岡潔

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岡潔(おか きよし)は日本の宗教家。

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略歴[編集]

   1901年4月19日  生誕
   1925年3月  京都帝国大学理学部卒業。
   1925年4月  同講師。
   1929年4月  同助教授 フランス留学 
   1932年3月  広島文理科大学助教授に。
   1932年5月  帰国
   1935年9月  啓示[1]
   1938年1月  休職。
   1939年6月  啓示
   1940年6月  辞職。
   1940年10月  前年の啓示により京都帝国大学から学位授与。
   1941年10月  北海道帝国大学へ。
   1942年11月  辞職。
   1946年8月  啓示
   1946年9月  『正法眼蔵』がすらすら分かるようになる。
   1949年7月  奈良女子大学教授。
   1964年3月  定年退職。
   1969年4月  京都産業大学で教養科目「日本民族」を担当。
   1978年3月1日  次の世へ向かった。

宗教家になるまで[編集]

岡は宗教家になるまで数学者であった[要出典]と言われる。またこの時期の岡は複数人だった [2] という噂もあるが、同一人が二人以上いるはずがないのである。え、数学者はそうは考えない?

宗教家として[編集]

思想[編集]

筆者には難解すぎたので以下の引用[3]から偉大なる全貌を感じてほしい。

「日本民族の始まりは今から三十万年くらゐ前だと思ふ。その当初から今のやう [4] であつたらしい。人類の起源は六十万年乃至百万年だといふから、これはちよつとほかに説明の仕方がない。それで私は、日本民族は他の星から来たのだらうと言つて自分に説明している。」

数学者をしていたこともあり、計算が人一倍得意であったことが偲ばれる。日本民族への深い愛が感じられる。

「純粋数学の研究を本来の形でしようと思へば、自他の別を離れるだけでは不十分である。時空の框も超えなければならない。」

数学を学んでいた岡が精神世界に目覚めたのは、あるいはこのせいかもしれない。人の世の不可解である。

「個は空間をも超越してゐて、二つの個の関係は不一不二であつて、その量は無量だと言はれてゐるのである。こんなふうにいはれるとなんだか少しわかつたやうな気がするからいかにも不思議でせう。」

筆者にはわからなかったが、岡先生にはこれでわかるのである。真に偉大な人物であることは間違いない。

「人類はついに、光と闇とが死の戦ひを戦ふべき秋(とき)が来たのである。」

「物質の世界の上に心の世界のあることを欧米人に知らしめるための必死の生命の科学の建設等、真の平和に到達するまでの戦ひはいくらでもある。日本民族はまずこの戦ひを戦ひ抜いて、人類を自滅から救はねばならない。」

戦争は避けえぬものらしい。しかも日本民族が先頭だって戦はねば世界は闇に沈むらしい。げに心胆を寒からしむる所大なる予言である。平和のための戦争だから仕方がないのである。

活動[編集]

いつも『正法眼蔵』と山崎弁栄を胸に、日本民族の発展と栄光のため随筆を書いていた。死ぬ直前まで口述で日本を憂いていたという。 また大学の教員の地位を利用して、日本の役に立つ子どもの作り方や日本民族による世界の救い方を学生に講義した。教え子に湯川秀樹、朝永振一郎らがおり、「刺激的だった」と述べている。

業績[編集]

多くの提言と予言をしたことによって日本学士院賞を受賞、文化勲章、瑞宝章などを叙勲した。つまり、日本政府も認めた予言者である。もう少し生きていたらノーベル平和賞を受賞していたに違いない[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 啓示にはインスピレーション・梓弓・情操情緒の三種あるそうだ。
  2. ^ フランスでも同様の特徴を持つ数学者がいたという証言がある。しかし、活動時期が近く、フランスは岡の留学先であるから岡の噂の派生であろう。
  3. ^ 原文は新仮名遣いである。
  4. ^ 心が合はさつて一つになつてゐる。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 『一葉舟』
  • 『昭和への遺言』