幸徳秋水

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幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、自由民権の地・土佐が誇るアナルキストである。

生涯[編集]

幼少~青年期[編集]

高知県中村町(現在の四万十市中村市)に生まれる。某陰陽師の末裔である。幼少期から頭が良く、母親のおっぱいまさぐりながら、そこに文字を書いたという逸話が遺されている。

21歳のとき上京、「金盃」と称して陰茎の包皮に酒を注ぎ、芸妓に飲ませたことで知られる先生に師事する。この時より、秋水は遊園地通いを始める。

第1の離婚[編集]

明治29年(幸徳26歳)、17歳の妻と結婚する。が、若い時分から遊園地に通い、美人主義を唱えていた幸徳には、うぶで不美人な妻は気にくわなかったので、結婚式の帰路、「口直し」と称して遊園地に行ったという。そして、あろうことか幸徳は、妻を故郷に送り届けて、すぐに三行半を突きつけたのである。結婚から離婚までの間、わずかに3ヶ月である。幸徳の母親は幸徳の妻のことを気に入っていたので、離婚後、毎日泣いていたそうである。

第2の離婚[編集]

そんなことに懲りず、「金盃」先生の勧めで、幸徳は2回目の結婚をしている。明治32年(幸徳29歳)の時である。妻は国学者の娘で、英語・仏語に堪能な才女であった。しかし、幸徳は後ろ姿を見ただけで美人であると誤認してしまったため、なぜか検閲により削除結婚後も幸徳の遊園地通いは止まらなかった(妻と一緒に遊園地に行かないという仕打ちによって、わざと妻と離縁しようとしたともいう)。

しかも彼は、あろうことか友人の妹に手を出すという過ちを犯してしまった。当然のことながら、怒った友人は、一升瓶を片手に幸徳に殴り込みをかけてきた。これに呆れた友人の箱根のお坊さんは、「動物は摩擦をやらなければ駄目だ」と主張し、幸徳の奥さんを上京させるように勧めた。

明治42年、幸徳の奥さんが上京してきた。ところがどっこい、幸徳は、赤い旗を振り回したため逮捕された別の友人が監獄に入っている間に、その友人のと恋愛関係になってしまった。そして、現在の奥さんと一方的に離縁したのである(幸徳自身は、自分が危険思想保有者であるため、妻に危険が及ぶのを避けるために離縁したのだと都合の良い言い訳をしているが)。このため、幸徳の同志の間での幸徳に対する評価は、みるみる墜ちていった(幸徳自身は、周りが冷やかすのが鬱陶しいから夫婦になったんだと言い訳しているが)。これに激怒した友人は、明治43年に出獄後、拳銃を片手に幸徳のもとを訪れたが、時既に遅し。幸徳自身、友人の妻とともに、あるお方を殺害しようとしたかどにより逮捕されていたのである。

最期[編集]

幸徳は、あるお方を殺害しようと計画したという容疑で逮捕され、取り調べを受けた。この間、離縁したはずの妻に対して、獄中に差入れを求めている。実に都合が良い話である。

明治44年(幸徳41歳)、幸徳は死刑判決を受けた。判決の翌日、幸徳は友人に送った手紙の中で、「善人栄えて罪人滅ぶ。めでたしめでたしの大団円」と、意味深なことを言っている。これで泥沼化した女性関係が清算できると言っているようにしか見えない。 そして1月24日、幸徳は処刑されたのである。享年41、上半身においても下半身においても、実に複雑な人生であった。


功績[編集]

下半身の功績ばかりではアレなので、上半身の功績も列記しておこう。

危険思想を普及させる
当時の(そして現在も)危険思想である社会主義による結社「平民社」を結成、新聞を発行して危険思想の普及に努めた。しかし、幸徳の下半身問題などにより解散。
帝国主義を理論化
幸徳は帝国主義理論を、階級的禿の父が理論化するよりも16年も前に理論化している。
世界七大詐欺師の一人を徹底批判
幸徳は獄中で、『基督抹殺論』なる論文を著し、刑死後に出版された。幸徳によれば、この詐欺師は歴史上存在しないらしい。しかし、世の人々はもっぱらこの本を、『基督抹殺論』ではなく『天検閲により削除抹殺論』として読んでいる。