尾藤知宣

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尾藤 知宣(びとう とものぶ、? - 1590年)は豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた時期から仕えたサムライであるが、主人ほどの運がなさすぎたせいで天寿を全うできなかったカワイソスな人物である。

経歴[編集]

尾藤氏は遠江の小領主であったが、桶狭間の戦い前後から織田信長の家臣、森可成森蘭丸の実父)に仕えるようになった。知宣も父や兄とともに森可成の家臣であったが、可成のもとでは地味な諜報活動ばかりやらされており、もっと戦で目立ちたいと考えていたので、1564年ぐらいに足軽から織田家の侍大将に出世した木下藤吉郎に仕えた。このころの同僚には神子田正治戸田勝隆らがいるが、いずれもあまり幸福な人生を歩んでないという共通点があるのは偶然ではないだろう。

運命の転機[編集]

主人秀吉の出世に伴い、地味であるが順調に出世していった知宣は1585年の四国攻めで功を挙げ、翌年讃岐丸亀に5万石を拝領した。それまでは5千石の領主だったのが一気に10倍になったことで、領地の経営や家臣の募集などに苦心している最中にとんでもない事件が起きるのである。隣の高松城主仙石秀久九州征伐の前哨戦である戸次川の戦い長宗我部信親十河存保を戦死させ、まっ先に逃げ帰るという大失態を犯したため、秀久は改易され、秀久の領有していた高松10万石と軍監の地位を知宣が引き継ぐことになったのだが、それでめでたしめでたしというわけにはいかなかった。何しろ前任者は追放されているので引き継ぎ作業そのものがうまくいかなかった上、高松に入った時期が1587年の正月で、前の年の年貢は仙石が領収していったため、収入源がほとんどなく兵の募集や内政の予算作りに苦労したり、自分の家臣と旧仙石氏の家臣で新たに召し抱えた者との折り合いが悪く、家内の統一に困難をきたすなど悪戦苦闘の毎日を送ることになった。

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く[編集]

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そんな折に関白殿下は九州征伐の大動員令を発しやがったのである。軍監の地位にあった知宣も出陣することになったが、予算不足のため、通常なら3千人の兵を動員できる筈が、1千人足らずしか動員できなかった上に装備も整ってないという状況だった。そんな状態で中国・四国の大名たちが指示に従う筈もなく、黒田孝高小早川隆景といった武将たちは知宣を無視して、上役であり大将の豊臣秀長に指示を仰ぐという始末だった。

だが、知宣は上から目線になることなくなんとか役割を果たそうと必死になった。これは戸次川での仙石の失敗が頭に焼きついていたため、何としても同じ失敗を繰り返して関白の怒りを買うようなことだけは避けたかったからである。1587年4月秀長率いる10万人を超える軍勢は日向高城(現在の宮崎県児湯郡木城町)を攻め、高城に近い根白坂の峠に宮部継潤を配置させ、島津軍の攻撃に備えたのである。島津の攻勢は凄まじく、根白坂の宮部継潤から援軍の要請が出された。

だが軍監の知宣は戸次川の二の舞は避けようと援軍を拒否し、直ちに撤退するように提案した。だが秀長の家臣・藤堂高虎が個人で出陣して奮戦したため、他の諸将も参戦して島津軍の撃退に成功した。 この時撤退する島津の軍勢を追撃しようと諸将はいきり立ったが、すっかりKY状態になってた知宣は「追撃はなりませぬ!島津には必殺の戦術、『釣り野伏』がありますぞ!これで龍造寺隆信仙石秀久も一敗地にまみれたでござらぬか!なんとしてもおやめなされ!」と目をひん剥いて絶叫したため、追撃はされず島津の主勢力は温存されてしまったのである。

知宣の相次ぐKY行為を聞いた関白殿下は激怒し、博多の本陣に知宣を呼びつけると、「宮部継潤から報告があったぞ!『軍監の尾藤殿は我らを見殺しにしようとしか思えぬ』とな!どういうつもりなんじゃ!?」

知宣は体中に冷や汗をかきながら言い訳した。「そ、それは戸次川での仙石の二の舞になってはまずいからと…………」

「ええい!黙れだまれ!貴様のような臆病者の顔なんぞ見たくもない!こうなりたくなかったらさっさと立ち去れ!」と言って秀吉が投げ捨てたものは、1584年小牧・長久手の戦いで陣地を守れず逃亡し、追放されたのにも拘らず帰参を懇願しようとしたが、許されずに処断されたかつての同僚神子田正治の首だったのである。

こうして、知宣は高松10万石の所領を没収され、追放された。

悲惨な最期[編集]

追放された知宣は伊勢神宮の近所に住み、秀吉の許しが得られるよう、伊勢神宮に神頼みする日々を送った。そうして3年ほどたったある日のこと、追放されたはずの仙石秀久が小田原攻めで功を挙げ、信州小諸5万石の大名として復活したという噂が流れた。

いてもたってもいられなくなった知宣は剃髪してニワカ坊主の姿になり、1590年7月、下総古河にいた秀吉のもとに馳せ参じ、許しを得ようとした。

だが、秀吉は「(゚Д゚)ハァ?何も手柄を立ててないのに帰参して大名にしてくれだぁ?虫のいいことぬかしてんじゃねぇっ!」とこれを一蹴し叩き出してしまった。

失意の知宣は、せっかくだから奥州でも旅行して、今後の人生を考えなおそうと思い、その足で北へ向かった。そして、下野の那須野まで来たときに武装した数人のサムライに襲われ、着ぐるみを全部はがされて、鼻と耳を削ぎ落され、手首と足首を切断され、一昼夜放置されてから首を斬られてしまった。これは秀吉の差し金であった。

秀吉としては、天下統一が成されたとは言え、東北地方はまだ政情が不安定であったため、そこに追放された知宣が来てしまっては「寝た子を起こす」ような事態になってしまうから、そうなる前に先手を打って殺してしまったのだが、このあとに葛西大崎一揆が起こってしまった。結局、知宣は無駄死にしてしまったのである。

家族と子孫[編集]

知宣には弟と息子が2人いた。弟と長男は関わり合いになって殺されてはたまらないと考え、宇多という姓を名乗り、石田三成に仕えたが、三成が関ヶ原の戦いで敗北するとそれに殉じて三成の居城・佐和山城で自殺した。次男知則はまだ子供だったこともあり、細川忠興に拾われ、後に三男の細川忠利に仕えた。この後知則の子孫は細川氏の家臣として、現在にまで血筋を残していくのだが、同じような失態を犯したのにも関わらず、仙石秀久の子孫はお殿様としてふんぞり返っているのに対し、尾藤知宣の血筋を受け継ぐ自分たちは数百石取りの侍として細川の殿様やその部下たちにへいこらしなきゃいけなかったのがそんなに悔しかったのか、仙石秀久の悪口を本として残したのであった。その中の一冊「豊薩軍記」が国民文学を自称する白髪の大木凡人の目に留まったもんだから、現在の仙石秀久の評価については……お察しください

人物[編集]

根白坂の合戦の際の言動から慎重な性格だと思われがちだが、実際は大胆であったらしく、讃岐丸亀5万石を拝領した時、 豊臣秀吉明智光秀の家紋であった「水色桔梗の紋」を自分の旗印として用いたいと申し出ており、許可されている。当時の人間にとって謀反人にされた者の所縁のものは縁起が悪かった(これは現在でも一緒である)ので、かなり驚かれたようだ。え?徳川家康の家臣、井伊直政天目山の戦いで滅亡した武田家の赤備えを自分のものしたんじゃないかって?でもそんなの関係ねぇ!ちなみにこの水色桔梗の旗印は知宣が改易された後、加藤清正が自分のものにしてしまった。

関連項目[編集]


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