巌流島

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巌流島(がんりゅうじま)とは、江戸時代初期に宮本武蔵佐々木小次郎一騎打ちを行った場所である。

しかし、本当の名称が舟島(ふなしま)であるのは言うまでもない。

所在[編集]

宇宙太陽系第三惑星地球ユーラシア大陸アジア州日本国中国地方山口県下関市にあるというのが定説。

ところが、定説に反して別の所在地を主張する者もいる。以下にその例を示す。

この国は、「巌流島は、その名称が全て漢字で構成されている事からも分かるように、我が国の領土であるのは間違いない」と主張している。これは、後に巌流島から地下資源が産出した場合に、その恩恵を独り占めするための作戦であるとの見方が強いが、詳細は不明。しかし、この国の主張が、一理ある意見であるのは、誰の目からも明らかである。

この国は、「歴史的に見ても、我が国の領土であるのは変えようのない事実だ。日本が領有を宣言しているとのことだが、明らかに歴史の捏造である。そもそも、この島で決闘したという宮本武蔵と佐々木小次郎は、我が国出身の人物である。それに関する資料もある。もし、日本が今後も不法占拠を続けるならば、我々もそれ相応の措置をとるだろう」という声明を西暦1999年に発表したことがある。しかし、あいにくこの年、日本政府は、恐怖の大王への対策に追われており、この声明には何の行動も起こさなかった。これが後の、竹島問題へと繋がっている。

この国が巌流島に対する異議を唱えたのは、2007年の初め頃である。ところが、日本では、この年の数年前より実施されていたゆとり教育による国民の学力低下が激しく進んでおり、この国の異議を理解できなかったため、詳細不明となっている。

明らかに九州側からの距離が近いためである。

歴史[編集]

巌流島は、日本で言う戦国時代の頃までは存在していなかったと言われる。ところが、関ヶ原の戦いの際に、隙を狙って九州牛耳ろうと画策した豊前(現在の福岡県東部)の大名である黒田如水が、本州への牽制の拠点を下関の近海に作ったことにより、巌流島の原型が生まれた。このとき、大量の舟を連結して、まるで島のように見せかけた(連環の計)という事から、「舟島」の名が付いたと言われる。

結局、関ヶ原の戦いがわずか数時間で終わってしまったが為に、如水の野望はあえなく砕け散った。結果として、舟島は放置されてしまい、そのまま月日が流れた。

ところが、1612年、当時、剣豪界一の美男子と謳われた佐々木小次郎をひどくねたんでいた(詳細は宮本武蔵の項目を参照)宮本武蔵は、小次郎暗殺を狙って決闘を申し込む。そうともしらず、これを小次郎は快諾した。

武蔵は、決闘の場を、忘れ去られた島「舟島」に決定。理由には諸説あるが、戦国随一の知将、黒田如水にあやかろうとしたという説が有力である。

決闘の地を舟島にしたことにあたり、武蔵は、廃れていた舟島を大幅に改造。武蔵の賛同者、細川忠興の力を借りて、立派な島に仕立て上げた。この際、島の至る所に様々な仕掛けを作っていたという話もあるが、定かではない。

決闘は武蔵が勝つのであるが、その勝利の仕方が余りにもひどかったため、小次郎に同情した地元民が、小次郎の号である「佐々木巌流」から、この島を「巌流島」と呼ぶようになった。武蔵は涙目である。この心の傷が深かったのか、以降、武蔵は以前にも増して非人道的な振る舞いをするようになったという。

現在でもこの島は、地元民ですら恐れて近寄れない。小次郎の亡霊が出るとか、武蔵の仕掛けたがあるかもしれないとか、グルーが住み着いているかもしれない、などという理由のためである。

そのため、日本政府は、この島を他国に譲ってもいいのではないか、という結論を出しかけた事もある。だが、採決を採ろうとしたときに限って、会議の主催者が変死するため、うやむやになった。

公の場で巌流島の話題を出してはいけないことが、暗黙の了解になっているのは、そのためである。

巌流島は、今も謎に包まれている。だからといって、好奇心だけで島に行ってはならない。好奇心に負けそうになったとき、もう一度この記事を読み返すべきであると、専門家も述べている。

関連項目[編集]