徳川吉宗

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

徳川吉宗。この絵では完全な機械である。
徳川吉宗。この絵では完全な機械である。
「こやつの上にタライを落とされてどれだけ悔しい思いをしたか…。付き添いのものも呆れとるわ。んでどれだけの金を使ったら連チャンするのだ!!」
~ 徳川吉宗 について、織田信長

徳川 吉宗(とくがわ よしむね) 旧名 松平 健(まつだいら けん)は、江戸時代の米である。米の癖に江戸幕府の8代将軍になったある意味凄い人、いや凄い米。俳優、歌手、サンバダンサーとしても知られる、多才な米である。通称米公方、または 暴れん坊将軍。一般的に良い政治して知名度高くて水戸黄門なみにはしゃいでた将軍とのイメージが膾炙しており、実は貧乏性で一億層貧乏を強いたとか粘着質で新井白石徳川宗春をこれでもかというほど弾圧したとか言うブラックな一面はあまり伝わっていない。むしろお茶の間のみなさんが認めたがらない。後年彼を主人公にしたドラマが多数作成されたおかげでお茶の間のおばちゃん達の8割はこの人と水戸黄門こと徳川光圀だけは知っている。また二人三脚の常連優勝者としても知られる(相方は大岡忠相)。

目次

[編集] 生い立ち

紀州藩2代藩主・徳川光貞は極度の変態として知られていた。ある日光貞は「人間の女とやるくらいなら米俵とやった方がマシだ!」と言って百姓家の米俵を犯してしまった。すると翌日その米俵は子供を生んでしまった。生まれた米は生まれるなりいきなり「余はお米様である、控えおろう!」と叫んで周囲を仰天させた。後の米公方吉宗である。 吉宗は米でありながら人間以上の知能を持っており、紀州藩の異母兄たちを良く支えたと言う。しかしその反面米の性なのか、紀州城内において間違って家臣に食われてしまいそうになるなど、問題も多かった。

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡に3万石を賜り、葛野藩主となる。父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し頼方は次の間に控えていたのだが、全く同じような境遇で犬でありながら将軍になった綱吉が同情し、あえて呼び寄せて拝謁させたという。

その後、兄の死(ダイエットのリバウンドで兄に食われそうになったので返り討ちにしたという説もあり)により紀州藩主に、そして将軍、俳優、歌手、サンバダンサーとして、才能を開花していく事になる。次々と花を咲かせるのは、さすがに植物である。

[編集] 人物


[編集] 数々の武勇伝

[編集] 関連項目

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「徳川吉宗」の項目を執筆しています。
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「暴れん坊将軍」の項目を執筆しています。
  • 徳川宗春 - 吉宗終生のライバル。尾張藩にカジノを設立した為パチンコ業界の衰退を危惧した吉宗に弾圧された。
  • 大岡忠相 - 名奉行。
  • パチンコ - 北の将軍様にとっても吉宗は英雄である。
  • お花茶屋 - 吉宗と茶屋のお花の純愛物語の場所。
  • 暴れん坊将軍 - もともとは吉宗の活躍を描いたドラマだったのだが・・・

江戸幕府将軍
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先代:
徳川家継
次代:
徳川家重