島津家久

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曖昧さ回避 この項目では、島津貴久の四男の戦国武将である島津家久について記述しているばい! 初代薩摩藩主の島津家久につ・い・て・は「島津忠恒」をCHECK IT OUT!! はい!!!
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「釣り好きで彼の名を知らない人はいませんよね。九州の生んだ英雄ですよ」
島津家久 について、ジョージ・マッケンジー
「そんな餌で俺様が釣られクマ――!!」
島津家久 について、クマー
若き日の島津家久

島津 家久(しまづ いえひさ、1547-1587)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した伝説の釣り師。

川釣りを生業とし、その生涯においておよそ人間業とは思えぬ常識外れの釣果を連発し「古今無双の釣りバカ」「釣聖」と称えられる全国の釣りキチどものヒーローである。全日本釣り団体協議会、日本釣振興会、国際ゲームフィッシュ協会などで殿堂入り多数。

なお、甥にあたる例のDQNと同名だが、これは彼の死後、勝手に奴が名乗ったもので、一族ではあれど直接的な関係はない。むしろ自称歴史通に混同されることで彼の名誉が損なわれる危険が長年指摘されていたため、近年こっちの家久を「良い家久」「釣り久」あっちの家久「悪い家久」「DQNな方」などと呼ぶ試みが浸透しつつある。

生涯[編集]

幼少期~釣り三昧の日々[編集]

島津貴久の四男として薩摩の戦国大名・島津家に生まれる。しかし根っからの仕事人間の父は家庭を顧みず、彼が物心ついた頃には長兄自宅警備員化、次兄は日に日に進行する化(オーガナイズ)の破壊衝動を抑えられず、三兄は常にニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべ何かぶつぶつ言っているなど、家庭内環境(と母の精神状態)は崩壊寸前になっていた。

このような兄たちの下で割と奔放に育った家久だが、15歳のある日、お爺ちゃんの忠良が趣味とする釣りに同行したことが彼の人生の転機となった。初めて釣り竿を持った家久はいきなりクドウオキノカミという大物を釣り上げて祖父を驚かせると、その後も天性の釣り才を発揮して次々に釣果を挙げ、あまりに凄まじい爆釣ぶりに羨望を通り越して唖然とした忠良は「釣法仕掛術に妙を得たり」と評し、最新の南蛮技術を駆使して作られた名竿「タネガシマ」を家久に与えた。

次に家久は、次兄が釣り損ねた菱刈家相良家が共同経営する大口の砥上釣り堀での釣りに挑戦すると、なんと入れ食い状態となり、やや小振りながらもホウキジブ・ムラヤマキイ・ヒラカワヤヒョウエなどなど多数の釣果を得られた。そのあまりの多さに持ち帰れず、数匹はリリースしたのであるが、その中にはマルメクランドという後に美味しくなるも含まれていた。

すっかり釣りの魅力にとり憑かれた家久は各地のぬし釣りに没頭し、一家総出で伊勢神宮参拝旅行に出かけた際などはいつの間にか京の公家連中の屋敷に上がりこみ、庭の池で釣りの腕を披露して喝采を浴びたり、参拝そっちのけで琵琶湖に出かけて明智光秀の城下で流行のルアーフィッシングを初体験し、これまたいきなり無数のブラックバスを仕留めるなど、大変な釣りキチぶりであったという。 釣り好きの公家などはこぞって突如現れた天才釣り少年のことを日記などに記しており、当時の風俗を今に伝える貴重な資料となっている。

このように釣りに明け暮れていた家久に、武家の棟梁である島津家中の者は苦い顔をしていた…ということもなくニート化を危惧した父によって無理やり家督を継がされた義久は相変わらずのインドア派でパソコンを通して家政を行っており、合戦などは精神と時の部屋で修行を積み超サイヤ人級の戦闘力を有していた義弘がクンッとやれば大抵の相手は死に絶えたので、自分の食い扶持は自分で釣ってくる家久は特に問題視されず悠々自適な人生を送っていた。三人の兄とは腹違いであったことも少なからず関係していると見られる。

オオトモのぬし。現在も絶滅危惧種に指定される。
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「帰りに肉まんジャンプ買ってきて」
島津家久 について、島津義久のメール

なお、次兄の義弘も趣味の一環として釣りを嗜み、その腕前もまた凄まじかったが、彼の場合は気弾を手当たり次第に川にぶち込み、プカプカと浮いた魚を回収するといった原始的なスタイルで、華麗な竿捌きによって鮮やかに獲物を釣り上げる家久の「柔の釣り」とは対照的な「剛の釣り」である。というか、どちらかと言うと狩りである。家久といっしょに釣りに出かけることもあり、有名な耳川の釣りでは暴れ魚として周辺住民に恐れられていたオオトモの仲間を二人で釣り上げているうちに競争が始まり、気付けば一夜にして絶滅寸前に追い込むほど乱獲してしまったため、生態系や自然環境にも心を配る家久はまだ息があったオオトモのぬし川に帰して深く反省し、この地に供養塚を建立して戒めとしたという。

後に義弘も家久の柔の釣りの真髄を極め、島津無想釣舞を完成させてあの国関ヶ原で壮絶な釣果を残すのだが、それは家久の死後のことである…。

肥前のクマー一本釣り[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「沖田畷の戦い」の項目を執筆しています。

家久の釣り人生のハイライトとなったのが、1584年3月の伝説の釣りである。

いつものように九州各地で釣りに興じていた家久はこの日、肥前を中心に暴れ回っていたリュウゾウジタカノブ(通称クマー)なる熊の妖怪が放流した怪魚を狙い、肥後八代で糸を垂らしていた。幾多のアングラーの手をかいくぐってきた歴戦の怪魚も家久にかかればチョロいもので、中でも特に屈強なぬしとして近隣住民に「リュウゾウジ四天王」と名付けられたエリグチナリマツヒャクタケエンジョウジキノシタなどを次々に釣り上げた家久は「四天王なのに5匹っておかしくね?」などと思案しつつ、その後現れた巨大なツキノワグマの化け物であるタカノブをもついでに一本釣りしてしまうという前代未聞の大釣果をあげた。

罠にかかったクマー

左図は家久の釣り友で、この釣りに同行していた新納忠元のスケッチである。忠元が友人に宛てた書状によると、家久はまず野原に伏せて身を隠しながら新鮮なヤマメを餌にクマーをおびき寄せ、冬眠から目覚めたばかりで腹が減っていたクマーが食いついたところを一気に釣り上げた。驚いたクマーは激しく抵抗したが、家久は鍛え抜かれた釣りテクの全てを駆使して数刻に渡る大格闘を演じ、そこら中を引きずり回されたクマーはついに力尽きて倒れたという。この活躍から、家久の釣りテクは釣り野伏せと名付けられた。

この体長3mに達する化け熊を釣り上げるという快挙によって釣り師・島津家久の名は天下に轟いた。クマーの手下で猫の妖怪のニャべしま直茂は「熊を釣り上げるとかありえねぇから!常識的に考えて!!」との声明を発表したが、後に送り返されたかつてクマーの頭部に相当したものの口元には確かに釣り針の跡が残っていたことから、こうした疑念の声も次第に収まったという。

なお、クマーの本体は島津スタッフがおいしくいただきました。

その後[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「戸次川の戦い」の項目を執筆しています。

すっかり時の人となってしまった家久だが、その後も各地を飛び回っては様々な大物を仕留め、充実した日々を送っている。

中でも有名な戸次川の釣りでは、最初に釣り上げたセンゴクゴンベという雑魚を餌にして糸を垂らしていたところ、本来は四国の四万十川にしか生息しない幻の魚であるチョウソカベ科の中でも珍魚として知られたチョウソカベノブチカ吉野川などに生息するソゴウマサヤスといった超大物を釣り上げることに成功し、ますます彼の名声は高まった。

しかし彼のアングラー人生がまさに絶頂を迎えていた1587年、家久は謎の急死を遂げた。死因は定かでなく、彼の人気に嫉妬した尾張の猿、もしくは家臣で釣り友の伊集院忠棟がイタズラをしようとして誤って殺してしまった説、たまには海釣りにもいくかと関門海峡で釣り上げたトラフグの毒に当たった説、釣りの途中で大雨に見舞われ鉄砲水に流されて溺死した説などがあるが、近年のさかなクンの研究によってフグの毒に当たった説が有力視されている。

子に豊久がおり、彼もまた家久の釣り師のDNAを受け継いで義弘に従事し、釣り師として名を馳せた。しかし義弘が無理矢理参加させられた関ヶ原の戦いで窮地に陥った味方を救うため、父直伝の釣り野伏せを発展させた禁断の釣術「捨て奸」を敢行。化け猫の一種ともの一種とも言われるミィ直政を道連れに壮絶な死を遂げ、義弘の撤退を成功させた。

関連項目[編集]