形而上学

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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形而上学(けいじじょうがく)とは、小中学生お断りの上、高校生も裸足で逃げ出す上、大学生の95%を地獄へ突き落とす恐るべき学問である。なお、ここはアンサイクロペディアであるため、せっかくなので小学生にも分かるように説明をする。合っているかどうかは誰も気にしない

概要[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「形而上学」の項目を執筆しています。
この記事を読むことでこういった状態になっても、筆者一同は責任を取りません。あしからず。

詳細はウィキペディアを参照のこと。なお、読んで理解できるような小学生がいたら怖い。なお、どういったことをウィキペディアで記載しているかというと、人間が思う、考える、感じるといった脳の動きにわざわざ一つずつ注釈と解釈をつけて、言葉にならないものを無理やりに言葉にするということを前提とした学問であるため、基本、意味が分からないと思って正解である。そのため、難しい言葉をワキャーだのうきょーだのという言葉と入れ替えても、文章全体では意味がなんとなく分かるという、ある意味、恐ろしい学問でもある。

分かりやすく言うと[編集]

人間には、大脳という存在のほかに小脳という、本来であれば思考とは関係ないと思われている器官が存在する。というのも、基本は大脳で思考し判断し、そしてその結果として体を動かすという話が一般的に知られているためで、小脳の動きについては、反射や体の筋肉の動き、さらには経験が蓄積され、様々な体の各機関が取得した情報を大脳に伝達する前に反応を行うという大事な器官であるのだけれども、逆に言うと1人の人間の周囲の世界の情報という情報が、全て1度は小脳を経由して大脳で判断されているため、そこから、思考や判断が生まれているのだけれども、実際はそうではない。思考や判断の多くは、経験による反射が多数占められており、長年培った礼儀作法や神に対する信仰心などの多くは、大脳まで情報が行かないまま、小脳や反射、もしくは反応で形成されている。

ようは、そういった大脳の判断を待たずして小脳での学問を行うという話が、形而上学で行われている様々である。と、間違えることとする。

神・愛・イデア[編集]

こういった小脳の動きについては、人間という存在が常時思考するものであるとご認識することからも始まる。というのも、人々は思うことに思考はできても、思われるという、受け身の判断を思考するのには情報が足りなくなることがほとんどであり、それがもし、だのという判断できもしない存在であればなおさら厳しいわけで。けれども、世の中には神のみわざと形容せざるを得ない偶然が目白押しであり、そういった思考してもしきれない何かを思考するための学問的受け皿として、形而上学が発展するのも仕方ない。

そもそも、学という言葉がついているのは、ソレがナニかを考えるという話であり、ワケのワカラヌ何かを神として、愛として、イデアとして来たのも哲学の歴史である。せっかくなので、それら全てが小脳という情報の受容体の反応であると勝手に考えることとする。そもそも、2年連続で最下位のチームがいきなり優勝したり、2試合残してブービーの17位、残留圏まで勝ち点差5の状態のチームが連勝、その上で上位2チームが1勝もできなかったりするような、理解できない、考えられないような奇跡、偶然といったものを、大脳は理解することを拒否する傾向にある。そのため、多くの人間の脳内では、という受け皿が作られることとなり、無理やりな答えとして理解するケースの多いこと多いこと。多くの文化でそれぞれの神の形が発展し、小脳からのとんでもない情報の受け皿として確実に文化の中には形而上学というものが存在する。と同時に、大脳の中にそういった考え、存在、ナニカを生み出すことを理解し、鍛錬するのもまた、学問のもつ1つの側面である。

ちなみに、どこぞの古代ギリシャでホモのプラトンが提唱したイデアという考えは、まさしく見るという動詞である「イデオン」から派生した姿・形という意味の言葉であり、小脳において、視覚を通してもたらされた情報を大脳で判断する前の、正確に言うと大脳で判断することでもろもろの情報を付随させる前のまっさらな状態で維持させた上での姿や形という話であり、そこから転じて「ものごとの真の姿」「ものごとの原型」という意味合いを持つことになる。と、さっき考えた適当な説明をくっつける。

ようは、形而上学とは、こういった思考をすることで、古代から現代の脳医科学に直結する精神を連綿と続けており、目に見えぬナニカやら真の姿、心の目というものは、大脳皮質でヘタに思考しないで小脳及びそれまでの経験による体の動き、よく言う反射をもって判断の形とすることをメインと考える何かである。無論、これは人体の動きであり、文化的な話に移行するとくそめんどくさくなるけれども、どこぞのブルース・リーが「考えるな、感じろ」と喝破した全てが、形而上学において存在している。もしかしたら。

ガウス・ノイマン・オイレンシュピーゲル[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「カール・フリードリヒ・ガウス」の項目を執筆しています。
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ジョン・フォン・ノイマン」の項目を執筆しています。
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ティル・オイレンシュピーゲル」の項目を執筆しています。

なお、こういった小脳の動きについては、世界史における天才たちの思考とも密接に関係している。なお、項目名にあるティル・オイレンシュピーゲルについては、ドイツの民話に出てくるキャラクターで、主にウンコを主体にした下世話な話の主人公であると同時に、単にリズムに乗せただけの名前である。本来であればレオンハルト・オイラーの名前があるのがふさわしいのだけれども気にしない。

あわせて、こういった天才と呼ばれる人々の思考の中には、小脳による反射でもって思考のようなものを行うケースが多々あり、ジョン・フォン・ノイマンのように頭の中にテニスコートレベルでのまっさらな画用紙が存在してそこに計算式をいつまでもどこまでも書き込むことができるというたわけた逸話の裏には、小脳という驚異的な存在がある。そこでは、システマティックに過去の経験や過去の判断、さらには、教育によって教えられた仕組み、すなわち大脳を使用しないで済む情報処理機関が詰め込まれており、考えずに答えを出すなんてザラ。その上で、思考もしくはナニカ新しいものを知るだの創造するだのという行為に快楽物質を発生させるように脳を鍛えるだけで、あっという間に6時間でも7時間でも2日でも3日でも思考を続けられるモンスターが出来上がるのだから、形而上学は本当に恐ろしい。

で、そうやって導き出された答えを、説明がめんどくさいからと発表しないのもまたお約束のようなものである。

つまるところ、こういった小脳を鍛える学問には、天才に直結するだけの思考、ではなく、天才と呼ばれても致しかたないレベルでの、脳の活動を長期間維持できるトレーニング方法が詰め込まれており、神学数学において、人知を超えた存在が多発する影には、こういった小脳および反射を鍛える学問が存在している。という話をすると、アホが食いつく可能性が高い。

形而上とは[編集]

なお、形而上学という言葉における形而上とは、中国の思想上の言葉である。易経という書物の中にある「形而上者謂之 形而下者謂之器(形而上なるもの、之を道と謂ひ、形而下なるもの、之を器と謂ふ)という文章から取られた言葉で、という老荘の思想の根源的な精神である形のないナニカから形をもつものが生まれることを、形而下とよびそれが器、すなわち存在を作るという話であり、その前の形而上とは、ようは形而下の前の道の段階で、ワケワカラナイというままで、それが大脳皮質、もしくは一文化におけるシステムに則った判断を経る、すなわち形而下を経て器になるという話である。多分。

実存[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「実存主義」の項目を執筆しています。

なお、形而上学と対を成す考えが実存主義である。ようは、ワケガワカラヌナニカという段階で情報や感覚を小脳に止めおくのではなく、実存、すなわち存在を小脳をすっ飛ばして大脳皮質でしっかりと認識するシステムをくみ上げることも可能であるという学問で、「実存は本質に先立つ」という言葉が存在するとおり、天才どもが数学の途中の式をすっ飛ばして答え、すなわち本質だけ書くよりも、しっかりとどういった思考をもってその答えを導いたかを書かないと、世の中しっちゃかめっちゃかになるだろうが、というこれまた大変によく知られた考えではない。絶対にない。しかし、形而上学の正反対の思考としては正解である。

実際、歴史問題や医療の分野で感覚もしくは小脳だけ、いわゆる天才に分類されるバカどもが分野をリードすると大変ろくでもないことになることが多く、一つ一つの事実を積み上げて検証して、その上でまた別の意見を戦わせることで発展する、小脳の天才より大脳の思考のほうが必須の学問もあることは確かである。むしろ、そっちのほうが多い。そこをあれだ。形而上だか哲学なんだかしらねえが、いきなり小脳全開システマティックに天才ならぬ天災的に最先端分野をひっかきまわされると、どこぞのルイセンコファン・ウソクのごとく学問全体が迷惑するため、大脳皮質が判断してわけがわからぬ愛国心やらなにやらという要素を取っ払うこともまた学問にとって重要である。ある意味、人々を熱狂に乗せずにしっかりと判断できるようにするという点において、天才大好き宣伝万歳であるファシズム共産主義の大敵のような考えである。

もっとも、この考えを世に広めたジャン・ポール・サルトルという斜視のオッサンの精神がネジくれ曲がっていたことは確実であり、普通に「地獄、それは他人だ」と人嫌いにもほどがある名言を残している人間が、若い時分は共産党を支持。その後に大喧嘩して分かれた上で復縁と別離を繰り返す時点で、存在そのものが皮肉としか言いようがない。事実、歴史に残る皮肉屋である。このように、大脳皮質全開で思考する結果、信条や思考、宗教に支持政党といった関与が繰り返されると、人間の精神はどこまでもどこまでもねじくれるという話は20世紀にいくらでも存在する。そのため、そういった外部的な影響を受けない個人的な思考の粋である形而上学がいつまでもどこまでも生き残るのもまたしょうがない。きっと。

言葉にしないという正解[編集]

関連項目[編集]