徳川家光

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徳川 家光(とくがわ いえみつ、通称ホモ光、またはキモ光。慶長9年7月17日(1604年8月12日)~慶安4年4月20日(1651年6月8日)は、徳川王朝の第3代将軍。略して「徳光」。

概要[編集]

徳川秀忠の嫡男。実の弟を死に追いやり大名を改易しまくった挙句島原の乱で大量虐殺を行い天草四郎時貞と死闘を演じた事から粛清将軍と呼ばれ恐れられた。しかし少年時代ひきこもりエロゲオタであったせいかエロ規制に対しては寛容であり全国のオタクからは支持されていた。キモメンガチホモオタクの3重苦を抱えた「(将軍となったのが)奇跡の人」である。 ちなみに好きな体位は後背位で攻められるのが好きだったという。毎回ケツの中への射精のみならず放尿まで要求しては相手にどん引きされていたという。将軍の威厳なんかあったもんじゃない。

生涯[編集]

柳生宗矩二男でイケメンの友矩とはアッー!な仲だった

秀忠の嫡男として生まれるが幼い頃はなんだか冴えない顔でありピーマンやにんじんが食べられない、夜一人でトイレに行けない、阿部高和肛門の中に放尿する夢を見ては毎晩おねしょする、初恋相手は剣術指南役というガチホモ、真性ひきこもりであり、毎日部屋にこもってボーイズ系のエロゲーしたり、お忍びで有明に向かいジュネ系サークルを回ったり、「坊さん=デカマラ」だと信じ込み江戸中の寺社を巡り歩き小僧たちを物色したり、美小姓の恥ずかしい画像を集めたり、夜な夜な町に繰り出し美少年を見つけては自身のお粗末な得物辻斬りをやらかしたりなどどうしようもない人物であり、弟である忠長の方が有望視されていた。

父・秀忠は廃嫡もやむ終えなしとさえ思ったが家光の祖父である徳川家康が、「今細木数子に聞いてきたら長幼の順序を守って兄を将軍にしろって言われた、だから家光は絶対大物になる! 絶ッ対廃嫡すんな! コノヤロー!」と反対した為秀忠は彼を後継者とする事を決めた。

ちなみにこの後継者争いは、たびたび後世においてネタにされた。忍者同士十対十で殺し合ったというあやしい説が特に有名である。しかしそれでもやはり不安はあったため南光坊天海金地院崇伝らに頼んで帝王学を叩きこみ、さらに一日エロゲーは1時間と家光のオタ化を防ぐ為のリミットをかけた。最初は内気でネクラだった家光も大久保彦左衛門と一緒に鬼退治したり春日局の母乳から「萌え牛乳」を作ったり、天海に「実は俺明智光秀でなんです、あ、実は左馬介かも」などとネタばらしをされたり、柳生三厳のおっぱいぽろりを目撃したり、柳生友矩と若竹を育てたりしている内に、たくましい男になっていった。一部、性的な意味で

やがて家光は1=2を鼻ぶくちょうちんかきながら説明できるほどの聡明な男になりやがて秀忠から家督を譲られて3代将軍となった。一説には彼の中に眠る織田信長の血(家光の母は浅井長政と信長の妹お市の方の娘であり、彼には織田家の血が流れている)が覚醒したとも言われる。この時家光は勝手に真剣での御前試合を行ったりするなどのDQN行為を重ねた弟・忠長を切腹に追いやった。また、春日局の洗脳により女にも目覚め、跡継ぎを作ることにも成功した。しかし目覚め過ぎて某女子高生巡る大戦争を起こした事も。

しかしながら現在、長門教信者からは家光はこの戦役の参加者とみなされていない。というのも、家光は彼女を「自分好みの放置プレイが好きなどS美少年系」と勝手に解釈し、そんな彼女からつれなくあしらわれ永くじらされた揚句に自分の左頬に直にケリを入れてもらう日々夢見て参戦を表明したのだが、実際の長門は無表情ながら実は感性豊かで純情な少女だと知り、どMの家光は彼女に対し一気に興味を無くしすぐさま撤退。この行状に信者・参戦者が軒並み「あいつは失格だ」「ふざけんじゃねぇ」「バカヤロー」等と激高し、彼の参戦の事実が歴史から塗りつぶされてしまったからである。

しかしながら当の家光は古泉一樹にぞっこん惚れ込んだためショックどころかより上機嫌で江戸に帰城した。古泉への萌えぶりは当時家光が「マッガーレ↓」「ふんもっふ!!」「参勤交代をやらないか」等と口癖にしていたとの伝承からも明らかである。それが高じた挙句終いには声優としては素人である大名やその家臣達に「涼宮ハルヒの憂鬱」の吹替えを演じさせるようになり、しかも自分は決まって古泉役(たまに国木田役と2役)を担当していたほどである。

1651年に家光が死去した際重臣の一人が「家光公の治世が長く続けば天下は乱れていたやも知れぬ。亡くなって正直ホッとしている」と漏らしたと伝わる(実話)。

武断政治[編集]

家光はまず幕府の安定と不穏分子の抹殺のため外様譜代問わずちょっとでも煙が立てば大火災が起こったかのように騒ぎ立て大名を改易しまくった。しかしこれにより大量の浪人、つまりニートフリーターを増やしてしまい社会問題にまで発展した。また家光は一方で各地の大名達に「1年おきに俺の元に来て江戸で奉公しろ。ただし通行運賃と江戸屋敷の建設費はお前らが負担、あとお土産忘れんな」と命令した。所謂、参勤交代である。しかしその実は大名の経済力を弱めることでなく、大名やその家臣達の子弟を江戸に留め置くことで日本中から自分好みの美少年を探すことにあった、とも言われる。このようにして選りすぐりの美小姓を手元に置き愛でるシステムをモーホー、もとい模倣したことで性交、いや成功したのが現代の有名風俗チェーンホモーズ事務所である。

鎖国への道[編集]

また家光はオランダ人から手渡された書物により十字軍の凶行などを知るようになりキリスト教に対して危機感を抱くようになりやがてキリスト教の駆逐に着手した。

しかし朝日新聞などから「軍靴の音が聞こえてくる」と非難を浴びた。1637年の島原の乱では鎮圧の為大軍を派遣したが思うようにはかどらず、業を煮やした家光は自ら出陣。織田信長の血を引く彼はライトセーバー片手に天草四郎時貞と激闘を繰り広げた。途中、天草の暗黒面に引き寄せられそうになるもホモ達の堀田正盛らとの絆で暗黒面の誘惑を断ち切って見事天草を討ち破った。

政宗との悲恋[編集]

家光は口では「文句があるならかかってこいやクルルァ」と威勢のいいことを言っていたが、実は戦の現場なぞ見たこともなく、ゲームやアニメの世界でしか戦を知らない脳内最強将軍でしかなかった(戦国の世に生まれていれば男色に耽るばかりで家臣の信頼を無くしすぐに下剋上に遭い、粛清将軍どころか自分が真っ先に粛清されるのがオチである)。そんな彼は同じく中二病丸出しでありながら、実戦でも本当に強かった伊達政宗激ラヴであり(母親から冷遇されたという共通点で惹かれてたのかもしれない)、いつも政宗の前では掘られる妄想に身をよじらせていた。

普段サディストな家光も政宗の前ではMッ気全開で、「私も家康公の首を何度か狙ったことがございます。下宿はおやめください」などと脅された時には、内心変な汁を抑え切れなかったことであろう。オサレな政宗の周りは美男美女だらけであり、この時ばかりは祖父の狸遺伝子を呪ったといわれる。しかし相手にされなければされないでMの血が騒ぐため、政宗にひたすら貢ぎまくるだけで、毎晩夜のおかずには事欠かなかった。それはそれで幸せの形であろう。

生涯中二の政宗であったがさすがに年には勝てず、家光が32歳の時ついに亡くなってしまう。この時家光は男泣きに泣きまくり、「将軍の悲しみは国家の悲しみだ!お前らお祭り禁止!!」と叫んで江戸京都を丸ごと喪に服させた。徳川歴代でもここまで愛に殉じた将軍はこの男だけであり、多くのエロゲオタが彼の熱意を賞賛した。

徳川家光に対しての著名人からのコメント[編集]

やらないか
徳川家光 について、箭羅奈胆加大王
「俺は将軍だって構わないで食っちまう男なんだぜ」
徳川家光 について、阿部高和
「歪...んでぇるなぁ、こいつ」
徳川家光 について、ビリー・ヘリントン
「ところで、余のキンタマを見よ。これをどう思ふ?」
自分のイチモツ について、徳川家光
「すごく、お粗末です」
家光のイチモツ について、酒井重澄
「そなた。余が菊門が中で小便をいたせ!」
プレイの命令 について、徳川家光
「ええ!菊門が中へでございますか?」
家光の命令 について、柳生友矩


先代
徳川秀忠
1605年-1623年
徳川幕府将軍
徳川家光
1623年-1651年
次代
徳川家綱
1651年-1680年