把瑠都凱斗

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把瑠都 凱斗(ばると かいと、1984年11月5日 - 、本名:カイド・ホーヴェルソン Kaido Höövelson )は、旧・エストニア・ソビエト社会主義共和国 (現在のエストニア共和国)出身(出生地尾上部屋所属の現役相撲レスラーで、スウェーデン系エストニア人。身長198cm、体重189kg、血液型はA型。得意技は右四つ・左四つ・寄り・空気投げ・吊り、旋回。

必殺合体技・空気投げ

歴代大関経験者の中でも、体格、怪力、才能、稽古嫌い、素行不良、末路の悲惨さにおいて屈指の評価を得ている。 反対に技術はお粗末であり、出し投げも打てない上に、もろ差しも簡単に許す。

生誕から尾上夜逃げ騒動まで[編集]

エストニアの辺鄙な村の末っ子として生まれるが、幼いころに父親を亡くして生活苦に喘ぐ。生計を助けるためにバーの警備員を行っていたこともあり、これがのちの素行の悪さの根源となった。

いわゆるただのデブであり相撲と何ら接点を持っていなかったが(え、違う?細けぇことはどうだっていいんだよ!)、相撲がヤクザと密接な関係にあることを知り、「甘い汁を吸うために」大相撲の門を叩いた。師匠が歌手活動に夢中で部屋付きもやる気のない三保ヶ関部屋に入門したカイド青年を待っていたのは、柳川信行のシゴキであった。

柳川は受け身の相撲と立ち合いの甘さと攻めの遅さから本場所では幕下の相撲がほとんどだったが、「稽古場横綱」と称されるほどの実力があった。その実力は「もしルールがわんぱく相撲の形式であれば幕内は確実」と評されるものであり、柳川は大相撲の張り手と立ち合いに泣かされ続けたのであった。稽古を厳しくする柳川を嫌っていた把瑠都であったが、初土俵から所要8場所で十両昇進を果たすなど稽古の効果は出ていた。これで柳川に対して威張ることが出来ると思ったが、外国人力士の立場はそう甘くない。

教育係を任された柳川は、十両となった把瑠都をさらに厳しく稽古づけた。把瑠都は、所要10場所で入幕できるチャンスを虫垂炎で棒に振るったのは柳川に原因があると憤慨。把瑠都だけでなく、山本山、白乃波、境澤も柳川の稽古の厳しさにうんざりしていた。把瑠都は部屋付きの尾上に相談し、かくして尾上部屋は夜逃げ同然の形で三保ヶ関部屋から分家独立した。

素行不良で果たせぬ大関取り[編集]

Wikipedia
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新関脇の千秋楽で無気力相撲を指摘されたり、酒乱ぶりを週刊誌にすっぱ抜かれたりしたことが把瑠都の足を引っ張り大関取りを妨げていた。三役で12勝-9勝-12勝でも大関になれなかったのはそれだけ素行が悪かったからであり、もちろん関東連合も飲み仲間である。結局大関取りを果たせたが、それまでの経緯はwikipediaを参照せよ。

優勝から没落まで[編集]

2012年1月場所を優勝して3月場所に綱取りを懸けたが、売り専の把瑠都が横綱になるはずもなく綱取り場所は10勝5敗で終わった。この成績で横綱になれるのは稀勢の里だけだ。その後、2012年9月場所では魁聖戦での誤審で星を損したばかりでなく、元学生横綱の常幸龍が前相撲から取って所要9場所で2012年11月場所に前相撲力士最速入幕するわ、アフリカ大陸初の関取が自分と同じスピードで十両昇進を果たすわ、豪栄道vs日馬富士の取り組みで審判が誤審を認めて取り直しの裁定を下すわで、自分のアイデンティティがなくなるばかり。

しまいには2013年9月場所に十両陥落し、場所前に引退してしまった。2012年9月場所前には山本龍一の暴露の責任を身代わりで受けた影響として右膝の大怪我を負い、これの治療を怠ってダラダラしゅつじょうしてはけがを悪化させたのが運のつきであった。

半年ぐらい休場して治せば再大関も夢ではない器だったのに。。。

関連項目[編集]