徳島ヴォルティス

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徳島ヴォルティス(とくしまヴォルティス、Tokushima Vortis)は、日本徳島県徳島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブであり、2008年、ぶっちぎりでJ2のトップを下方向に突っ走った後、2009年、大躍進の9位に浮上。今後の活躍が期待されている。

なお、後述する元マスコットキャラクターの活躍はもっと期待されてしかるべきである。

クラブの概要[編集]

ホームタウン[編集]

アホ生産地渦潮の中を中心とした徳島県全域。

ホームスタジアム[編集]

ポカリスエットスタジアム。これは、大塚製薬がスポンサーであることから名づけられたものである。旧名は徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場。前者のほうが覚えやすいことは確かである。なお、オリンピックの日本選手団公式スポーツ飲料はアクエリアスであるため、どこからか冷たい視線を感じることも多い。

他県との交流[編集]

四国全体を代表するチーム作りを行うという考えのもと、J2参戦後はJリーグチームのない高知県香川県でもホームゲームを行っており、2005・2006年は高知県で、2007年は香川県で各1試合ずつホームゲームを行っている。なお、そんな考えをよそに、各県ごとに独自のチーム編成に動いており、香川県2006年カマタマーレ讃岐を結成後にJ2に昇格し、高知県でも南国高知FCがJリーグ加入を着々と狙っている(高知県は高知大学のほうがたぶん強い。)。


もちろん、愛媛県では独自に結成した愛媛FCがヴォルティスと同じくJ2で活躍している。

そのため、後はいつ大風呂敷を片付けるかが問題となっているが、後述するように、四国を代表するチームになるという理想は名前にも深く刻み込まれているため、残る高知がJリーグ入りをしないことをひそかに祈っているのが現状である。

応援スタイル[編集]

徳島ヴォルティスのサポーターは得点を取るとアホになる事で有名である。スタジアムを埋め尽くす観衆がいっせいに踊るアホになる様は徳島の新名所に登録されている。なお、相手サポーターは見るアホになるため、すなわち、ヴォルティスの得点=観衆全員アホという公式が成り立つ。これは阿波を統治した蜂須賀家からの伝統であり、決して、3の倍数などという歴史の浅いものではない。また、チームのJリーグ加盟が決まったときもクラブ事務所でアホになったほどなので、ある意味サポーターの遺伝子にまで組み込まれている可能性が高い。しかし、この応援スタイルには大きな欠点が存在する。それは、客が多くなると阿波踊りを阿波踊るスペースがない。この絶望的な弱点が発覚した2010年頃、点を取ると踊る応援は消滅することになる。

そのほかの特徴として、Jリーグにおいて応援に用いる鳴り物としては太鼓が一般的であるが、徳島ではアホ化するために用いるチャンカチャンカチャンカチャンカ鳴らすアレも併用される。そのため、ザスパ草津との試合ではスタジアムの中で片方は湯揉み、片方がチャンカチャンカチャンカチャンカ鳴らしながら阿波踊りと、いったいどこの国の何の儀式か分からなくなる光景が繰り広げられる

今後、この2チームが天皇杯決勝に進出し、国立競技場がこの2チームのファンで埋まり、なおかつ試合も3対3ぐらいの点の取り合いになったとしたら、世界中のサッカーファンが爆笑する異様な光景が繰り広げられること間違いなし。ぜひ、がんばってもらいたい

なお、チャンカチャンカチャンカチャンカの応援スタイルはプロ野球四国・九州アイランドリーグ徳島インディゴソックスでも取り入れられている。

マスコットキャラクター[編集]

地名+ニックネームで表記されているJ1・J2の29チーム(2008年時点)の中で唯一マスコットが存在せず、後述するボール君がチームを支えるただ一人のマスコットキャラクターとして孤軍奮闘してきたが、衆寡敵せず、インパクトだけで生きていたボールくんも、ついに飽きられる運命になってしまったため、2009年6月、新しく狸をモチーフにしたマスコット「ヴォルタくん」と「ティスちゃん」が発表される。哀れボール君は、メインマスコットキャラクターとしての役割を終えることが決定してしまった。

非公式マスコットキャラクター[編集]

2010年度より、本当の非公式マスコットになってしまった「ボール君」だが、やはりクラブを代表するマスコットであることに変わりはない。それは、公式ホームページ内でも、狸を差し置いてヴォルティスのスタッフの日記に自分のカテゴリを所有していることでも確認できる。

では、改めてボール君の雄姿をご覧ください。なお、最後の写真で、自分の仲間を足蹴にするボール君が見受けられるが、目の錯覚である

せっかくなので、もう一枚

がんばれ!ボール君!いろんな意味で!

クラブの歴史[編集]

旧JFL・大塚FCヴォルティス徳島時代[編集]

徳島ヴォルティスの母体は1955年に結成された大塚製薬サッカー部である。戦後の混乱期、新薬の被験者たちが、明日をも知れぬわが身の恐怖から少しでも逃れるためにスポーツに走ったのであり、決してドーピング目的ではない。彼らの存在無くして、オロナインH軟膏の存在は語れない。その後、無事に新薬から生き延びた彼らは1978年開始の四国社会人リーグで第1回から3年連続優勝する。ちょうどポカリスエットが発売された時期であるため、もちろん、新しいスポーツ飲料の被験者として、明日をも知れぬわが身を嘆いての連覇である(残念なことに、甘くておいしいオロナミンCの実験は読売ジャイアンツに持っていかれてしまった)。その後、いろいろあって大塚薬品サッカー部として1992年に新発足したジャパンフットボールリーグ(旧JFL)1部へ参加した。大塚製薬は四国最強の社会人サッカーチームとなったが、1993年にリーグ戦を開始するため全国から参加チームを募っていたJリーグには参加しなかった。ここで、鳥なき島のコウモリという信長の言葉を思い出したヤツ、後で職員室まで来い

Jリーグが開幕すると一気に方向転換し、徳島県に四国から初めてのJリーグチームを誘致しようという動きが本格化する。徳島県を中心に約24万人の署名が集まり、その結果、1994年から本格的にJリーグ参加へ向けて動き出すことが決まる。本拠地は徳島県営の「徳島県球技場」を新規に建設し、大塚製薬を責任企業とした新会社がクラブの運営に当たるという計画がまとまった。

そして、見事にポシャったわけさ

なぜなら、当時のJリーグは1リーグ制で、収入に見合わない額まで運営費が高騰するという、どこぞのパシフィック・リーグなみの赤字垂れ流し体質が問題化しており、徳島の新チーム計画でも年間運営費20億円以上、補填が必要な赤字額は年6-7億円と見込まれていた。なお、その原因は緑色のチームとそのオーナーにある。この多額の出費に対する疑問が生まれ始め、大塚製薬を一代で大企業に育て上げた大塚正士元会長の強硬な反対が決め手となって、見事「四国初のJリーグ参加クラブ」という妄想を封じ込めることに成功した。拒絶理由の一つに、高額なプロ契約選手は大塚製薬の社長よりも給料が高くなるのを嫌ったという説がある。そう、前園さんの言うとおりなのだ。

しかし、なんとしてでもJリーグに参加したい人たちは、1995年、大塚製薬サッカー部は従来の体制のまま、「大塚FCヴォルティス徳島」という、名詞を四つも並べた一種異様な愛称で活動し続ける事を選択した。ヴォルティスとは古くから有名な鳴門の渦潮からヒントを得たもので、イタリア語で「渦」のヴォルティチェ(VORTICE)に、T-土佐(高知県)、I-伊予(愛媛県)、S-讃岐(香川県)と四国各地の旧国名を絡ませ、四国全域からの応援を受けようという姿勢を表現したものと説明された。ただし、徳島県だけ旧国名表記にしていないことについての説明はなかった。なお、ヴォルティスに阿波のAを入れると、アヴォ・・・いや、なんでもない。

しかし、他のJFLクラブの多くがプロ化してJリーグを目指してクラブチームを林立させていく中、大塚FCヴォルティス徳島はアマチュアを堅持する。そのため、1999年に創設されたJ2への参加も見送ることになる。これは、当時のJリーグが一時期のブームを過ぎて低迷していたことも大きいが、それ以上に1998年に社長が贈賄で逮捕されたことが大きい。つまり、目立つことをしてはいけなかったのである。

新JFL・大塚製薬サッカー部時代[編集]

1999年、大塚FCヴォルティス徳島は大塚製薬サッカー部に登録チーム名を戻すという英断を下す。そして、アマチュアチームを中心に結成された日本フットボールリーグ(新JFL)に参戦し、2002年の第4回JFLでは17試合10勝7分というリーグ無敗記録を作る。なお、残念なことに大塚正士総帥が2000年に永眠された。徳島県民の悲願だったJ参加チームを見ないで旅立った総帥に、多くの関係者は涙した。ただし、それが悲嘆の涙ではなかった関係者も・・・。

2003年、大塚製薬サッカー部はJFL初制覇に挑み、勝ち点差5の首位で迎えた後期第14節は2位のHonda FCとアウェーの本田都田サッカー場で対戦となり、3-3で引き分け、残り1試合を残してJFL初優勝を達成し、ついに念願のJリーグ参入を発表。2005年度からのJ2参入に県民は狂喜した。

現在まで[編集]

2004年、アマチュアチームとして最後の年も独走でJFLを制覇し、翌年度のJ2への参加に弾みをつける。そして、12月6日、ついに徳島ヴォルティスのJ2入りが認可され、関係者はアホとなって踊り狂った。しかし、残念ながら、当然のことながら、Jの壁は思ったよりも厚く、J2入りした初年度は9位、2006年から2008年にかけて3年連続でJ2最下位に沈んでしまっている。これは、一重に得点力不足という一点につきる。

貴様ら!そんなにサポーターがチャンカチャンカチャンカチャンカ踊るのが見たくないのか!!

・・・もしかしたら、見たくないのかもしれない。

なお、このチームにコートジボワール代表の10番が所属していた事は秘密だよ。

2009年の躍進[編集]

そんなJリーグ最高の実力(主に下方向に)を持つヴォルティスだったが、2009年に入ると何かが変わり、年間で9位にランクイン。これは、ひとえにボール君のおかげである。もっとも、それまでのコーチを全員クビにするわ、さらに前年度に所属した選手のうち15人を解雇、その上、3人いた外国人選手を全て放り出すなど、それまでのチーム編成を全否定した結果、9位になることができたのである。その中に、悲しいかな、ボール君も含まれていた。

よって、これ以降、J1に上がれない年月の全ては、ボール君の呪いによるものである。

けっして、ちーむへんせいにまったくあたまをつかわないふろんとのせいではないのである。

2010年の反省[編集]

2010年のヴォルティスは、開幕前に大幅な補強を再び行い、J2でも有数の選手層を獲得。なんと開幕4連勝で首位まで獲得している。

2年前には信じられない光景である。

しかし、その後はディフェンス陣が崩壊し、2010年度のJ2に柏レイソルヴァンフォーレ甲府といった独走状態になるチームの巻き添えをもろに食らった結果、最終的に8位にまで順位を落としてしまった。これはもちろん、ボール君の呪いによるものである。けっして、選手各自のコンディション管理や相手チームをスカウティング、分析しそれに対応する能力、そしてタヌキのマスコットのせいではない。

2011年の躍進[編集]

2011年。
徳島ヴォルティスは躍進する。
12月3日、午後1時半まで。

最終的に、勝ち点65。4位で終了する。

徳重を攻めるな。

あと、泣くな、ボール君。

2012年なんて年はなかった[編集]

まったく、なかった。

2013年[編集]

ボール君おめでとう。本当に、おめでとう。

2013年の徳島ヴォルティスは、昨年招聘した元モンテディオ山形小林伸二氏の戦術がようやくいきわたり、夏場以降ドウグラス選手の大活躍もあって、絶好調のままシーズンを終え、20勝15敗7分、勝ち点67の4位という好成績を収める。そして迎えたJ2の3位から6位までのチームが昇格の最後の1枠をめぐって争う地獄J1昇格プレーオフ。12月1日のトーナメント初戦、J2を5位で終えたジェフユナイテッド市原・千葉をホームであるポカリスエットスタジアムに迎えた一戦は、ヴォルティスがドウグラス選手のゴールで先制するも、直後に千葉に追いつかれるという苦しい展開となるものの、最後の最後まで選手達の集中力は途切れず、1-1のドロー。プレーオフのルールにより、順位が上のヴォルティスが辛くも決勝に進出することになる。

そして迎えた運命の12月8日。相手はJ2三位の古豪京都サンガ

この試合、勝たなければJ1に昇格できない徳島と引き分けでも昇格する京都の一戦は、試合開始直後から京都が一方的に徳島に襲い掛かるという、予想とは逆の試合展開となる。特に京都のセットプレイが幾度となく徳島ゴールを脅かすものの、すんでのところでGK松井謙弥選手を中心とした守備陣がゴール前を守りきる。そして、前半30分を過ぎたころからようやくヴォルティスが反撃が始まると、前半39分。徳島のコーナーキック、ワンチャンスをDF千代反田充選手が見事決めて徳島が先制。1-0

このゴールで動揺した京都は、直後の43分、前線へのフィードをヘッドで落としたFW高崎寛之と、そこに反応した同じくFWの津田知宏両選手を押さえ込みきれず、わずか5分の間で2失点を許すことになる。2-0

その後の京都の動揺については、いかんともしがたい。後半は徳島が精度の欠けた京都の攻撃をいなしながら淡々と進み、最終的に2-0で、徳島ヴォルティスが勝利。

J1、


昇格。


おめでとうは言わない。なぜなら、ここからが始まりだから。本当に、始まりだから。

とりあえず、2012年のJ2を6位で終え、昇格プレーオフ2連勝でJ1に返り咲いた大分トリニータ2013年に地獄を味わったことを思い返せば、単純に喜ぶだけではすまない。年間2勝、勝ち点はわずか14というトリニータの悲劇は、2014年の徳島ヴォルティスに直接向けられる数字である。避けることのできない現実である。あまりの惨敗から多くのファンが離れていき、チームの運営にすら苦慮するなんて話は、J1でもJ2でも、全てのチームにおいてありうる話だけれど、2014年に関しては、徳島ヴォルティスにおいて一番ありうる話である。果たして、今回の勝利から2014年のシーズン始動までの3ヶ月間で、徳島のフロントがどういった動きを見せるかが全ての鍵を握ることになる。

というわけで、がんばれボール君。本当に、がんばれがんばれボール君。

2014年[編集]

2015年[編集]

なんと、退任かと思われていた小林氏が監督を続行。サポーターは、「いやぁぁぁぁぁ」と叫ぶしかなかった。しかしなんと、2011年までヴォルティスで活躍していた佐藤晃大長谷川悠を獲得したのだが、お二人とも全然使えなかったのだ。

このままシーズンは開幕したのだが、開幕戦あのお隣の4連勝中の相手にスコアレスドローと厳しいスタート。それから、前半戦はわずか3勝しかできず、J1で負け続けたから勝ち方を忘れたと噂された。シーズン中には、意味不明な全然役に立たなかった韓国人アタッカーが加入し、無駄に外国人枠を使った。

しかし、後半戦は小林氏お得意の持ち直しで、3連勝や2連勝が何度かあった。また、シーズン前半戦は全然決めれず試合に出場するたひに、罰声を浴びていたキムジョンミンが活躍した。ただ、この「活躍した」っていうのは他チームの「活躍した」のレベルとは、全然違う。しかし、ミスターバックパスや、どっこいセンタリングがいた影響で失速してしまい、最終成績は14位。最終節は、サポーターもびっくりあのチームに3失点して負けてしまった。

また、今シーズン怪我が多かったのは、決して小林氏の仕業ではない。ボール君の怒りなのだ。

2016年[編集]

小林氏の元でヘッドコーチをしていた長島氏が就任。師弟関係を結んでいる為か昨年と似たような順位変動と去年に輪をかけたような怪我人の多さを見せたが、夏になってから復調した。

獲得した選手の頑張りに加え、去年使えないだの意味不明とか失速の原因と書かれた選手が続々活躍し出した為、最終順位は9位で長島氏は見事成績上では師匠越えをすることができた。 しかし一節もプレーオフ争いにすら関われず、最終節のホームで小林氏率いる清水エスパルスに力負けをしJ1昇格を見届ける羽目になっている為に、本当に師匠を超えていたかどうかは甚だ疑問である。

外部リンク[編集]