張コウ

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「よくも、わしを裏切ってくれたな~!!忘恩の輩めが!!」
張儁乂 について、袁紹
「臣、亮が申し上げます。この人物は討ち取ったのはわたくしである。そのことを厨歴史家はわかっておられない…」
張儁乂 について、諸葛亮
228年の街亭の戦いで「ふっ…馬謖はしょせん厨房だなと」とハード・ボイルド的なセリフをする張郃。

張郃(ちょうこう、ニックネームは「紅鷲将軍」、168年 - 231年)は、中国の時代における武将。字は儁乂。河間郡鄚県の人。張雄をはじめとする四人の息子がいる。

爵位は鄚侯、諡号は壮侯後漢の安帝期の司空の張敏の子孫で、文人・別部司馬の張超の族子である。187年に青州の黄巾党が、中山郡太守の張純と泰山郡の相・張挙と組んで、に反乱を起こしたため、弱冠20歳の張郃は、冀州刺史・韓馥の一兵卒として参戦して、元来が勇猛果敢のために功績を残して都尉に取り立てられた。

人物・略要[編集]

曹操に帰順[編集]

だが、191年董卓討伐から帰還して冀州に乗り込んだ渤海郡太守袁紹が、韓馥から冀州刺史を簒奪すると、張郃は袁紹から賄賂を受け取り、買収されて、その部将となり、公孫瓉を攻め滅ぼす戦功を挙げた。

だが、200年の官渡の戦いで袁紹のゴマスリの郭図らは張郃と犬猿の仲だったため、袁紹に向かって「張郃は高覧と淳于瓊とともに、殿(袁紹)に不満をもち謀反をたくらんでいるようでございます」と讒言した。

はたして袁紹は激怒し「張郃と淳于瓊には出頭を命じよ!!高覧はわが甥の高幹(袁紹の同腹の姉妹の子)の遠縁ゆえに軟禁で充分だ!」と叫んだ。これを郭図の政敵の参謀の許攸(曹操のホモ達)が張郃の陣営に訪ねて「殿はどうやら貴公と淳于瓊将軍を処刑したいようだ。それをすすめたのが郭図だ。どうなされるか?わしは曹操の学友のために、その縁で帰順することもできるのだが…」と言った。

そのとき、高覧が入って来た。事の内容を聞いて青ざめた。彼は「俺は并州刺史となった高幹の遠縁とは言え、袁家のは入ってない。未練はない。儁乂よ、許攸どのを頼って、魏公(曹操)に降ろうではないか」と言った。

こうして、意を決した張郃らは許攸を通じて曹操に帰順した。淳于瓊は許攸嫌いだったので降伏を拒み、烏巣で捕虜にされると、許攸の進言でを削ぎ切られ、処刑された(後に、許攸も劉勲とともに曹操の学友だった立場を利用して跋扈したため、激怒した曹操によって処刑された)。

歴戦の猛者の張郃[編集]

曹操は張郃に惚れてしまい優遇して、将軍に抜擢した。208年の長坂陂の戦いで、曹洪(曹操の族弟)の部将として、趙雲を追撃した。

211年、韓遂とともに反乱を起こした馬超配下の李堪と梁興を討ち取った。さらに215年の張魯討伐に参戦した。

217年、蜀王の劉備法正の進言で漢中討伐に動くと、張郃は曹洪の命で、武都郡陰平県にいたチベット系の氐族の酋長の強端(後に曹操より、李姓を賜り「李鵬」或いは「李奉」と名乗り、その子の李慕が成蜀(前蜀)の氏祖となる)とともに、同郡下弁県で張飛・馬超と戦い、陰平県で強端とともにその配下の雷同と呉蘭を討ち取ったのである。

まもなく、曹洪の命で定軍山にいた夏侯淵(曹操の従弟)の救助を徐晃とともに命じられた。だが、その途中で劉備が派遣した趙雲と、張飛が派遣した魏延・陳式(陳寿の祖父)らによって妨害されたため、間もなく夏侯淵は三男の夏侯称とともに黄忠に討たれたのである。

228年夏4月、魏の大司馬デブ曹真(曹操の甥)に従軍し、蜀漢諸葛亮が派遣した馬謖を街亭山に包囲した。生まれつきのゲーマボーイの馬謖はただパニックをおこすだけの厨房だった。ある日、衰弱した馬謖は援軍の高翔の軍勢を見て、街亭山から討って出た。これを見た張郃は「ふっ…馬謖はまだまだ小便小僧だな」と言って、郭淮とともに高翔の軍勢もまとめて馬謖の軍勢を壊滅したのである(街亭の戦い)。

不様な敗戦をした馬謖は将校の李盛・張休とともに冷酷非情な“酷吏軍師”の諸葛亮によって処刑された。ただし、陳某(陳式の子、陳寿の父)は父の陳式の功績に免じて、髠刑(坊主にされる刑)で済まされた。228年夏5月のことだった。この戦功で、張郃は征西将軍および車騎将軍に累進した。

壮絶な末路[編集]

231年、故・曹真の後任となった大都督・司馬懿に従軍した。諸葛亮は祁山にいたが、彼は隣接する略陽県に駐屯した。ある日に司馬懿がやってきて「張将軍、諸葛亮めは撤退する気でござるぞ!!そこで追撃を将軍にやっていただきたい」と言った。

だが、張郃は「それは、諸葛亮の罠です。撤退するのならば、そのままでよろしいではありませんか?」と慎重に言った。だが、司馬懿は「もし、将軍ご自身が拒むのであれば、私は陛下(曹叡)にこのことをご報告する。さすれば、あなたの立場は不利になりますぞ!」と恫喝した。実は張郃は司馬懿よりも10歳も年上で、司馬懿にとって目障りな「タンコブ」だったのだ、諸葛亮と相討ちさせる陰謀をもくろんでいた。

元来が職人の張郃は渋々この命に従い、諸葛亮を追撃した。その途中で姜維廖化の軍勢に手こずってしまい、国境の木門谷に差し掛かったのはすでに夜だった。このとき、矢の雨が降り注ぎ、哀れにも張郃らはその場で戦死した。張郃、齢65だったという(陳舜臣の説)。

この報を聞いた司馬懿は思わず「イヤホホホホオオオオオーーーウ!」とガッツポーズをして、大人気ない騒ぎをした。魏の明帝(曹叡)は老名将・張郃の死を悲しみ、長男の張雄をはじめとして、爵位を賜ったという。

関連項目[編集]

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