少弐冬尚

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少弐 冬尚(しょうに ふゆひさ、1529年 - 1559年)とは、九州の戦国大名。下克上されて食い殺されたことで有名。通称、北九州のサーモン。

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少弐氏の呪い[編集]

少弐氏は、源頼朝によって鎮西奉行など北九州の要職に任命された武藤資頼を祖とする、由緒正しい名族である。元寇の際、最前線で爆弾を投げてくるモンゴル兵と戦った少弐景資は、有名な少弐氏の一族である。日本を護った英雄まで輩出している名家だが、その少弐の一族にはある呪いがかけられていた。それは歴代当主が悉く討死ないし自害に追い込まれるというものである。確認できるものだけでも、

  • 2代目・少弐資能 元寇・弘安の役で深手を負いそれが元で死去(事実上の戦死)
  • 少弐景資(3代目経資の弟) 兄貴に霜月騒動で殺される。
  • 5代目・少弐貞経 南北朝で足利に味方したが南朝に攻められ自刃。
  • 8代目・少弐冬資 今川了俊に根拠のない疑いをかけられ暗殺される。
  • 11代目・少弐満貞 大内家との戦いで戦死
  • 12代目・少弐資嗣 大内家との戦いでry
  • 14代目・少弐教頼 大内家ry
  • 15代目・少弐政資 大内ry なお息子の高経も運命を共にした。
  • 16代目・少弐資元 一旦大内と和睦するも欺かれて自害に追い込まれる。

…このように、歴代当主の半数近くが戦死あるいは自殺に追い込まれるという最期を遂げている。もはや呪われた一族といっても過言ではない。そして冬尚も、その呪われた宿命から逃れることはできなかったのだ。

略歴[編集]

冬尚が家督を継承した頃の少弐家は、大内の侵攻、資元の自殺などの要因が重なり崩壊寸前であった。その崩壊寸前の少弐家を守り立てたのが龍造寺家兼である。このとき既に80近くであり、このあとさらに10年以上も生きることから、高性能じいちゃんと呼ばれている。

お家復興のために尽力したとか後世の史料には書かれているが、実際には弱体化しきった少弐家を事実上乗っ取ったも同然である。主家をないがしろに隆盛を極める龍造寺家に対して、他の主要な家臣団は当然憤慨した。そしてその中の一人、馬場頼周が、冬尚の命令と称して龍造寺一族をあらゆる謀略を用いてほぼ皆殺しにした。しかし肝心の高性能じいちゃんである家兼を始末することには失敗した。

ところで、冬尚の命令とはいうが、実際には馬場さんが彼一人の裁量で動いたも同然である。そもそも、没落しきって権限も地に落ちた少弐の当主に、もはや重臣に命令するような発言力も威圧感も残っていなかった。冬尚は、事実上龍造寺と馬場が取り合う傀儡も同然となっていた(小田江上神代? だれそれ、女芸人?)。

そして冬尚の関知しないところで事態は次々に進展する。挽回を図った家兼は挙兵し、馬場頼周は奮戦したが最期は捕縛されて斬首された。程なくして家兼は他界し、その後跡継ぎをめぐる抗争が勃発したが、肥前の熊こと龍造寺隆信(このときはまだ「胤信」という名前)が継承した。

若き肥前の熊は血の気が多い人物で、少年の頃に親父をはじめ一族を殺されたというショッキングな経験もあって猜疑心の強い酷薄な人格が形成されていた。そしてこの熊は一族を殺されたヘイトの対象を冬尚にも向けた。勝手に頼周が冬尚の名前を利用してやっただけなのだが熊にはそんなことはどうでもよかった。

そしてあろうことか熊は、少弐家歴代の当主を戦死させた仇敵である大内家の当主大内義隆と和議を結んでしまう。熊こと胤信は義隆の一文字を拝領し、ここに龍造寺隆信が誕生した。仮にも少弐の家臣なのによりにもよってお家の仇敵と手を結ぶというとんでもない背信行為、いかなる聖人君子であろうが激昂するのは無理もなく、事実冬尚も憤慨して龍造寺討伐の狼煙を上げた。だが熊は戦に関しては天才的な資質があり、冬尚はじわじわと追い詰められ、そしてついには1559年に居城勢福寺城で切腹して果て、遺骸は三枚おろしにされて熊がおいしくいただきました。

その後、少弐家を乗っ取り滅亡に追い込んだ熊は、今度は自分が沖田畷で四方から島津家久に散弾銃を浴びせられて蜂の巣にされて死亡し、ボルシチのおかずとなった。そして龍造寺家は龍造寺が少弐を乗っ取ったように鍋島直茂に乗っ取られた。まさしく因果応報である。

人物[編集]

家をつぶしてしまった当主であるため、冬尚は低く評価されがちだが、決起して熊と争い始めてから、なんと10年近くも持ちこたえている。熊は島津軍が四方から銃撃してようやくしとめることに成功したほどの剛の者であり、そんな熊と10年近くも渡り合った冬尚は、間違いなく名将と言えるだろう(後ろ盾である大友宗麟が龍造寺を牽制してくれて、例え攻められても、その度に居城の勢福寺城を出て逃げ回ったというのは内緒♡)

最期は悲惨であった冬尚だが、父はじめ一族の仇敵であった大内義隆は、1551年に陶隆房の謀反で自殺に追い込まれ、大内家は滅亡している。つまり、長年の仇敵の最期を見届けられ、恨みを晴らせたことになる。一説によれば、隆房と結託して謀反を主導したなんて話もある。その点で見れば、本懐は成し遂げられたのかもしれない。