島津久光

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どう見ても悪たれ小坊主にしか見えない久光公

島津 久光(しまづ ひさみつ)(1817年12月2日 - 1887年12月6日)は、幕末に色々やらかした鹿児島の殿様。花火職人、爆弾職人、製薬会社の創始者でもある。島津斉興の五男。鹿児島からはるばるやってきたはいいものの、思ったとおりに事が進まずに所謂文久の改革に失敗し、自らの提示した改革が机上の空論に過ぎないことを露呈させてしまった。さらにその腹いせに外国人を斬り捨てたりするなど常時乱心気味の殿様。だが明治維新を迎えて急速に合理的な近代化が進む中でも「もののふのロマン」を捨てなかった漢でもある。

人物[編集]

  • 母親は女抜刀斎、剣聖と恐れられた女剣士お由羅の方である。その母から剣術指南を直々に受けたため剣術の腕は相当なもので、資料には記されていないが実は寺田屋事件では自ら太刀を取り鎮撫した。
  • マザコン、童顔、世間知らず、見栄だけは一人前と典型的なボンボンだが、普通の人間なら躊躇してしまうようなことを躊躇いもせずにやる決断力と度胸を併せ持つ辺り、彼もまた幕末の英雄の一人と言えるだろう。何?単に思慮が浅い(普段の恨みから西郷隆盛の良かれと思った独断に激怒する狭量ぶりなど)だけだって?そんな身も蓋も無い事言われちゃあ…
  • 兄斉彬が蘭癖と呼ばれるほど蘭学に通じていたのに対し、久光は国学に通じていた。つまるところ、斉彬はスパ王派で久光はどん兵衛派だったのである。
  • 久光自身は終生髷をそらなかったほどの典型的な日本男児であったが、その理由は一度洋装をした時にあまりの見栄えの悪さに側近らが皆卒倒したのにショックを受けたためである。欧米の慣習を取り入れた近代化が進む中、フォークやスプーンの使い方を人知れずこっそりと学んだ事もあるらしいが、自分の性にあわず文字通りサジを投げている。
  • 全く対照的な兄斉彬との中は実はそれほど険悪ではなかった。しかし、容姿端麗で人望篤く西洋列強の事情にも通じた兄に尊敬の念を抱きつつも多少なりのコンプレックスは抱いていたようである。
  • 兵器造作と言う共通の趣向を持つ鍋島直正とは文通友達であり、手作りの不発弾を添付した書状のやり取りを行っていたと言う。たまに直正から送られてきた手榴弾が暴発してしまうこともあったが、久光は全身黒コゲになりながらも笑って許したと言う。薩摩隼人だから身体も丈夫なんです。
  • 最終的に倒幕に傾いた理由の一つに、徳川慶喜に贈呈したガラス細工の鯨の置物(久光手作り)を粉々に破壊された状態で返品されたと言う痛ましい出来事がある。尚破壊したのは慶喜ではなく川路聖謨であり、慶喜の手に届く前に破壊された。その理由は「潮吹きなんて卑猥だ」というもの。
  • 愚直で鈍感だが根っからの悪人ではなく、単に時流に上手く乗れなかっただけである。萌え属性ではドジっ子ツンデレ辺りに該当する…多分。

生涯[編集]

幼少期[編集]

久光の母お由羅は御高い身分の出ではなかったゆえ久光に家督相続のツテが回ってくる筈も無く、幼い頃は種子島氏に養子に出されていた。島津家には聡明な嫡男、斉彬がおり、時勢を見る目に鋭く彼を期待する者も多かったが、保守派である父の斉興にとっては、斉彬は勝手な政策や浪費で彼を悩ませた超絶倫祖父島津重豪に重なるところがあり、疎んじられていた。その後母お由羅が家老調所広郷に接近するなど尽力した事もあって重富島津家当主の娘を娶り重富家次期当主の座に治まる。久光は斉興の覚えもよく、やがて本人の意図とは別に斉彬に対抗する家督継承候補として祭り上げられるようになった。この派閥の中心であったのが調所で、調所はお由羅と共に名家の主たるべき所作と帝王学を一つ一つを教え込み、一人前の立派な九州男児に育て上げた。結果久光は殿様の風格を備えた青年に成長した。しかし童顔だけはどうにもならなかった。またあまりに厳しく逞しく育てすぎたのに加え幼少から調所らの派閥の中心として担がれていたためこの頃から頑固で我が強く空気の読めない「お山の大将」になってしまった。

お由羅騒動[編集]

斉興は斉彬が成人をとうに越しても断固家督を譲らず、テコでも動かないほどの頑固さを見せる。その斉興の姿を見て、久光は他の藩士達のように老いぼれの見苦しい悪あがきとは思わず、これこそ誠の薩摩隼人であると憧れを抱いた。1848年、斉彬を後継に推し進める一派が、斉興、久光派の中心人物である調所が密貿易をしていたことの証拠をつかんで幕府に流す。召集された調所は老中阿部高和阿部正弘にこの一軒を咎められ、罰ゲームとして検閲により削除されてる最中に憤死(?)した。

事態はこれだけに収まらず、斉彬を当主に薦める藩士の過激派が久光とお由羅の暗殺を謀る事態にまで発展し、激怒した斉興によって首謀者達に切腹、蟄居、遠島、黒板消しトラップ、お尻ペンペンなどの厳罰な処断が下された。結局、幕府の介入によって斉興は隠居し、斉彬が当主となる。

藩の最高権力者へ[編集]

1858年に斉彬が死去すると、久光の実子で斉彬の養嗣子となっていた島津茂久(忠義)が家督を継承し、久光は藩主の実父として事実上藩政を掌握することになる。この過程で久光は大久保利通小松帯刀を登用、自らの人材発掘能力を自画自賛し悦に入っていた。

上京[編集]

1862年、自らの推進する公武合体運動実現のために上京する。道中、久光自ら先頭に立ち、藩士全員に「チェストー」と叫ばせながら上京への道程を大行進したことは、道行く人から「どこぞの宗教団体(または珍走団)か」と冷めた目で見られたが、久光本人は全く気にしなかった。豪放な鹿児島の殿様は道行く民衆の目線如き全く気にしないのである。無論、薩摩藩士達の大半が「気にしないにも程があるだろ…」と心中苦々しく思っていたことは言うまでもない。

公武合体運動~倒幕[編集]

上京した久光は早速公武合体確立のための地盤固めに着手、その具体的な政策と自らの意図するところを標榜するも、有馬新七ら過激派から「手ぬるい」と反論。これに対して、自らに絶対的な人望があると自負する久光は「有馬らは例え反対しても、何だかんだ言って最後は俺の考えに同意するだろう」と楽観的に決め込んでいた。しかし決して久光が愚鈍だったわけではなく、実直な彼は有馬達を信じていたのである。しかし有馬達は久留米藩士の真木和泉に炊きつけられ、寺田屋にて謀反を画策。有馬達の裏切り(久光にとってはそうであった)に久光は激怒し、寺田屋に乗り込んで一網打尽にせんと息巻いたが、奈良原繁らに諫止されてひとまずは説得する事になった。しかし久光は舌足らずであったため説得に失敗し、かえって有馬らの怒りの導火線に油を注ぐ結果となってしまう。酒が入っていたこともあり有馬は久光の政策の手ぬるさを強弁。仕舞には禁則事項ですな言葉を浴びせてしまい、激昂して手が止められなくなった久光に有馬を初め6人が撫で斬りにされた。久光はさらに2階にいた西郷隆盛の弟西郷従道大山巌など、後の明治の元勲となる者達も立てこもっており、彼らまで久光は斬り捨てようとしたが、奈良原や大山綱良が必死で久光を抑え、事無きを得た。久光は暫くの間狂乱状態が治まらず、必死で押さえ込む奈良原らをHA☆NA☆SE!!と叫び振り払おうとし、屈強な薩摩藩士が9人がかりで何とか押さえ込んだほどであった。

維新後[編集]

やる事が無くなったので、久光は腹いせに花火を製造してみた。当時、彼の下で働いてた職人に「癇癪」という名前の者がいてそこから花火の玉を「癇癪玉」と言うようになった。また怒りに任せて久光は製造した花火を発射した事から、腹を立てる事を「癇癪を起こす」と言うようになった。

そんなある日、例によって久光は怒りに任せて花火を製造した。その日はたまたま職人の「癇癪」は病気で休んでいたので、久光は自ら花火を作ってみた。ところが出来上がったのは花火ではなく薬であった。試しにその薬を病気療養中の「癇癪」に飲ませたところすぐに効果が出た。そこで久光は製薬会社を立ち上げる事にしたのであった。これが「久光製薬」の始まりであった。

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