悪文

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索

悪文(あくぶん)とは悪い、何が悪いのかと言えば粗悪で、稚拙で、乱雑及び猥雑で、散らかっていて、幼稚園児が書いたようにダサく、推敲がされていなくて、平気で重複した重複表現が使われているような、推敲されていない文章である。読みにくい文章に悪文の好例が多く晒されている。何だよ悪文の好例って、悪いものに「好例」なんかあるわけないだろ。

概要[編集]

悪文とは悪い文章のことである。そもそも良い悪い自体が人間が勝手に作った概念であり、悪い文章など存在しないということになるが、どういうわけか人間は物事の良し悪しを、白黒を峻別して、厳然と、はっきりと区別したがる傾向がある。余談だが筆者もこの白黒つける風潮には散々悩まされた。白黒はっきりつけるのが世間の風潮なのだろうか、その割には玉虫色の解答に辿り着き、有耶無耶になる問題も多くある。しかしこれは余談である。とにかく悪文とは悪い文章である。悪い文章といっても、何が悪いのか漠然としすぎている。そもそも良い悪いなど人間が勝手に作った尺度だが、これは余談である。なんだか同じことを繰り返したような気がするが気にするべきではない、しかし、悪い文章とは一体何であろうか。即座に思いつくものとして、誤字脱字、間違った言葉遣いが多すぎるものがある。しかし、例えば「敷居が高い」などの表現は最早誤用の方が定着している。他にも「確信犯」などは間違った使用法の方で使用されることが多く、その頻度が高い。果たしてそのような誤字脱字があったからと言って悪文か?そうではあるまい。では何が悪文か。そもそも物事に良い悪いは存在しない。勝手に人間がルールを作っているだけだ。しかしこれは余談である。悪文に共通する、普遍的に見られる、概ね一致している要素として、読み手の事を考えていない、筆者のオナニーに、自己満足になっていて、筆者しか満足できない、「精液を巻き散らかしているようだ」「オナニーはチラシの裏でやってろ」そんな声が聞こえてきそうだ。今にもそんな声が聞こえてきそうな、とにかくそれほど、読んでいて読む気が失せる。時間を損した、無駄使いした、浪費したと考えさせる文章、それを人間は悪文と呼ぶ傾向が高い頻度であるようだ。またボキャブラリーにとぼしく、また、「あれ」とか「それ」とか指示代名詞が多く使われる言葉も悪文って言われることが結構高い頻度でそれなりにあるらしいよ。指示代名詞ってのは、あれだよあれ、とにかくあれだ、度忘れしちまったから適当に辞書でも引いといて。とにかくそういう文章は悪文の烙印押される傾向が強く、多いらしい。ボキャブラリーの乏しさは表現の稚拙さ、陋劣さも産むことで、文章が全体的に小学生読書感想文みたいな、小学生が書いたような、粋の欠片もない、読むのが苦痛な、読むだけで眩暈と吐き気がしてきて、また、嘔吐しそうになってしまう、そんな文章になってしまう。そのような文章が、多くの人は悪文と見做される。悪文かどうかの判断基準は難しく、曖昧模糊としており、また判然としない。また読む人によって悪文かどうかの基準が異なる。しかし悪文はすべからく、いや押し並べてだっけ?とにかく、読み手に「お前小学生から国語やり直せ」と面罵されるような、苦痛と不快を読み手に与え、また読み手を著しく、疲弊させて、読み手が疲れてしまう。しかし書いた側にとっては、そんなこと知ったことじゃないので、なぜ読み手がそこまで疲弊して、読み手が怒っているのか、よく理解できないことが多く、また、分からない。悪文の典型としては、色々言われていて、本当に色々あるのだが、5W1Hてにをはが破綻している、主語述語目的語が明確に線引きされておらず整合性と可読性に極めて乏しく読み辛くお前意思疎通する意思あんのかよと突っ込みたくなるような見る気が失せる文章が多くてついでに護持脱磁も極めて著しく夥しく多い。悪文を読んだ人はしばしば、度々、「脈絡が通っていない」「整合性がない」「不適切な文法が多い」「どこからどこまでが節なのか分かりづらい」「徒に専門用語が多すぎる」などと指摘する。ところがフョードル・ドストエフスキーの作品や著名な哲学書の多くは無駄に専門用語が多く晦渋で分かりづらくどこからどこまでが節なのか読みづらいし分かりづらい。ところが人々はこうした文章についてはなぜか名文と称賛する。どう考えてもおかしい。そもそも不適切な文法がどうのこうの言うが文法は歴史や人々の意識の流れと共に遷移して適切な表現が廃れていったり逆に不適切な表現が適切なものとして定着してしまったりすることが多々ある。何を以て悪文とするか否か明確に境界線は引けないし、明確な基準はないのだ。