平知盛

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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平 知盛(たいら の とももり 仁平2年(1152年)- 文治元年3月24日(1185年4月25日))は平安時代末期の武士平清盛の四男。同腹に宗盛重衡がいる。軍記物語では情けない兄宗盛に代わって実質的な平家の総大将として活躍する勇姿が描かれているが、実際はくしゃみするだけで脱臼してしまうほどの虚弱体質であり、立つ事もままならなかった。松葉杖無しでは歩けない身体であり、兄平重盛の「小松殿」と言う呼称に対して知盛は「松葉殿」と呼ばれており、蔑称の意味合いも些か込められている通称で呼ばれていたことからも、巷間にも病弱な人物像が浸透していたようである。しかし壇ノ浦の戦いでおよそ病人とは思えぬほど奮戦した為後の世の評価は一変、剛の者として伝えられるようになった。

[編集] 生涯・人物

知盛は先見性のある聡明な人物であったが生まれつきの虚弱体質であるゆえに歩行もままならず、一部ではまこと清盛の息子かと嘲笑の声も上がっていた。もののふとしての矜持を損なう事、そして極端に責任感が強過ぎる性分ゆえに、父、ひいては一族の名誉に汚点が付く事が斬鬼に絶えない知盛は病弱であるにも拘らず多くの合戦に従軍し南船北馬、我が身を酷使し、その度に負傷または病に罹っており、知盛が戦から帰還する際は必ずといっていいほど担架に担がれて帰還していた。それでも知盛は以仁王源頼政の追討を初め各地の源氏勢力の掃討に尽力したが、ただでさえ虚弱体質である知盛は、せめて護衛の弓兵部隊と共に後方からの戦の総指揮という頭脳労働に徹していればいいものを、強すぎる責任感ゆえに「大将たる者先陣に立ってこそ」と自ら鎧をまとって前線に突貫せんとした。しかし鎧を着るだけで骨折、馬を少し走らせただけで落馬してしまうなど戦のお荷物になってしまう事が多く、弟重衡達もに常々「かたじけない」と詫びていた。申し訳ないと思うなら無理に従軍しなければいいのに、と皆思っていたことは言うまでもないが、兄の尊厳を慮ってあえて口に出す事はなかった。兄の事を案じるなら無理矢理にでも制止すればいいのにと思うだろうが、仮に病室にでも隔離してしまえば極端に生真面目過ぎる性格の知盛は自分の無力さを嘆いて思い詰めたあまり自殺してしまう危険性があったため(現に、一度重衡が従軍しようとする知盛を無理矢理制止しようとした際、知盛がならこの場で死ぬと自害しようとした事がある)止めるに止められないという事情があった。一方で空気の読めない馬鹿兄貴宗盛だけは病人の分際で戦場に出るなとあからさまに罵り一門の顰蹙を買ったが、この忠告自体は至極全うなものであった。

治承・寿永の乱においても、知盛はボロボロの我が身をますます酷使し、文字通り粉骨砕身する。一ノ谷の合戦では、義経による奇襲を逸早く見抜くも、砂浜の小石に躓いて転倒、普通の人間ならすぐに立ち上がるところだが、病弱だった知盛はこの転倒で全身複雑骨折して重傷を負い虫の息となってしまうが、愛息平知章が我が身を犠牲にして知盛を助けた。蒲柳の質である親父を助ける為に命を落とした知章はある意味で気の毒かも知れない。

屋島の合戦では一ノ谷の負傷、愛息知章を失った精神的な負担もあって生ける屍同然の状態であったが、ここでも知盛は無理を強いて出陣、せめて雑兵の二、三人は討ち取って息子への手向けとしてくれると弓を放ったところ、戦の最中に初めて見る西国の海の美しさに恍惚となっていた義経郎党の佐藤継信の眉間に命中し、見事敵将を討ち取った。後に義経はあんな重病人の矢に当たって死んだと世間に知られては世間の嘲笑の的になってしまいマジで自分の沽券がヤバ過ぎるあまりにも不憫だと思い、継信は平教経から義経を庇って非業の戦死を遂げたと捏造した。

平家終焉の地となる壇ノ浦の合戦において、知盛は最後の執念という名の火事場の馬鹿力を発揮し、源氏の大軍を相手におよそ半死半生の病人とは思えぬ激闘を繰り広げるも、矢折れ刀尽き、最期を悟った知盛は碇を抱えて入水したと伝わっている。知盛の入水は平家の終焉を美しく締めくくる画竜点睛として伝わり。「見るべきほどのことは見つ」と言う彼の最後の言葉は、諸行無常の現世の有様、そして滅びの美学が集約された格言として語り継がれている。

…しかしロマンチシズムなど小片も持ち合わせていない冷徹な歴史家たちは「ひどく病弱だった知盛がそんな獅子奮迅の活躍できるわけねーだろ」と口を揃えてこれを否定している。一方で知盛の死様には異説もあり、自分もろとも義経を碇にくくりつけて道連れにしようとしたが、寸でのところで義経にすり抜けられ、自分だけ海へ転落してしまった、あるいは碇を掴んで敵軍へ投擲しようとしたところ、平衡感覚を崩して海に転落してしまっただけではないかとも言われている。ヨレヨレの知盛も末路としてはこちらの方が現実性があるのが悲しいところである。能楽作品「船弁慶」はこの説を採用し、平知盛の亡霊が源義経を冥府へと手招きする描写がある。誠に全てを悟って入水したのなら未練などなく、当然亡霊として現世に現れるはずがないというのだ。

壇ノ浦の合戦の頃には長き年月に渉って虚弱な我が身に負担を駆け過ぎたため壇ノ浦の頃には既に病床から一歩も動けぬ状態であり、なおかつ愛息知章を失った事で精神面でも疲弊しきっており、平家一門が女性達まで次々と入水するのを目にして、自分も入水しなければ一族に申し訳が立たないと思って入水し、後の沈没船系ジョーク(特に戦艦沈没、カミカゼ、バンザイアタックジョークなど)の元ネタになったも伝わっている。この時代を伝える軍記物語では平教経の活躍の方が鮮明に描かれている事が多く、やはり知盛が奮戦したかどうかについては疑念も浮上しているが、吾妻鏡の作者を始めとする鎌倉幕府関係者たちは熱烈な知盛ファンだったらしく、知盛を活躍させるために教経を一ノ谷で討ち死にしたという歪曲記述をしている。

[編集] 評価

病弱で有るにも拘らず、最期の壇ノ浦まで生き延びている事から、実はそれなりに丈夫な身体だったのではないかと勘繰る者もいる。