島清興

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島清興(しま きよおき、1540年1600年)とは、戦国時代から安土桃山時代の戦国武将である。筒井家家臣、その後、ニート生活を経て石田三成の過労を心配する家老となった。1600年に三成が挙兵し関ヶ原の戦いが勃発する。小山から引き返して来たの東軍と関ヶ原にて三成の組織した西軍が対決。小早川秀秋らの裏切りにて西軍の敗北確定後、三成を逃がす為に玉砕。討ち死に時は初老だったというが一応生没年不詳である。

司馬遼太郎の作品「関ケ原」では直江兼続石田三成と共に英雄扱いの主人公的な存在であるが「銀河英雄伝説」の作者である田中芳樹は自著「中国武将列伝」のあとがきで島と直江は何もしていない人物と言い切った。

通称、島左近(しま さこん)。課長~社長 島耕作は子孫。宇宙戦艦ヤマトの航海班長嶋大介も遠い子孫。

その生涯 前半生[編集]

島左近、妖怪退治の図

大和国の大名筒井順慶の家臣としてその存在は認められていたようであるが、なにぶん筒井家そのものがマイナーな戦国大名であり、なにをしていたのかが解らない。しかし少しだけ残る資料では青年期の左近と思われる人物が仇討ちをした描写があり若い頃から武闘派人間だったと云う。筒井家では松倉右近重信という人物がおり左近右近と並び称された。本人は「ウンコと発音が近い右近でなくホッとしていた」と後年述べている。

その生涯働きたくないでござる!という三成と生きる[編集]

筒井家の当主順慶が没してから左近は退職しニートになる。漫画を読んでネット三昧の素晴らしい日々であった。が、左近の武名はそれなりに有名であったらしく、諸大名の人事を司る人事課長、人事部長らが「ウチに就職しなよ。いい給料出すからさ」とストーキングする毎日であったのでウンザリしていた。その最中、天下人豊臣秀吉の奉行であり辣腕を振うことで有名な石田三成が現れる。三成はいきなり左近の前で秀吉から貰った石高給与明細を破り働きたくないでござる」「戦も大嫌いでござる」と宣言した。これに驚愕した左近は「あんたぁいい人だ」と石田三成の家老として再就職した。

三成の石高の約半分を貰い「三成に過ぎたるものが二つ在り 島の左近に佐和山の城」と云われた。

当時、豊臣秀吉が織田信長の跡を継ぐ形で天下に君臨し政権を築き上げていたが、秀吉は信長の家臣から成り上がった為に元同僚の周辺大名から内心「ケっ! 猿が」と舐められていた。更には「実はアイツが明智さんを焚き付けて本能寺で信長殺したんじゃね?」と思われるしまつであった。そのような秀吉家臣であり特に内政で辣腕を振るっていた三成は敵も多かった。朝鮮出兵では和平工作、戦況報告などで加藤清正」(けんかばかを中心とした武断派と呼ばれる諸大名と決定的に軋轢が生じてしまい秀吉死去後、三成は武断派大名とそれを操る形で天下を狙う徳川家康と対立することとなった。

小説などではこの時点で家康暗殺、襲撃を左近が三成に進言するが自称正義の味方である三成は堅物なので却下する。理想主義と現実主義の違い、上司と現場の意見の相違という現代にも通じる課題である。

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左近 関ヶ原にて散る[編集]

1600年、会津の上杉景勝が天下に内乱を起そうとしていると家康は討伐軍を結成。10万余りの軍勢を率いて会津へ向かう途中、好機と見た三成は家康打倒を宣言し挙兵する。関ヶ原の戦いである。が、この三成の挙兵自体が既に家康の術中にはまっており、まるで認知症のおばあさんを騙す詐欺師のようである。平成で詐欺の代表となったオレオレ詐欺は徳川家康が発案したという説も頷ける。西軍は序盤こそ伏見城を攻略するなど勢いを見せたが、小山評定にて家康が引き返し両軍20万余りが関ヶ原で対決する。

その前にも左近は三成に夜襲を提案したというが却下される。もう左近いなくていいじゃん。とか云っちゃ駄目。

関ヶ原での戦いは三成率いる西軍が鶴翼の陣で包囲網を敷いていたがこの時点で、家康は小早川秀秋脇坂安治吉川広家らを調略しており三成が敷いた包囲網は網ではなくサルの弟子らしくザルであった。午後になると小早川秀秋が裏切り、寡勢である三成の盟友にして名将 大谷吉継らが討ち死に。実質の主力軍であった宇喜多秀家勢らも壊滅した。

三成は「打ち首されたくない!(晒し首としては働きたくないでござる)」というだけあって往生際が悪く、そんな彼を左近は三成を逃がす為に東軍主力に突撃した。その時に左近が発した「かかれッ!! かかれェェッ!!」という怒号は東軍武士を恐怖のどん底に叩き落したという。関ヶ原を経験した黒田家の武士は老年を迎えた江戸時代初期まで左近の声が耳に焼き付いて離れなかったという。すごい大声である。浅黄色(ぶっちゃけ水色)の陣羽織を着た左近は鉄砲狙撃を受け遂に倒れたと言う。島左近清興といえば「三成に過ぎたるもの」として有名でありその首を狙って東軍諸兵が殺到し結局左近の遺骸は判らなくなった。故に島左近生存説がある。

島左近の評価:「結局何もしなかったんじゃないか?」[編集]

SAKON表紙

と作家の田中芳樹は大坂の陣で家康の本陣を直撃した真田幸村などの戦果と比べて左近をそう評している。左近は三成の軍事を掌る言わば裏方なので具体的な資料は残っていない。死体も残っていない。この項を執筆する上でも困ったものだ

1997年に「人類が核の炎につつまれた作品」で有名な漫画家 原哲夫によって「SAKON(左近) -戦国風雲録-」が執筆された。(原作は隆慶一郎の「影武者徳川家康」)

この作品では冒頭で「死人だから死なない」どう見ても二十代の青年にしか見えない左近が手下の忍者、甲斐の六郎を遣い徳川家康を暗殺して東軍を壊滅寸前に追い詰める影武者の予想外の活躍で西軍が不利になれば自らデザインした特殊な「義」の陣羽織(義の下部分が”死”という字になっている)を着て突貫、南斗水鳥拳の如く敵兵を鎧ごと次々と刀槍でぶった斬りなんと生還する。その後も捕らわれた三成と手話で会話し柳生新陰流の遣い手である刺客、柳生八虎を愛刀「墨炎」で撲殺するわ刺客の鷹麻呂を墨炎で秘孔を突いて殺すなど暴れまくり、応戦する柳生の忍者は雪崩萬獄という人間壁地獄で次々と襲い掛かり刺客の天鬼坊は次々数珠を四次元ポケットから出すなど壮絶な戦いを行い、甲斐の六郎に到っては極大北斗剛掌波すら会得して左近が豊臣家を守るという田中芳樹が見落とした漢の歴史上の事実しか描いていない。

備考[編集]

剣豪、柳生利厳の側室、珠は左近の娘であり、天才剣士として有名であったその息子柳生連也斎左近の孫である。漫画家野口賢の主張する史実では柳生連也斎西洋まで出かけてロボットみたいな騎士と戦った。

関連項目[編集]

Wikipedia
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