平野長泰

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平野長泰」の項目を執筆しています。

ねぇねぇ、「ひらくん」こと平野長泰(ひらの ながやす、永禄2(1559)年生-寛永5(1628)年5月7日没)って知ってる?

概要[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「賤ヶ岳七本槍」の項目を執筆しています。

賤ヶ岳七本槍を思い出す時、どうしても最後までその名前を思い出せない武将として、ごく一部マニアの間では、有名なんだか空気なんだかよくわからない存在である。同じ地味な七本槍メンバーでも、関ヶ原の戦い小早川秀秋につられて西軍を裏切った脇坂安治(わきざか やすはる)や、大阪の陣を前に徳川家と豊臣家の板挟みにされてしまった苦労話の残る片桐且元(かたぎり かつもと)と比べても、一際目立って地味である。ちなみに、加藤清正ソックパペットとして有名な加藤嘉明(かとう よしあき)は、操り主のお陰か、不思議と存在感がある。このように、糟屋武則(かすや たけのり)にも匹敵する存在感の薄さである。せめて福島正則にでもくっついていれば、オマケ程度の知名度は得られたかも知れないが、今さら遅いのである。

早く大名になりたい![編集]

しかしまぁ、実に地味な存在ながら七本槍の名は伊達ではなく、その後も中国四国九州小田原朝鮮と転戦して着々と武功を積み重ね、どうにかこうにか大和国十市郡田原本に5千石の知行を得るまでに至ったが、大名として認められるボーダーラインの1万石には手が届かず、日々鬱々と過ごしていたところ、ある日徳川家康が「それもこれも、全部石田三成のせいじゃ」と吹き込んだデマを真に受けて、関ヶ原の戦いでは「君側の姦討つべし!」と東軍についてしまう。徳川秀忠の旗本として従軍するが、信州上田真田昌幸幸村親子に足止めを食らったため合戦に間に合わず、大きな出世のチャンスを逃してしまったのであった。その後、豊臣家中に居場所もなくなってしまったために徳川秀忠のお側付として仕えていたが、大阪の陣ではやっぱり太閤様に可愛がって貰った在りし日の恩義を忘れ難く、豊臣方につこうとしたのがばれて、こっぴどく叱られた結果、江戸で留守居役という名の禁固刑に処せられ、を加えながら、かつての主家が滅びゆくのをボケーッと見守るしかなかったのであった。かくして徳川の世が訪れ、もはや合戦もなくなったために手柄の立てようもなく、天下泰平を嘆きながら、地味な地味な人生に幕を下ろしたのであった。

ついに夢の大名に![編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平野長裕」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「田原本藩」の項目を執筆しています。

が、その地味さが幸いしたのか平野家は旗本として9代にわたって存続し続け、大名になりたくてなりたくて仕方がなかった平野長泰の無念を察したのかあるいは単なる気まぐれか、明治政府の計らい(いわゆる高直し)によって10代当主・長裕(ながひろ、弘化2(1845)年11月2日生-明治5(1872)年6月24日没)が代々の知行であった田原本に「藩主」として命ぜられ、10代越しの悲願であった大名(田原本藩)となることが出来たのであった。おめでとう!

が、現実とは非情なもので、ご存知廃藩置県によって夢の田原本藩はたった3年(慶応4(1868)年~明治3・4(1871)年)で消えてしまったのであった。藩主をリストラされたショックで寝込んでしまった長裕は、東京の病院で療養するもあまりに大きなトラウマのせいで、翌年28歳で亡くなった。

「田原本 藩三年の 夢の跡」
平野長泰 について、松尾芭蕉

余談 (出自)[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平野氏」の項目を執筆しています。

ちなみに、平野氏は鎌倉幕府の執権・北条氏の庶子・北条維時の子孫であると言われているが、そんなのどうせ家柄に箔をつけたいがための出任せであろうし、仮に万が一そうであったところで、戦乱の世にあってそんなカビの生えたような肩書きなど何の役にも立ちはしないのである。

また、秀吉の元へ転がり込むまでに名前を長勝⇒権平⇒長泰と変えているが、これは平野家でやらかした不祥事(一説にはテレビのチャンネル争いから長兄・長時をブン殴ってその前歯を折ったと言われる)並びにその逃亡先でしでかした不始末(一説には追いかけて来た次兄・長景を投げ飛ばし、骨を折ったと言われる)の結果であり、結局のところどんなに立派な家柄だったとしても、それを活かせるような人生は歩めなかったのであった。

そんな自業自得なやるせなさをどうにかしたい、と思ったか思わなかったのかは知らないが、嫡男にかつての自分と同じ長勝という名前をつけている。

関連項目[編集]