離滅裂の物量に耐えられない。

あわせて、この作業をやると、創造力と新語作成能力、何よりも、くっそむりやりに情景を伝えようとするのに、リズムがあるとものすごく楽になるという実感が得られる。よくも悪くも

実例[編集]

  • わただにて/あてひぬさぎの/きつほかば/よゆらさめぬも/ぢっと手を見る
    • 和多田にて/当て射ぬ鷺の/傷ほかば/夜揺ら覚めぬも/ぢっと手を見る
      • 和多田(佐賀県唐津市)で鷺を弓で射た際、鷺は傷もそのままに逃げてしまった。あの鷺のその後を思うと夜にふと目が覚めたとき、ぢっと手を見てしまう。
  • ゆふるをも/たなとたまたむ/なまかのの/あへのひでしく/かにとたわむる
    • 揺ふる尾も/たなとた待たむ/生狩野の/遭への日で如く/かにとたわむる
      • 飼っている猟犬が、かにとたわむれながら尾を揺らしている。狩場で獲物を追う日をまだかまだかと待ち続けているように。
  • なむろかぜ/こそぎさやへや/さしりゆに/なほあへずりを/泣けとごとくに
    • 南無炉風/こそぎ鞘へや/差知り湯に/尚合い磨りを/泣けとごとくに
      • 南無三、炉から吹く風よ。一度刀身をこそいで(削り取って)鞘へと戻そうと差知り湯に浸けたというのに、鞘にあわせるために尚研磨せよというのか。泣けとごとくに。
  • ゆもをじの/なじろなるしに/こちかれる/よるつきやをも/よくも悪くも
    • 由裳緒路の/名代なる死に/東風枯れる/寄る月夜をも/よくも悪くも
      • 由→経由の由。いわゆる「田子の浦ゆ/打ち出でてみれば/真白にそ/富士の高嶺に/雪は降りつつ」の和歌で知られる
      • 裳緒(もを)→裳ひも→天照大神が天岩戸に隠れた際にアメノウズメが性器に入れたまま踊った紐。
        • ある年の4月、ヤマト王権の名代(なしろ)の子供の1人が難産により、産道から生まれた直後に亡くなってしまった。東風も吹かず、月を隠す夜であるけれど、だからこそ今の状態にはあっており、だからこそ、今の状態は悲しい。

ナンセンス4コマ[編集]

こういった、リズムさえ存在すれば人々は支離滅裂であっても意味をつなげる、つなげようとする性質を持つことを利用した表現の中で、最も人口に膾炙しているものが4コマ漫画の中の一分野である「ナンセンス4コマ」である。それは、ハナモゲラ啄木のように最後の最後で強烈な意味を有するコマさえもってくれば、その前の3コマ全てをハナモゲラ、もしくはマヌーサ、なんだったらメダパニにすることで読者を混乱させて4コマ目で作者の世界に引きずり込むという、大変に理に適った表現の戦術から始まったものであり、1970年代の漫画雑誌ガロで培われたテクニックがその根本にある。もちろん、つげ義春からの伝統にきまつてるぢやないですか。けれども、いかんせん、こういった技法を駆使しようとすると、まずその当時というのは、パソコンを通じての機械的なハナモゲラが生むような環境が存在しなかったため、何がナンセンスで何が意味かを最初は理解していても、次第に自分の表現で自分がやられるというアホな話が多かった。狭い世界でマヌーサやメダパニをかけ続けていく中で、何が面白く何がおかしいのかが次第に分からなくなっていき、作者の無意味が作者の精神を蝕んでいく。まるで、部屋に目張りをして七輪練炭を焚くような光景である。その結果、ガロはキチガイばかりという話になり、ナンセンス4コマは作者が潰れることで名高い存在となり、逆に潰れないレベルで使いこなす作者のつえーことつえーこと。ぼのぼので知られるいがらしみきお氏や伝染るんです吉田戦車氏などは、まさにそういった、支離滅裂を技術として使える4コマ作家の代表である。

まぁ、あのレベルで無意味に、ナンセンスに、言葉のいらない情景をぶち込むには、そういう表現に対する耐性を持ち、そういう表現を解体して、表現のシステムを見て計算して理解できる人間だけである。

と同時に、こういったナンセンス4コマの手法を普通の4コマに取り入れた存在もいるわけで、4コマ漫画のトップを独走する植田まさし氏は、こういったハナモゲラ的な手法でネタを考えていることで知られている。尚、植田氏の場合、ハナモゲラのような無意味で機械的な言葉を作り出すようなシステムではなく、ちゃんとした単語を3つ機械的にパソコンに表示させるという手法を10年以上続けており、それは落語で言うところの三題噺と同じ、つながらないものがつながる面白さをメインに4コマ漫画のリズムに合わせて表現することで、決して尽きない上、絶対に人とかぶらないネタの源泉を手に入れている。無論、4コマ漫画の歴史に名を残す氏であるからこそ出来る手法であり、そもそも、4コマ漫画の技法という面で、構図、背景、ポージング、しぐさ、モブ、その他もろもろ、植田氏の表現の技術の引き出しの多さを思えば、人とさえかぶらなければ十分に人を楽しませ続けることができる。

が、残念というか当然な話として、こういった植田氏のような尽きぬネタの泉を使いこなす手法について、自分は耐えられても読者にそれを受け入れさせるには、まず何よりも作者の人格が必須になる。そのため、たとえ新人作家がナンセンス4コマをいくらでも描けると豪語したところで、ただ一言、狂ってる。で終わり。そらそうだ。4コマ漫画、もしくは人の表現を楽しむには、何よりも面白さへの信頼が必要で、作家の人格や実績、何よりもそれらをコントロールする編集部の力量がない中で、単に狂ってるから楽しめというわけにはいかない。メシ食ってるのにクソの話が面白いと感じるようなら、確実に人と違うセンスではあるけれども、近づきたくなく、近づけたくない。そういった常識を有さないと、そもそも、表現に向かない。であるからして、単に人と違う表現を手に入れたムキー、とかいう連中がポっと出た後、すぐに消えていくのも世の習い。

だからこそ、最後の啄木は必須になる。なんだったら、ハナモゲラ朔太郎でも、ハナモゲラ中也でもいいけれど、支離滅裂な中に一滴だけ指針を落とすことで、急速に表現が締まる。で、締めないまま人と違う表現をすると、作者ごと忘れられる。ナンセンス漫画によくあるパターンである。

老荘[編集]

古代中国の大思想家である孔子、ではなく老子荘子について。せっかくなので端的に面白みを抜いて語る。世の中の理路整然に対して公然と反旗を翻したこの2人の思想については詳しくは語らない。ようは、孔子が理路整然であることが正しく、そのためのルールをとことんまで整備した裏側で、その思想を否定してルールを破るためのルールを整備したのが老荘の思想である。そのため、理路整然というものの弱さを実に具体的に説明しており、つながっているもの整理されたもの綺麗なもの正しいものが、たかが戦争、たかが災害、たかが死によってしっちゃかめっちゃかになる様を冷徹に指摘。孔子の思想の集大成である儒学が栄えれば栄えるほど、彼らの思想もまた栄えていくことになる。

そらそうだ。孔子のほうは支離滅裂だったものが次第に理路整然となった後、いつまでもどこまでも続く理想的なものと考えているのに対し、老荘のほうは支離滅裂から理路整然になるのも、理路整然が支離滅裂になっていくのも1つの流れと割り切っているため、そらあもうそらあもう。とりあえず、儒学の影としての立場と古代の思想実験としていつまでもどこまでも後代に伝えられるのが当たり前な話に満ち溢れている。

けど、せっかくなので、説明しない。よすぎるので、説明してはいけない。

関連項目[編集]