平重盛

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平 重盛(たいら の しげもり 保延4年(1138年) - 治承3年閏7月29日(1179年9月2日))は平安時代末期の武士。平清盛の長男。文武両道の名将でありなおかつ一族の皆に慕われる人格者で、平家にバランスをもたらすものと呼ばれ、父清盛から平家の将来を嘱望されたが、その父に先立って死去した。

[編集] 人物像

  • 壮年期の清盛は精神疾患に陥っており、時々何を喋っているのか分からないほどに取り乱す事があったと言う。そんな時は重盛が父の言葉、意図するところを翻訳し、なおかつ父の激昂を鎮撫する役割を務めた。清盛を諫止することが可能なのは重盛一人と言われた事からも、いかに彼の存在が平家の中で大きかったかが伺えるであろう。
  • 何をやらせても如才無くこなす非の打ち所がない万能超人であり、平家の繁栄に多大な貢献をしたと言われ、平治の乱においても、重盛の機転によって戦勝をもたらしたとされる。しかしこれらの重盛の活躍には後世に脚色されたところも多い。いや多かったと信じたい。あまりに重盛が活躍しすぎて清盛が無能に見えてしまう。
  • 礼節を弁える人格者であったという人物評には疑問の声も上がっている。重盛は嫡男であるが清盛の正妻平時子の子ではなく、宗盛知盛重衡らとは異腹兄弟であった為、幼少の頃より一門の中でも孤立気味であったといわれる。このような環境下で育った重盛が果たしてまっとうな人格者に育つかどうかは疑わしいところもあり、この説を引き合いに実は偏屈で短気な性格だったのではないかと唱える者もいる。
  • 1170年に殿下乗合事件と呼ばれる暴力沙汰を引き起こしている。重盛の息子平資盛が摂政藤原基房が車で通りかかる所を下馬の礼をしなかったため乱闘となり、資盛は基房の手下にフルボッコにされ父や祖父に泣きつき、基房は非礼を詫びるものの後日平家の兵士に報復の暴行に合う。この時、清盛が諫止したものの重盛が報復を強行したと言う説と、逆に重盛が諫止したが清盛が報復したと言う二説がある。もし重盛自身が報復を強行したのなら温和な人格者と言う人物像とは到底かけ離れている事となり、また反対したとすれば息子資盛が恥辱に塗れたのに何もしなかったと言う事で息子への冷淡さが浮き彫りとなってしまう。いずれにせよ重盛の人格者の人物評に疑念を抱かせる事件であった。またどちらの説を採用するにしても清盛と重盛の間に意見の激しい対立が生じていた事となり、後に鹿ヶ谷事件で清盛の処断に重盛が激しく反駁した事なども照らし合わせて、二人の親子関係は決して良好ではなく、清盛から跡継ぎとして嘱望されてはいなかったのではないかと評する声もある。さらにここから飛躍して重盛の夭折は清盛による毒殺説であると言い放ってしまう輩さえいる。
  • ちなみに、早世、夭折等とよく言われるが、重盛は享年42歳、当時の年齢に換算すると、確かにやや短命でこそあれ、早世と言われるほどの短命ではない。父清盛より早く逝去したため早世の印象を抱かれるのである。この点は毛利隆元などにも共通している。