山崎武司

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「この、ブタ野郎!」
山崎武司 について、にしおかすみこ
「打たねぇブタは、ただのブタだ」
山崎武司 について、ポルコ・ロッソ
「タニマチの~おぼえめでたき~やまさきや~なごやにしばられ~せんだいかえれず~」
引退後の山崎武司 について、小野小町
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「山崎武司」の項目を執筆しています。

山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )とは一時期、ブタ扱いされていたラジコンカーレーサーである。その一方で2009年現在、宮城県の老齢者再雇用促進施設の嘱託職員として、屈強な男たちが固い肌色の棒を手で握りしめ力強く速く振り、白いものを柵より遠くに飛ばして点を入れるスポーツの非常勤選手を兼ねる。近年では、非常勤のはずが常勤で働き続けている。そのため世間からは、副業の活動ばかり評価されている。

なお本名は変えてないけど、表記を 武司に、いつの間にか改めている。

来歴[編集]

本業にたどり着くまで、副業で細々と食いつなぐしかなかった人生である。

名古屋の味噌カツ球団時代[編集]

消防団員[編集]

1986年の秋、あのイチローの5学年先輩という理由だけで、愛工大名電の“野球相撲部員”なのにドラフト2位で名古屋の味噌カツ球団に消防団として勧誘されたが、何となく入団しちゃった。気は優しくて力持ち、という持ち味が活かされた1990年は消防団員としての働きは目覚しく、人命救助で表彰を受けている。

ただし、心血を注ぐほど野球で頑張ってはいない。なにせ入団当時、『相撲部なのか、じゃキャッチャーな』と、安易にポジション決められてしまう事もあって、野球への取り組みは何事も自発的ではなかった。そんな姿勢だったんで当然、練習で手を抜いていておきたかった。

しかし監督が許さない。最盛期の星野仙一である。飛ばしてくる鉄拳なんて、マジンガーZですら及ばない。当然、山崎なんてボッコボコである。取り組み方も悪いから、もちろん1軍へは呼ばれない。そこへ、あのガタイである。細々と食いつないでいては、やせ細ってしまう。ハラが減った。

転機[編集]

名古屋に愛想尽かした売国奴落合博満が、オレンジの金満球団へ逃げ去って行った1994年。人材不足に悩むボソボソ言う、暗い監督に乞われて、放置されていた消防団員から転身。本格的に野球をする事となった。

ここが、運命の大転換点であった。そう、ラジコン界のザビエルであり、であった山本昌との出会いである。『アナタハ、ラジコン ヲ シンジマスカ?』との問いに引き込まれ、瞬く間に感化された。ただし、ラジコンで生活を成り立たせるには、もうしばらく野球で頑張らなくてはいけなかった。

鉄拳でチームを恐怖に陥れる暴君が監督に再任した1996年、野球では主に左翼で起用される事が多かった守備はお察し下さい。まぁ強いて言うなら、古木級の半歩手前と言ったところか…。それでもナゴヤ球場の狭さで、拙さは最小限で収まってた[1]。それでも起用された理由が力強い打撃力。39本を放った本塁打王にも輝き、メシには困らなくなった。だが、ラジコンをするには まだまだである。

ところが、1997年からナゴヤドームに移転した途端、外野の迷子になってしまう。もっとも、このオフには鉄拳監督による『血の粛清』が断行された。そこで、関西の黄色い おもしろ球団へ放出された大豊泰昭に替わって、翌1998年から1塁へ回された。

1999年は、優勝を手繰り寄せる逆転サヨナラ3ランを放つ活躍が代表的であった。しかし優勝しときながら、日本選手権シリーズへの出場は無し。なぜって?そりゃ、ふにんきツバメ戦での1塁守備。内野ゴロからの送球が本塁側へ逸れたんで慌ててキャッチ、そのまま打者走者にタッチするつもりだった。ところが相手は“小さな肉弾”真中満。突進を食らった左手から力無くミットが零れ落ち、膝を着いて悶絶した山崎。左手首を骨折してしまいました。そのせいです。なお、この辺りから何年かは、腰痛に悩まされる頻度が増えた。ギックリ腰による欠場などもあったのが、翌年だっただろうか。2000年シーズンなんてガラにも無く、1・2塁間を狙う軽打が頻繁に見られている。打率.311の成績を残すなんて誰もが疑ったが、腰痛によるフルスイングが出来なかった代償なのかもしれない。おかげで18本しか飛ばせなかったし。

2001年も頑張っても認めてもらえなかったところで、成績まで下げたんでとうとう単なるブタに成り下がった。楽しくなくなった。その上、FAで出て行きたかったのに、契約更改で散々と文句を言われ続けてきた味噌カツ球団から引き止められたんで、ついつい仏心を見せてしまった。結局、残留してしまったのである。

ところが、これが間違いの始まりだった…。鉄拳に替わる山田久志が監督となった2002年とうとう干されだした。おかげで、わずか2本塁打でシーズン終了である[2]。居残った意味が無い…。その上、このオフには山田のお気に入りである平井正史とのトレードで放り出された。球団のアホー!!引き留めといて、たった1年でコレかよーっ!![3]

オリックス氷河期時代[編集]

イチローも居なくなってナイター照明の光量すら落とされるほど、選手もチームも暗かった移籍先。その1年目(プロ15年目)の2003年こそ何とか働けたが、翌年は働かせてもらえなかったんで、ふて腐れて寝てしまいました。

ところが、永い眠りから覚めると、そこは雪国だったのです…。

再雇用促進施設 時代[編集]

旗揚げ[編集]

とうとう、多くの仲間と共に、野球選手としてクビ宣告を受けた。おかげで、改善され始めていた日本の失業率は再び5%を超えようか、という社会問題になったほどである。

ところが、捨てる神あれば、拾う神あり。仙台に新たに出来た『再雇用促進施設』へ入れてもらえる事になった。そこには仲間以外にも、他球団からのクビ宣告者たちも集まって来た。ただし、高年齢者の割合が過疎地域の集落並みだったため、『姥捨て山』とも呼ばれた。

第一「」と書かれた帽子がカッコ悪いなど、施設就業者たちからの不評もあったが、崖っぷちの人たちが健気に働く姿勢が、仙台を始めとする東北の皆さんに受け入れてもらえた。ただ、山崎は年齢の上位者だったため嘱託としての契約であり、長打が出なくなれば いつクビを切られても おかしくなかった待遇である。

地獄に仏[編集]

やり甲斐は感じられたが、おそろしく弱い。そのため施設責任者は2005年の、たった1年で挿げ替えられ、そこへツンデレのジジイが招かれた。

そもそも前年が借金59で、ゲーム差51.5のチームを優勝させろ、とは戦力総入れ替えもしてないのだから到底無理な話。少なくとも、『野球が出来る水準』にまで、引っ張り上げなければならない。そこで長打の打てそうなブタを、いじりだしたジジイ。

ブタにしてみれば当初は、ウザかったようだが、何気にヒントが見えてきた。今まで何となく振って、アタリ・ハズレを引くような運任せの打撃であったが、ジジイのヒントから初めて配球を読む事を知ったのである。ヤマを張るには根拠があることを…。

39才になる2007年、誰もが信じられない確変が訪れた。打率こそ.261ながら、欲しいところで得点してくれる強みが出てきた。『○○に張る。違ってたらゴメンなさい打法』の確立である。おかげで、この年にして40本塁打・100打点を突破。終わってみれば、2冠王。打てないブタから脱却し、施設の顔になった。もっとも28併殺打を含めれば、3冠王の出来上がり。でも、働きが働きなので免責です。大体そんなツッコミを入れると、ブン殴らバキューン!!

あっ、ラジコンは、どうしちゃったんだろう…。まぁ、いいや。

覇権を目指して その1[編集]

2008年シーズンは、最下位脱出できた前年以上の飛躍を期待されながら、開幕戦でのドミンゴの働きによる4連敗スタート。ガッカリした途端に7連勝で瞬間的に首位浮上したものの、浮かれたジジイの唄った鼻歌が、どうやら死亡フラグだったらしく、またも6連敗。結局、なんだかんだでには「シルバーシート」まで下降しちゃったチーム事情。

それでも、ブタ改め山崎は、前年に迫る働きを示した。この年の印象的な働きの1つに、博多のタカと「シルバーシート」を譲り合った10.7決戦での1打がある。奇しくも、相手チームの世界のタコ監督にとっても最終戦であった為、全国的にも話題になっていた試合であった。この試合をお互いにチャンスを潰し合ってズルズル引き延ばした延長12回になって、ようやく飛び出した山崎のサヨナラヒットで決着させたのである。ただ前述の通り、タコ監督への全国からの声援は非常に大きかった為、「勝たせてやれよ!!」、「空気嫁!!!」などの罵声さえも上がった。当然、タコ監督への「シルバーシート」贈呈に直結する1打を放った山崎も例外ではなく、一部から非難を浴びせられている。文句を言うなら延長12回表1死1・2塁の機会で、初球の140km/hのど真ん中直球を打って2ゴロ併殺打に斃れた、相手の4番へ先に言ってからにして下さい。

ただ1位から6位まで満遍なく味わったジジイは3年契約、この2008年限りで満了退任となるはずであった。しかし施設管理・運営能力、なにより世間の温かい後押しを“成果”と判断した施設運営本部は、もう1年だけ施設管理を託す決断をした。再びジジイと共に、途方もない戦いに挑むことと成った…。

覇権を目指して その2[編集]

ドミンゴをクビにした成果か?開幕戦の対戦相手でもあった北の果て球団との3・4月の直対6戦を、5勝1敗と乗り切って首位浮上。…したまでは良かったが、5月にヒックリ返されたら追いつけなくなっちゃった。その上、博多のタカにまで追い抜かれる有様。“勝負の年”だったのに、6月の6連敗と7月の8連敗で挫けてしまいました。

その間、7月辺りからの1ヶ月で再ダッシュを掛ける北の果てに対して、篩(ふる)い落とされる2位・博多のタカ、3位・イケメン・ブサイク混成球団。その下でヨレヨレの山崎たち。7月末から8月にかけての幕張での駄菓子屋さん球団戦で、3タテ食らって“終戦”かと思われた。

8月に入って、何とか踏み止まる戦いを見せていたものの、どう見ても浮上の気配は訪れない。なにしろ何の働きも示せてない4番打者。駄菓子屋3連敗の直前に2割7分を保ててた打率は、1週間ほどで2割6分を割り込みそうなほど転落。8月8日の北の果て戦みたいに、ようやく2本塁打5打点を挙げても追いつかない程度の反撃にしかならず、翌日には確変終了といった、お荷物なブタに成り下がっていた。

ところが、転機は訪れた。8月16日の、仙台での駄菓子屋3連戦の3つ目。前日まで2連勝ながら、この日は8表終了時点で0-6の大敗モード。「まぁ2勝1敗で我慢しとこうか」といった雲行きの中、この日3タコだったブタが突然、目覚めた。8ウラの3点弾は同月8日、13日(1本塁打4打点)に続く、追いつかない反撃の始まりかと思われた。しかし4-6で迎えた9ウラ、再び2点弾で6-6の同点。3度目の正直が実を結んだ結果、チームは12ウラの延長サヨナラ勝ちを飾ったのである。

この3タテで、何らかのスイッチが入っちゃったチームは6連勝・5連勝の快進撃で、イケ・ブサ混成球団を追い抜き、3位浮上。直後、4連敗を喫するも再び6連勝。イケ・ブサに追撃されても差を詰めさせぬまま、停滞してた博多のタカを射程圏に捕捉。しかし、インフルエンザ失速があっても立て直しちゃった北の果てには、最大で14ゲーム差も開いてたこともあって追い抜くには無理があった。いくら梨田監督でも、どんでん監督の真似なんて、とても出来ない。アレは、どんでん1世1代の為せる業。

その間、ガス欠を起こし始めた、再びブタ改め山崎。ホームラン以外は凡退という頻度が増え始めたものの、好調な就業仲間の働きに支えられ痛手にならずに済んだ。9月には12打数だろうと、21打席だろうと無安打を続けても4番から外したら打線を組めないのだから、ジジイも御構い無しだった。

そのタカを9月末からの直接対決で引きずり落とし、意気衰えぬチームは白星を重ねて初の2位を確定させた。弱い頃から温かい目で見守り続けてくれたファンの皆さんに、『初の下克上シリーズ出場にホーム開催権のオマケ付き』という、うれしいプレゼントが出来たのである。

この年、39本塁打・107打点・23併殺打。2冠王(併殺を含めれば3冠王)を獲得した前々年並みの働きで、躍進の原動力となった山崎だったが、最後の19打席でまたも無安打だったことに触れるのは禁則事項です

覇権を目指して その3[編集]

今まで他所がやってた『下克上シリーズ』へ出られるとあって、ファンも施設も心ウキウキでいた休止期間。リンデン騒動もあったが、それ以上にジジイ自身の話題ばかりが世間に採り上げられる。『施設責任者のおじいさん、この年限りでの退任』が既定路線だ、という。これには悪態の限りをついて猛抗議し、就労者の状態を顧みる事無かったジジイ。それなら勝って見返したる!!と意気込んで、仙台でのハゲ鷹軍団には切り札のWエースで2戦完勝、という景気の良いところを見せ付けた。『どうだ!!』と鼻息荒い おじいさん。しかし『結果に関係なく、おじいさんにはお引取り願う』という施設上層部。ああ無情。あれだけ強気だった おじいさんも意気消沈。大事な決戦を前に泣いてしまいました。

だったら“最後の花道くらい飾ってあげよう!!”って心優しい就業者たち。札幌での第1戦を壮絶な打撃戦へ持ち込んだ。ファンにしてみれば忘れられない一戦となった10月21日。ジョーカー級のWエースをハゲ鷹に使い切った分、かろうじて絵札の永井を除けば、カス札ばかりのトランプの様な投手陣。おじいさんも自身の事でアタマ一杯だったせいで、『投手陣をシート打撃で投げさしとくの忘れた』と、後に吐露したように“カス札の不安”を抱えたまま、終盤のピンチを迎えた。

6-1という大きなリードを保った7回1/3で捉まった永井だが、121球の熱投を責められない。もう2つアウトを奪うのに4投手を継ぎ込むも8ウラ終了時には、たちまち6-4。試合巧者の北国軍団を相手に、残る1イニングの攻防次第では、どう転ぶかも判らない。

すると9表、鉄平による意外な一弾が炸裂し8-4。息を吹き返した投手陣とチームは、出戻り福盛に9ウラに向けて全てを託した。

ところが、まさかの満塁被弾突然死。8-9xという漫画のような幕切れに、誰もが挫けてしまいました。

翌2戦目には10安打を放ちながらセギ砲の単発のみで14残塁。8表の無死満塁を潰すなど閉塞感たっぷり。完投の岩隈を見殺した1-3負け。3戦目こそ、まさおくん力投で踏み止まるも、託せる投手の居ない4戦目を序盤から4失点。3-4まで追い上げるも終盤の踏ん張り所では救援陣まで力尽き、4-9で終戦してしまいました。

そんな中、札幌での山崎は1戦目に突き放しの一掃2塁打を放ったくらいで、残りの2・3・4戦目では1日1安打が精一杯。仙台でのハゲ鷹2連戦で2戦連弾の4番が得点に絡めなかったのだから、敗戦は仕方ない。

試合後にはリーグ覇者でもないのに、お別れのおじいさんを両チームで胴上げ。剛毅な山崎であっても少し泣いてしまいました。『おじいさんを胴上げしたい』って、新加入時に語ってたノリさんが輪の中にいないのは何故だ!!って突っ込むのは禁則事項です[4]

試練[編集]

前年、精一杯働いた山崎たちの上司に、第3代目の施設管理責任者が就任した。ガイジンさん、だという。年々成績を上げている施設に対し、ファンの期待も高まるシーズン前。『油断したら転落する』と、応援番組・わしづかみでも語っていた山崎。煙たい おじいさんのクビ切りも達成し、『こりゃ優勝しちゃうんじゃね?』と勝手な妄想を抱く上層部を含めた、気楽な人達にクギを刺している。

フタを開ければ開幕4連敗。2戦目なんて、またも守護神・福盛の大炎上によるサヨナラ負け。歴史は浅くとも守護神炎上はドミンゴが遺してくれた、施設の伝統である。誤魔化しつつ戦ってきたが、2度の5割挑戦に失敗した交流戦の後はズルズル泥沼。そこへ輪を掛けて泥沼だった北の軍団が復調した6月下旬に追い抜かれると、歯止めが利かなくなりました。

そこでの山崎自身も例外ではなく、というより低迷の元凶に挙げられるほどの絶不調。ちなみに4月18日には阪神の金本がフルイニング記録をストップさせており、同学年の不調は他人事ではない。そこで『金本も記録止まったし、42歳組イカンな~。お迎えが来たか?打撃30傑、セのドベとパのドベやぞ』と、尻に火の付いてる状態(4月終了時で.227、110打数25安打4本塁打)をこう語った。特に親交は無いが、数少なくなった同学年の現役。そこへ『あいつは故障だろ。治せばできるんだもん。おれは幸い故障していない。』と、身体を気遣いつつ、自身は丈夫だぜ!!なんて優位をアピールしといて『でも体は元気なのに。それで打てないのは、寂しいんだよな』とウソのつけない、正直な心境を明かしてくれました。なお、この記事を目にしたのか、商魂たくましい施設では『阿呆タオル』の発売に踏み切っている。

5月には7本塁打を挙げ、復調の兆しを見せたのに6月の月間打率は、またも2割未満。7月以降で持ち直し28本塁打・93打点を挙げたものの、5位にすら7.5ゲームも離されたチームの順位に寄与する事はありませんでした。

またもアッサリと切り捨てられる責任者。降って湧いた後任に、あの男がやってくる。

正念場[編集]

4代目の施設管理責任者として招かれたのが、あの鉄拳の恫喝魔。味噌カツ時代での、その怖さを知っている。いくら嘱託職員の山崎であっても、たるんでいるとブン殴られる。おじいさんの頃とは違う緊張感の中で、1年を過ごすことに成った。ところが3月11日、降りかかった迷惑な震災。400本塁打まで残り7本まで迫ってた山崎も、一ヶ月遅れの開幕スタートでありながら仙台に帰れもしない、疲労感一杯の放浪生活を強いられた。

そんな中、開幕12試合連続安打(2本塁打10打点)という快調スタートの山崎。創設以来、暖かい目で見守り続けてくれた東北の皆さんを、励ます様な活躍を見せてました。そして、震災から3ヶ月の節目という6月11日、400本塁打を達成できました。ところが同日の最終打席。御愛嬌の空振り三振後、イタタタタって何?

勢い余って右手を骨折してしまいました。

エピソード[編集]

セ・パ両リーグで本塁打王に輝くほどの強打者ながら、その内実は天地ほど離れた野球スタイルである。

  • パリーグの時は、おじいさんから与えられたヒントを頼りに、自身を磨いた成果であった。ところがセリーグの頃ときたら他力本願。チームの占い師・落合英二のもとへ、パット数本抱えて駆け込んで行くどれなら打てる!?ふざけてるにも程がある。占い師さんも、えーっとなんて悩みもせず『ズバリ、これでしょう』と即答してくれるほどノリが良い。ところが、それは長距離打者の定番から大きく逸脱した“900gにも満たない軽すぎるバット”。『こんなんじゃ打てねえべ』と思いつつも、『大丈夫です』のお告げに促され、半信半疑のモヤモヤなまま打席に入って一振り。するとマジでホームラン。これに味をしめて、以後も占い師さんのもとへ足繁く通い続けた結果、記憶するだけでも6,7本のホームランを稼がせてもらった。
  • 2011年終了時には、ホームランを400本打てたが、ミニカーなら5,000台を所有している。
  • 山本昌同様、かつてはラジコンの他に「クワガタの飼育」にも勤しんでいたそうだが、こちらはもうやっていない。世話をするためにしゃがんだら腰を痛めたらしい。でも、あんた仮にも元捕手でしょ・・・

脚注[編集]

  1. ^ 本来なら1塁手でしか使えない水準であったが、それ山崎以上の壮絶な外野守備を披露する古木級の大豊泰昭が居たため、外野で我慢してた。
  2. ^ 2009年時点で通算350本塁打以上を放った長距離打者だというのに、2ケタ本塁打を最長で7シーズンしか記録できてない一因である。
  3. ^ ちなみに味噌カツ球団は、生え抜きでも何でもない山田監督には一層厳しく、翌2003年シーズン終盤に2位から5位が混戦してた状態でチームが瞬間的に5位転落した理由で、9月9日に強制休養(事実上の更迭)させた。でも、その後も混戦状態は継続されてたんで、ドサクサに紛れてチームは2位まで順位を回復させてシーズンを終えている。でも、優勝した阪神とは14.5ゲーム差。しかも3位タイの2チーム(巨人ヤクルト)に1ゲーム差で迫られたヒヤヒヤの2位だった。そのくせ、立浪に4番を託すほど困窮してたチーム状態だというのに、核になる外人打者を獲得しない非協力的姿勢な球団による、厄介払いであった。
  4. ^ 確か『優勝して胴上げしたい』って言った模様。優勝ではないから免責。ってのがノリさんの解釈らしい。悪しからず。

関連項目[編集]

  • 田尾安志 - 施設の初代責任者。ツンデレジジイの前任。
  • 福留孝介 - 味噌カツ時代の友達。


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