折田彦市

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折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日1849年1月27日) - 1920年(大正9年)1月26日)は、日本のコスプレイヤー。第三高等学校(旧制・現在の京都大学の前身)の初代校長であり、長期にわたって校長を務め、旧制三高の自由の学風を築いたとされる。死後もなおコスプレイヤーとして活発に活動していた。

概要[編集]

逝去後にその功績が称えられる例は数多く存在するが、現役で活動を継続するケースはきわめてまれである。また、彼を慕う自由の学風の京大生からコスプレ用衣装を多数提供され、多くの人々を楽しませた。

銅像としての本人の活動は現在は休止中であるが、多くの自由の学風の京大生によって彼の銅像を模したハリボテが作成され、今もなお人の目を楽しませている。

コスプレイヤーとして有名になったのは彼の死後、1940年に彼の功績を讃える銅像が自由の学風の京都大学内に設置されてからである。ただし設置当初は、さしたる活動は行われなかったとされる。銅像は、第二次世界大戦の金属供出のため一旦撤去されたが、1955年に再建された。その後1990年頃~1997年3月までコスプレイヤーとして活動するに至った。

コスプレイヤーとしての業績(一部)[編集]

ズキューン!
※上記にはハリボテとしての活動を含む

生涯[編集]

折田先生は、薩摩藩士の子として鹿児島に生まれた。4人兄弟の長兄は薩英戦争でイギリス軍艦に殴り込み、三兄は戊辰戦争で戦死しているという、純血戦闘民族の一員である。若き日の名は権蔵。

子供のころ、藩校造士館に入った折田先生は、2歳年上の森有礼と知り合う。森とは以下述べるように、生涯にわたって深い関係を結んでいる。「深い関係」を邪推するのはクソッたれた耶蘇どもだけである[1]

時は幕末、風雲急を告げる中、薩摩藩は20歳の折田先生を岩倉具視のもとに送り出し、連絡役にした。後年の先生は笑みを浮かべながら「若いころには岩倉公の護衛にあたったこともあってなあ」と控えめに語るのだが、騙されてはいけない。幕府の犬どもに「人斬り権蔵」と言われ恐れられたのはおそらく折田先生であり、正体を隠してのひそやかな護衛や、諜報・暗殺活動の潜行、敵への威圧のためにさまざまな変装を凝らすようになったと考えるのが妥当である。岩倉の陰謀検閲により削除検閲により削除にあれこれ関わっているに違いない。これは安っぽい陰謀論などではなく、勝者によって隠蔽された真実である。

戊辰戦争においては、官軍総督に祭り上げられた岩倉具視のあまりぱっとしない息子二人を護衛するため、金襴緞子でできた多数の端切れを身にまとい、敵を威嚇する派手な装束を身につけて戦闘に参加した。「お馬の前にヒラヒラするの」[2]と謡われたのは若き日の戦士折田権蔵である。しかし激戦が続くさなかに岩倉は出来の悪い二人の息子を安全な後方にさっさと引き上げさせ、長崎にあった「致遠館」という学校に入学させることにした。折田先生も岩倉の息子たちのお供として一緒に学ぶことになった。この学校はフルベッキという耶蘇の宣教師が英語と英米文化を教えているところであり、折田先生はハロウィンクリスマスを通じて仮装・コスプレの楽しさを知ることになった。致遠館の学生たちが同時代の西郷隆盛明治天皇のコスプレを楽しんでいる写真があるのだが、一部の人は実際に西郷隆盛や明治天皇が写っていると思いこみ、伝説的な国際コスプレ集団フリーメーソンの関与を疑う人間まで出るほどの出来である。なお、折田先生は坂本龍馬のコスプレをしており、世の中には坂本龍馬本人と勘違いするそそっかしい方もおられる。頭の悪い陰謀論者は検閲により削除ばいいのに。

コスプレに目覚めた折田先生は、1870年にフルベッキの伝手でアメリカに渡る[3]。1872年、異国での浪人生活の果てに、あまり得意でなかった英語も克服、名門ニュージャージー大学(現在はプリンストン大学と呼ばれている)に入学を果たしたのであった。合格の記念に、気になっていたクロッケー(ゲートボールの原型で、当時アメリカのナウなヤングの間で大流行だった)の道具を「自分へのご褒美」として買っちゃうのは、折田先生のお茶目な一面である。大学入学の保証人になったのは森有礼(当時駐米公使)。ワシントンからわざわざプリンストンくんだりまでやってきて、折田のために手続きをしてくれている。

折田先生は大学でリア充生活を堪能し、スポーツに汗し、男の友人も女の友人も多くモテモテ、日本人の留学生仲間とも盛んに文通する社交的な性格であった。大多数の京大生とは大違いである。在学中には、耶蘇教について真剣すぎるほど向き合い、洗礼を受けてクソッたれた耶…敬虔なクリスチャンになった。いち早くクリスチャンになった森有礼の影響があるともいう。森の影響力が強すぎじゃないか。ともあれこれで、折田先生はハロウィンやクリスマスでも大手を振ってコスプレができるようになったのである[4]

1876年、大学を卒業した折田は帰国、文部省に入省し、得意の語学能力を活用して通訳などを務めていた。1878年、森有礼(当時外務大臣)に引き抜かれて外交官に任命されたが、病気のために任地のローマには行くことなく、コスプレ外交官になってしまった。折田先生がイタリアに行っていれば日本にまた別のコスプレ文化が導入されていたかもしれない。文部省に戻された折田は、1879年に体操伝習所という体育教師養成機関(筑波大学の前身の一つ)の校長に任命されるが、これにはかねてから日本の体育教育の立ち遅れを指摘し、折田のマッチョぶりに期待を寄せていた森有礼の意向が働いているらしい。どんだけ引っ張り回すのだ森。ジャージと竹刀という体育教師のステレオタイプは、折田によって創造されたと言える。

1880年に大阪専門学校の校長に着任。これが「三高」との関わりはじめとなる。大阪専門学校はそのあと「大阪中学校」「大学分校」などと名前や制度がくるくる変わり、文部省に対して報告書でブチ切れる折田先生という珍しいものも見られる。明治政府が上から整備していった高等教育と、下から整備していった初等教育をどうつなげるか、この時代の日本ではまだ決まっておらず、中等教育の整備には折田先生がいろいろ役割を果たしているのだ。折田には「大阪中学校」を拡充して大学を作ろうという構想があった。1885年には文部省の本省に呼び戻され学務局長になった。またしても森有礼(当時文部大臣)のしわざである。

1887年、第三高等中学校(大学分校が折田の留守中に改名。第三高等学校になるのは1894年だが、めんどくさいので以下「三高」とする)校長として現場に帰る。折田先生は三高の大阪から京都への移転を実施し、これにより「京都の三高」になる。この間に現職文部大臣の森有礼が暗殺されてしまう。折田先生がいたく悲嘆に暮れたであろうことは容易に想像がつく。「【欧米かぶれ】現職大臣が伊勢神宮で不敬【反日森】」というまとめサイトのデマを考えの足りない愛国者気取りが真に受けたためである。ゆえにアフィブログは滅ぼさねばならない。

1897年、京都帝国大学が設立された際に、折田先生は大学設立の委員に加わり、新大学の総長有力と世間は噂していたのだったが、結局京都帝大の総長にはなれなかった。後ろ盾になっていた森有礼が横死したのが影響したんじゃ、というのが専らの評である[5]。それが幸だったのか不幸だったのかはわからない。折田彦市は、学生に愛される三高校長として1910年まで務めた。

なお、三高退任後の折田先生であるが……

わしが武専校長折田彦市である!!

あまり知られていないが、京都にあった大日本武徳会武道専門学校の初代校長というものを務めている。武道家の専門教育機関にして、やれ在校中に何人死んだだのの、卒業後何人が軍の特務機関に行っただの、要はリアル男塾である。余生は江田島平八のコスプレをしたかったのではという説のほか、「自由な三高の温厚な校長」という生き方もコスプレではなかったかという疑いを提唱する専門家[誰?]もおり[6]、議論は分かれている。

その折田先生も、病の前には勝てなかった。1920年、スペイン風邪にて死去、享年71。アンサイクロペディアには「天国にコスプレしに行く」と追悼記事が出された。

現在の先生[編集]

死後なお活発に活動するさまを心配した京大職員により、1997年3月からは京大博物館の倉庫に木箱に入り、再度眠りに就いている。しかし先述の通り、彼を慕う多くの自由の学風の京大生により、銅像を模したハリボテによって活動を継続している。しかし銅像本体による活動の再開が待たれることは、あえて書くまでもない。

脚注[編集]

  1. ^ 衆道は麗しい日本の伝統なので気にする必要はないし、オリモリであれモリオリであれむしろ推奨すべきであろう。
  2. ^ 「あれは検閲により削除の、折田の権蔵じや知らないか」という歌詞が続いていたが、品川弥二郎が一晩でこさえた布っきれを称えるための、お上品で政治的に正しい歌詞に替えられた。
  3. ^ 岩倉の二人の息子が絡むのだが省略。ウィキペディアの専門家気取りに任せた。
  4. ^ 大多数の日本人がキリスト教徒でもないくせにコスプレをする今日とは社会状況が違うことに注意されたい。
  5. ^ 三高校長退任後の1910年、貴族院議員のコスプレが公認されている。森の後ろ盾があったならば、「高等学校の校長」にとどまらず、文部大臣や男爵のコスプレをする折田彦市という可能性もありえたかもしれない。
  6. ^ ちなみに折田先生は6男2女の子宝に恵まれたが、男子のうち2人が陸軍軍人になっているところに、武人の血の強さを感じさせる。

関連項目[編集]

Wikipedia
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外部リンク[編集]


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