山名宗全

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山名 宗全(やまな そうぜん、1404年7月6日(応永11年5月29日) - 1473年4月15日(文明5年3月18日)、とは、我が子足利義尚を跡継ぎにしたい日野富子が、対立候補である足利義視(あしかが よしみ)を庇護する細川勝元を叩き潰す為に呼んだ助っ人である。いわゆるガンコだけどちょっと涙もろいオッサンで、喜怒哀楽が激しく常に顔を紅潮させ、いつもから湯気を沸かしていたことから紅蓮入道と呼ばれていたりする。松岡修造同様、放出する熱気が地球温暖化を促進させるほど熱い影響力があった。怜悧で策謀大好きな細川勝元とは水と油の関係で、この何から何まで相性の悪い二人が大喧嘩したことで応仁の乱が引き起こされた。

人物[編集]

かつて山名氏は日本の六分の一に匹敵するほどの領土を保有し、「六分の一殿」と呼ばれるほどの版図を築いていたのだが、間抜けな山名氏清山名満幸の兄弟が足利義満の挑発にまんまと引っかかって挙兵し、案の定返り討ちにされ滅ぼされた(明徳の乱)ことで大幅に領土を減らされ衰退していた。

しかし、宗全が有力な守護大名や公家に賄賂を送ったり、合戦で武功を立てたりして血のにじむような努力をし、衰退していた山名氏は旭日昇天の勢いで力を盛り返した。日野富子に義尚の後見人になってくれるよう頼まれた時、宗全は既に60近くだったがなおも赫灼としており、快く義尚の後見人になることを承諾した。

宗全にとって、管領細川氏は長年の敵であった。事実は違うのだが、宗全は、山名氏が没落した明徳の乱は細川氏が義満を煽動して起こしたものだと確信しており、細川氏に並々ならぬ敵意を抱いていた。足利義教が暗殺された嘉吉の変では、宗全はドサクサに紛れて当時の細川家当主細川持之を殺害しようとしていた。そういう昔からの確執が、応仁の乱という機会を得て一気に爆発したのである。

その激しい気性から、歴史の漫画なんかだと戦争大好き人間として描写される傾向があるが、実は慈悲深く人道に篤い人で、応仁の乱の荒廃を目の当たりにして、自分が不毛な戦争を引き起こした事を恥じて切腹しようとした。しかし、病のせいで脳味噌がちょっとおかしくなっていたので、脇差ではなくスリコギで腹を切ろうとしたため失敗した。

関連項目[編集]

Wikipedia
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