徳川家定

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「くっさい!くっさいわ!!こんな下品な奴が将軍とは信じられん!!」
徳川家定 について、足利義昭
「…そうか!!江戸の火事の原因はこやつか!!屁をこく前に腹を切らなければならないようだな!!…その前に臭すぎる。」
徳川家定 について、織田信長

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、徳川王朝の第13代将軍。通称放屁将軍である。しょっちゅう屁をこいていた上自分の屁を他人に嗅がせる事をこの上ない喜びと感じていた真性の変態。薩摩芋が大好物で、自分でふかし芋を料理して、周囲の人々に振る舞う程であった。ちなみに薩摩芋はその名の通り当時倒幕にやや傾きつつあった薩摩藩の薩摩隼人達が作った食物であり、家定は大量に薩摩芋を薩摩藩から購入して薩摩藩のふところを肥やしていた。最大の敵の財布に金を注ぐ辺り相当おめでたい将軍であった。

概要[編集]

父は12代将軍徳川家慶で、母は側室の本寿院。家定は生来病弱で、知能も廃人同然であった。父家慶は家定含めて14男13女という大勢の子供を儲けており、大奥では次期将軍を誰にするかで、毒殺暗殺など手段を選ばぬ暗闘が繰り返されていたという。その結果、15歳を超えて生き残った家慶の実子は、何と家定1人であった。一番将軍になるわけがないとみられていた家定が次期将軍に決まるとは、何とも皮肉な結果であった。ただ家慶はただ1人生き残った実子の家定に次期将軍を譲ることを躊躇しており、ちょうどその頃「賢い」と評判だった一橋家当主の徳川慶喜を次期将軍にすることも考えた。しかし実子の家定を次期将軍であると公表した後で、家定に重罪があるわけでもなく廃嫡にすることは法の秩序を乱すと老中に諫められて断念した。父家慶がペリー来航の最中に病死して、家定が13代将軍となる。ちなみに正室は京都から名門公家の鷹司家の姫を迎えたが、すぐに病死。そこで2人目の正室として、同じく名門公家の一条家の姫を迎えたが、こっちもすぐ病死。3人目の正室を探すが、もはや京都の名門公家は「怖く」なって、娘を出したがらなかったので、薩摩藩主島津斉彬の養女の天璋院篤姫を3人目の正室とした。家定は彼女を薩摩芋の本場鹿児島から現地直送された「放屁する女」と思ってはしゃいでいたようだが、そういったプレイに篤姫があまり興味を示さないので、かなり意気消沈したという。さて家定が将軍になると、別に家定が重篤な病気で倒れたわけでもないのに、どうせ家定は子供もできずにすぐに亡くなるだろうと幕閣も諸大名も、さらに娘を家定の正室として嫁がせた島津斉彬までもが想定して、次の14代将軍を誰にするかで派閥抗争が展開された。候補者は2人に絞られ、家定と血筋が近いが幼少の紀州藩主徳川家茂(当時は慶福)か、「賢い」と評判の一橋家当主の徳川慶喜であったが、家定はかつて慶喜のせいで廃嫡されかかった経緯から、慶喜を恨んでいた。そこで家定は将軍として普段の政務は何もしなかったくせに(ペリー来航以後の政情は混乱しているにもかかわらず)、人が変わったように急に将軍として果断な処置を立て続けに行う。まず家茂を推していた井伊直弼を大老に任命したうえで、諸大名を広間に集めて家茂を次期将軍にすると宣言し、慶喜及び慶喜を推していた大名らを一斉に処罰して失脚させるという電光石火の挙に打って出たのであった。そして慶喜らに罰を言い渡した翌日に家定は急死した。その死因は、家定がエネルギーを使い果たして息絶えたのか、あるいは幼少の将軍家茂のもとで幕府の実権を握りたい井伊直弼が毒を盛ったのか、はたまた普段は陰で家定をバカにしていたのに、家定の命令で罰を受けて失脚させられたことに憤った慶喜とその支持者が毒を盛ったのかは、今なお不明である。

人物・逸話[編集]

  • 家定は他の幕僚達にも「良質なオナラを出すために薩摩芋を食え」と薩摩芋を食うように強要した。そのために松平春嶽からはイモ公方と呼ばれた。
  • 家定の屁の臭さはスカンクの屁の比ではなくもはや有害物質そのものであった。2000人以上の旗本が家定の屁を嗅がされた瞬間に即死したと言う。
  • 家定は屁のジェット噴射を利用してで火星まで旅行に言った事もあり、そこで火星人に拉致されてしまい幕府の幕僚達が大慌てした事件がある。
  • オナラフェチである家定は大量のスカンクをペットとして飼育していた。家定の時代の江戸城は異常な悪臭に包まれていたと言う。
  • あまりにオナラを出しまくるものだからガス欠に陥ってしまう事もある。
  • 家定を音読みするとかてい=家庭となる事からも分かる通り私生活面においては妻に優しい家庭人であり、彼の妻篤姫は家定の臭いオナラにもガスマスク無しで平気で耐えたと言うから大したものである。なお家定は篤姫にも好んでオナラを嗅がせまくっていた。これは一種の求愛行動ととれる。


先代
徳川家慶
1837年-1853年
徳川幕府将軍
徳川家定
1853年-1858年
次代
徳川家茂
1858年-1866年