川上憲伸

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「うっす。」
川上憲伸 について、川上憲伸
「わしが育てた。」
川上憲伸 について、星野仙一
「昔の~名前で~出て~いま~す~」
川上憲伸 について、小林旭

川上 憲伸(かわかみ けんしん、1975年6月22日 - )は、中日ドラゴンズからアッー!トランタ・ブレーブスに移籍した野球選手であり、いい男である。

ポジションは投手で、カットボールの魔術師と呼ばれる。また、マネージャーは岩瀬仁紀であったが、メジャー移籍に伴い関係を解消。

来歴[編集]

徳島商業高校時代は4番のエースとして活躍し、ドラフト候補にも挙がるが、大学に進学してから逆指名してからプロ入りした方がかっこいいと考えたため、明治大学に進学。六大学野球では慶應義塾大学高橋由伸と切磋琢磨し、川上は中日を、高橋は巨人かっこよく逆指名する。しかしこの選択が、大豊泰昭に続く2代目2323襲名につながるとは、本人は知る由もなかった。

新人年の1998年は川上が14勝6敗と活躍し、新人王争いは川上に軍配が上がる。しかし、翌年は上原浩治が大学生新人として20勝を上げて新人王に輝いたので、忘れ去られてしまった。

岩瀬仁紀との出会い[編集]

2年目の1999年は、チームが開幕11連勝を飾りそのまま優勝する中、8勝9敗と2年目のジンクスのようなものに陥る。原因はこの年入ってきた岩瀬仁紀に一目惚れしてしまったことと言われている。また優勝決定の次の日の試合では、3位(当時)横浜に7回19被安打14失点とタコ殴りにされ、視察に来ていたダイエーのタコを驚かせた。しかし日本シリーズでは中日唯一の白星を挙げ、ちゃっかり敢闘選手賞にも選ばれたので、意図的に打たれたのではないかと考えられる。世界の王を前に大胆な策士っぷりである。

2000年、2001年はチーム、個人ともピリッとしないまま終わっていく。しかし同年オフに岩瀬から叱咤激励されたのを受け、また、武田一浩の舎弟となりカットボールを取得し、02年は野口茂樹に代わるエースとして君臨。ところが翌03年は、前年に岩瀬が結婚したこともあったのか、けがでシーズンの大半を棒に振り、エース(仮)と呼ばれてしまう。同期の高橋由が成績を伸ばす中、なかなかローテーションを守れない悔しさもあってか、頭がお察し下さいなことになってきてしまう。

大エース・川上の誕生[編集]

2004年は落合博満とともに漢を高め合い、ようやくパーソナルベストを更新する17勝を挙げ、ちゃっかり沢村賞まで貰ってしまう。これは中日の投手では、1994年のラジコンおじさん以来10年ぶりの快挙であり、大エースと呼ばれるようになる。また、このころから3代目2323とともに、年俸交渉でゴネるのが年中行事になった。

しかし順調にいかないのがこの男、2005年は前半戦こそ10勝3敗だったが後半戦は1勝5敗と大ブレーキとなり、5月のウッズの離脱とあわせて2位に終わった戦犯とされ、大エース(仮)、隔年エースと呼ばれてしまう。

2006年は、春先の井端を除き、大体のレギュラーが無双状態であり、川上も勝ち数こそ17であったが、多くの項目でキャリアハイを更新(後半戦は05年ほどではないもののお察し下さい)。2007年は隔年のハズレ年だったので12勝8敗だったが、朝倉健太中田賢一が好調だったことや、自身もポストシーズン無双を発動し(日本シリーズでは惜敗したが)、53年ぶりの日本一にかろうじて貢献した。

幻の最優秀防御率、そしてメジャーへ[編集]

2008年はアタリ年(のはず)だったため、不安定な時期を見せるものの、唯一のやり残しである最優秀防御率のタイトルは射程圏内であった。しかし、壊し屋JAPANへの召集令状を森野将彦岩瀬仁紀とともに受け取ってしまう。そして3人とも…お察し下さい…。さらには日本不発の戦犯とされてしまう(特に岩瀬)。この呪いを川上のみ跳ね返すことができず、結局タイトルを逃すこととなった。

砕かれた誇り、どん底で見つけた恋[編集]

2009年からはメジャーリーグに挑戦することになったが、後述のダルビッシュ・シンドロームを発病してしまい、中日時代のような2323な成績を残すことのないままマイナー落ち→ルーキーリーグ→契約終了となった。

このとき川上は、あまりの自分の不甲斐なさに荒れた生活を送っていた。街を彷徨い歩き、どことも知らぬ森の中で酒瓶にむしゃぶりついていた。だが、そんな彼に声を掛けるアメリカ人女性がいた。「飲ミすぎだナ。水飲ミナ。」流暢な日本語に目を向けると、彼女は微笑んで「これでもつまミナ。」とチェリーパイを差し出した。そのぐるぐると渦を巻いたパイに、川上は故郷を思い浮かべた。「君の名は…?」と問うも彼女は答えず、微笑みを残して去って行った。 彼女が忘れられない川上だったが、メジャーでのお別れコンペのため新しいパターを買おうとゴルフショップへやってきた。試打を頼もうと、近くにいた女性店員に声を掛け、驚愕した。正にその女性こそが、川上が探し求めていたチェリーパイの人だったのだ。

そのパターいいわよ。試してミナ。

ー試すまでもない、頂くよ。

こうして、運命に導かれ、ゴルフショップ『パター村』にて再会した二人はめでたく結ばれることとなった。

中日ドラゴンズ復帰[編集]

新たなパートナーを得たとは言え、メジャーで身も心も毛根もズタボロにされ、傷心帰国となった川上だったが、「ラジコンやってみないか? クワガタもいいぞ」「今度パーティに行くんだけど、着ていく服がわからないんだ」という昔の同僚達からの暖かい言葉に救われる。古巣への郷愁に駆られた川上は2012年、推定年俸3000万円で中日ドラゴンズに復帰。シーズン3勝に留まったが年俸は倍増した。

しかし翌2013年、シーズン終了後に戦力外通告を受け退団するもその数週間後にtanisigeがkanntokuにshuuninnした上に、あの人が完全黒幕化して帰ってきたのでなんか公園でキャッチボールしてる間にチーム復帰が決定した。

2014年は、何回か、一軍で、投げて、後輩の散髪とかを、してあげて、2年契約、しました。

退団、そしてるろうにへ[編集]

2015年は右肩痛に悩まされ実戦登板はゼロに終わる。このまま引退かと誰もが思ったが、9月にこっそり肩の手術を受けていたことが発覚。「師範となり後進の育成にハゲめ、との打診も受けたでござるが、拙者はまだ自分の野球人生に納得しておらぬでござるよ」との言葉を残し、退団。正真正銘のるろうにとなり、復帰を目指し名古屋市内の公園やゴルフの打ちっぱなしで修行にハゲんでいる。

しかし2017年3月に引退を発表。ノーノーしたことが思い出と言い残し、ひっそりと姿を消した。

プレースタイル[編集]

理論上は156km/h出すことができるらしいが、本気出すと自慢の胸筋でユニフォームが破れてウホッな事態になってしまうので、153km/hしか出せないことになっている。また、伝家の宝刀であるカットボールは、ストレートだと思って下手に手を出すと、相手のバット風を切ることになってしまう。しかし、後述のように派手に飛ばされる病気持ちなので、スタンドまで運ばれることも。しかしそう簡単に大崩れしないところ(特に大一番の勝負)が大エースと呼ばれる所以である。

打撃が良いことでも有名である。打撃の神様である川上哲治氏を祖父の弟に持つだけに、ふがいないピッチングで落ち込んでいてもバットを握らせれば笑顔で柵越えを連発するなど、中日時代は通算8本のホームランを打ったスラッガーでもある。他にも二塁打13本など長打を警戒される稀有な投手であり、ブレーブス時代は年1回代打で出場するのが年中行事になっている。

短期決戦が弱いとされる中日の中で、日本シリーズでは3勝3敗(ともに球団2位)と健闘しており、日本シリーズ最多の18登板にして未だ無失点の岩瀬とともに首脳陣の信頼は厚い。

人物[編集]

身長179cm(1.15hyde)ながら体重90kgで、厚い胸板が特徴。この胸板に抱かれて落ちなかったやつはいないと言われているイケメン揃いの中日の中では珍しく男前であるが、中日という肩書がいけないのか、それとも検閲により削除なのかで浮いた話はない。 と思っていたらアメリカで日本育ちのアメリカ人女性をひっ捕まえて帰ってきた。前にテレビで「外人好き」と発言していたので有言実行ということになった。

テレビで衝撃告白の川上と、苦笑する岩瀬

岩瀬仁紀との関係[編集]

岩瀬が1999年の初登板で1死も取れずにKOされ、ロッカールームで一人寂しく泣いていたところ、やさしい声をかけた先輩が川上だったとされる(ただし年齢は岩瀬の方が上)。ほどなくして2人は親密な関係になり、そして中日を代表する投手になった。写真は岩瀬との関係を赤裸々告白する川上。

2008年に岩瀬、森野とともに星野の公開レイプに遭った時には、「ガンさん(岩瀬)、森野(ドアラ)、あとは全部オレに任せろ・・・」という言葉を残し、岩瀬と森野を救出するも、そのとき背負った何かがあまりにも重く、先述のように最優秀防御率のタイトルを逃す羽目に。一方の岩瀬と森野の方は翌2009年にはケロっと回復し大活躍を見せた。川上の方は・・・。まさに川上の呪われ損である。

上原浩治との関係[編集]

ともに新人王を獲得し、ともに球界を代表する右エースと言われている両者だが、2002年の日米野球においてお互いのキメ球であるフォークボール(上原)、カットボール(川上)を教え合うという暴挙に出る。これについて、主に巨人サイドから「機密情報の漏えいだ」と問題視する声が相次いだが、上原は「お互いのためです」と釈明。しかし、10年現在両者ともそれぞれの球種を投げておらず、また両者とも09年からは仲良くメジャーでプレーしているため、その真意は謎のままである。

語録[編集]

(仮)時代も含めて長らく中日のエースを務めており、語録も多い。以下はその一部。

うっす[編集]

川上の代表的な挨拶である。ここまで読み進めていただくと、「やらないか。」と同義のように感じるかもしれないが、実際には「てへっ★」と同義である。

  • 使用例、2006年シーズン後の会見
    • 記者「川上選手、今年1年振り返っていかがですか。」
    • 川上「うっす。今年も後半戦は例のごとくあやしくなったが、なんとか持ちこたえたって意味も込めてうっす。」
  • 意訳
    • 川上「今年も後半戦は例のごとくあやしくなっちゃったけど、なんとかなったよぉ(^o^)v 危なかったぁ(>_<) てへっ★」

このように、安易にこの挨拶をまねるべきではない。

ボランティアで野球をやってるわけじゃない[編集]

2007年度の契約交渉の中で飛び出した魔法の言葉。この年は先述の通り納得のシーズンではなかったが、28試合のうち半数の14試合が巨人、阪神戦であったこと、クライマックスシリーズでの2連勝、4年連続の2ケタ勝利などを理由に現状維持はおかしいとした。

世論の反応は冷ややかで、中日は2006年の無双状態を筆頭に、毎年優勝争いを重ねる中で年俸総額が42倍になったともいわれ、やはり前年に劣る成績では現状維持でも仕方ないだろうという意見や、このキャリアで年俸3億6000万円はおそらく高めであろうという意見、中には年3億6000万円かかるボランティアとかどんなんという意見も。また、28試合のうち半分が巨人と阪神だったのは、広島市民球場で投げていないからという指摘は検閲により削除

この魔法の言葉は、かつて落合が中日を捨ててカネ巨人に走った際の「一番カネを出してくれるところに行く」という発言のオマージュとみられ、落合の長期政権の中で彼のスピリットが浸透してきたことがよくわかる例である。また、10年オフにはエース(研修中)吉見一起ほとんどまったく似たような理由で契約更改を保留しており、こうやってお金をせびることによってエースとしての地位を確立していくものとみられる。

なお、2009年春に出版された川上の自叙伝「不揃いのエース」によると、交渉でゴネるようになったのは、どんどん年俸の上がっていく岩瀬に嫉妬して始めたとのことである。その後福留も便乗してきたので、止めるに止められなくなってしまった。また、この発言が原因で翌08年にボランティアに強制参加となり、そして潰された。

持病[編集]

川上はエース故に(?)さまざまな持病を抱え、その数は156にもなるとされている。以下はそのほんの一部。

隔年病[編集]

川上が大エース(仮)と呼ばれた最大にして最悪の病気である。2004~2007年は毎年二桁勝利を重ねるものの、隔年で調子が悪いのは否定できない。この病気は球界全体に蔓延しており、中日同様非常に短期決戦に弱い球団の杉内俊哉や2年契約の外国人選手など多数患者がいる。2009年からは後述のダルビッシュ・シンドロームも併発し、川上の15年来の目標である200勝投手になる大きな障壁となっている。

ゴネ病[編集]

先述の通り、契約更改ではゴネるのがお約束となっており、その回数は平均10回はくだらないという。これは落合博満が媒介し、主に中日の主力選手に蔓延する風土病である。

一発病[編集]

打撃でも優れた成績を残している川上は、自身が通算8本塁打している一方で、非常に本塁打を打たれやすいという脆弱性を兼ね備える。これも中日の風土病であり、主に右のエース級が罹患することが多い。しかし通算成績を見ればわかるように大崩れするタイプではないので比較的軽症であると考えられている。

ダルビッシュ・シンドローム[編集]

ダルビッシュ・シンドロームとは、味方の援護が極端に少なく、防御率やWHIPの割に極端に勝ち星や勝ち越し数が少なくなる疾病である。成績は悪くないのに勝てないので(よほどの防御率・WHIPでない限り)登板機会も減り、査定にも影響するという最悪の病気で、治療法はなく、時間か金銭(補強的な意味で)でしか解決できない。

川上は09年途中から発症し、10年は開幕9連敗など悪化の一途である。おそらく08年の北京事件で岩瀬らにかけられた呪いを一身に背負ったこと原因であるとされる。

関連項目[編集]