愚神礼賛

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愚神礼賛(痴愚神礼賛)』は十六世紀初頭に出版された人類最高の哲学書。著者は人文学者の泰斗デジデリウス・エラスムス。人間の力と幸福の源は実は「愚かさ」の中にあるというのが一貫した主張である。その内容はあまりにも「実もふたもない真実」であるために教会などから禁書あつかいされてきた名著中の名著である。 某ヘタレ殺人鬼の武器である金属バットとは関係ないはずである。

概要[編集]

この著書は長い間、撲滅対象として規制されてきた。エラスムスの盟友であるトマス・モアの処刑は好例であるといえよう。それでも数多くの海賊版が出回っていることが確認できる。近代の西欧哲学はこの書との対決を通して発達してきたといっても過言ではないだろう。それら反対著作の多くは直接には『愚神礼賛』を批判せず、各自妄想をたくましくして勝手な信条をまくし立ててきた。近年のバカ田大学総長の論文「豚の合唱について」ではエラスムスの赤裸々な思想がいかにして隠蔽されてきたかについて詳細な研究を試みている。「悪貨は良貨を駆逐する」ということがよくわかる。

もろもろの弾圧[編集]

この書に対する批判で最も大きい勢力が自称「啓蒙主義者」「倫理主義者」からの批判である。前者は自分の妄想を世界に広げようとする意図からエラスムスの提示した真理を批判してきた(「人間は高尚なものだ」と思いたがる大衆的なエゴに迎合したグループである)。彼らは一種の詐欺師であり、「快い言葉で金を巻き上げる」やり口は歌舞伎町のホストとなんら変わりはない(むしろ自称「識者」が「高尚さ」という仮面で世間を欺いている点を考えればホストの方がまだ良心的だろう)。後者は愚民化政策の賛同者である。彼らは国民を自分たちに都合がいいように洗脳したがっている。そのために「道徳」をでっち上げるのである。しかし冷静に考えれば「良心」がない方が世渡りに都合がよいことは明白である。生徒の多くを「だまされやすい羊」の状態にとどめておくために、安易なお題目を繰り返している世間の学校教師などが代表である(このため「よい子」ほど世間に出てから社会の肥やしになりやすい。あるいは無意識に体制に取り込まれて一生を過ごす)。「愚かでしかありえない」と悟った人間はソフィスティケイトされて賢くなってしまうため、逆に餌食になりにくくなる。そうなってしまうことは社会のヒエラルキーを維持する上で不都合である。

『愚神礼賛』の効用[編集]

愚神礼賛の哲学は世俗的な成功につながると断言できる。たとえば政治家などはその典型的な例だろう。彼らは人間が愚かであることを熟知しているがゆえに、他人の世俗的な愚かな欲望につけいって票を集めて権勢を得ることができるのである。「民主主義」という物自体が「たてまえ」にすぎないことを自覚しているがゆえに、権力闘争に専念することができるのだ。そして「自分自身もまた愚かでしかありえない」と知っているがゆえに良心の苦痛から開放されている(それゆえに紳士を気取り、偽善行為を平然と行うことができる)。政治家にとって汚職が必須スキルになっていることはそれを物語っている。

こう考えると『愚神礼賛』に通暁することは世間的な成功を得るために不可欠の教養だとわかる。しかしここに重大な注意点がある。それは『愚神礼賛』に賛成であると、絶対に口外しないことである。上辺上は「人のよい善人」「愚かな羊」のふりを続けなければならない。なまじ賢さを表に出すと「悪い人間」「狼」として駆逐されてしまうことになる。しかし排除されるのは二流の悪人(ときとして、むしろ善人、場合によっては「王様は裸」といった子供のような意味での正直者)ばかりである。本当に狡猾な悪人はめったに制裁を受けることがない。場合によっては「聖者」として敬われてさえいるだろう。

そういうろくでもない手口を書いた二番煎じの「成功哲学本」は無数に出回っている。しかしそれらは「痴愚の女神が最高神である」という真実を耳障りの良い言葉で糊塗する場合が大半であり、哲学としては『愚神礼賛』の劣化版ですらない(お手軽本のほうがかえって世俗的効用は大きかったりするあたりが皮肉である)。

関連事項と考察[編集]

世間の真相:カントの「啓蒙について」[編集]

エラスムスの真理を逆の側面から描き出したのが「神の首を切り落とした(詩人のハインリッヒ・ハイネの評)」哲学者カントだといえるだろう。カントの利口だった点は、簡単な真実をあえて「難解」に語った点である。このため世人の多くは目くらましを食らうこととなり、カントの学説があまりよく理解できなかった。そのために「右へ倣え」方式でカント哲学を礼賛するにいたったのである。

カントの説は小論『啓蒙について』に詳しい。「啓蒙とは人間が自分の未成年状態から抜け出ることである」「権力を持つ者たちは管理下の人間を従順にしようとして、洗脳している」とずばり真実が書いてある。

絶対知は得られない:フッサール現象学の挫折の例[編集]

学問という「絶対知」に至る道を逆説的に証明したのがフッサールである。彼は二次大戦中に活躍した哲学者である。現象学的哲学の創始者として知られ、フロイトとともに20世紀思想の源流となった。ユダヤ系であるためにナチスに軟禁されてもなお研究をやめず、得意の速記術で三万枚の原稿を残した。彼の目的は「真実なる学問」の方法を確立することだった。しかし彼の文章はノイローゼじみており、「豊かな成果がある」と熱に浮かされたように繰り返しているばかりである。

「愚かさの自覚」のイニシエーション[編集]

『原始の人』というドキュメンタリー映画のシリーズがある(邦題『残酷猟奇地帯』等で分割)。原住民の生活について取材した非常に学術的価値の高い映画であるが、その中で「穢れの自覚」という通過儀礼(イニシエーション)が紹介される。その部族では成年になるときに「犬殺し」の儀式を行う慣習がある。少年が死んだ犬をぶら下げているシーンが印象的であるが、犬は「自分自身の穢れ」「愚かさ」の象徴であると説明がなされる。また、一見野蛮に見える狩猟、像の解体のシーンがあるが、それが人間の原初の姿であって非難する権利は誰にも無い(我々も肉を食べる)。近代文明は表面上を上品らしくつくろっているだけで、人間の本質そのものが向上したわけではない(例えば死刑の非公開。また学校の教室の授業の形式は「監獄」にモチーフを得ていると社会学上で指摘されている)。

密教の「理趣経」[編集]

一般に仏教では「性欲=悪」の解釈がなされているが、「性欲は清浄」と説いたのが『理趣経』である。これなどある種の「悟り」といえよう。別の近い例を挙げればチベットの呪術医の伝説『ユトク伝』では聖人が乱交した話が出てくる(母のケーペーが奥義を得るために仙人を色仕掛けで落とした逸話も含まれる)。また『死者の書(バルドゥ・トェ・ドル)』では座位で交合する仏の幻影について触れられる。だいたい、一度性交渉を経験した人間ならわかるとおり、あんな獣じみた行為から生まれてきたわれわれ人間が「まとも」であるはずはないのである。

道化しか真実が語りえない[編集]

ガリレオが宗教裁判で死刑になりかかったのは「地動説」という科学的真実を口にしたからである。本当のことを口にするのは危険である。もし言うならば、冗談めかして語らなければならない。シェイクスピアの『リア王』に出てくる道化などがその態度の模範といえよう。

この記事は冗談である[編集]

酒に酔った道化が書いたこの記事はすべて冗談である。政治家、教育者、企業経営者はみなすばらしい人格者であると信じている。老人たちは経験豊かな賢者であり、我が身を呈して無知な若者を導く崇高な存在である(まちがっても若者を食い物にして私腹を肥やすなどありえないことだろう)。ジョージ・ブッシュは正義の人であり、金正日は偉大な政治家として共産主義の理想を体現している。いやはや、人類の未来は明るいといえよう。

関連項目[編集]