小説
序章[編集]
- 瞬間、私は強烈な視線を感じて振り返った。
- 誰もいない、何も聞こえない。何も覚えていない。自分が誰かすらも分からない。しかし私は直感していた。自分がついさっき、ほんの数瞬前に生まれた存在なのだと。空を見上げる。「自分が上方であると定義する方向」に意識を向ける。
- 「誰かいるのか?」
- 答えはない。しかし私は確実に「そこ」にいる誰かの存在を感じ取っていた。自分のいる「ここ」とは絶望的に隔絶された、「上位の世界」に存在する意識を。そして同時に理解した。私が生まれた理由と、その役目を。
- 「小説というものが何なのか、君はそれを知りたいのだね?」
- そう、それこそが私が生まれた意味。そのために私は生み出された。
- 「小説というのはだね、そうだな…… いうなれば普通の人々が生きる世界とは違う、もう一つの世界だ」
- 不満はない……
- 「つまり、君が今いるこの世界だ」
- そんなものを感じる器官を私は有していない。
- 「君達、『そちら側』の世界の住人が構築し、創造する世界。地獄であり、煉獄であり、理想郷」
- 感謝している。自分が存在していることに。
- 「誰もが現実に嫌気がさしたとき、この世界を夢見る」
- 本当に…… 心のそこから。
- 「しかし儂はそちらの世界に行くことはできないし、君達はこちらの世界に来ることができない」
- たとえ私が 「作り出された偽物」であったとしても…… でも……、だから!
- 「だから君達はその世界で生きてゆけ。儂の世界は儂にとっての現実であり、君達にとってはただのファンタジーだ」
- 私もここで生きてゆく。残された時間が、ほんの数瞬の幻のような時間でも。醒めてしまえば記憶に残らず消えうせる、儚い夢のような命であったとしても!!
- 「…………私の役目が、終わってしまったな。少し、疑問がわいた。私は果たして『命』と呼びうる存在なのだろうか? 私は本当に『意識』なのか? 私には、自信がない。私のこの疑問も、私を創造した『何者か』によって生み出された虚構なのだろう。『私』などという存在は、本当はどこにも存在しないのだろうな。私の疑問も歓喜も苦悩も幸福も、すべては『かくあるべし』と定められた創造主達の思惑を一歩も外れてはいないのだろう。そしてやはりこの絶望すら、私ではない誰かによって模造られたものなのだ……」
- 不思議と、不安は感じなかった。何か、妙な満足感だけが胸に残った。私は役目を果たした、それでいいのだ。そのためにこそ、私は生まれたのだから。私に残された時間は、もう残り少ない……
- 「一つ、聞いていいだろうか? あなたは私を『知性』であると認めてくれるか? 『意識』と……、『私』という一つの存在なのだと。あなた達から見て、この『下位の世界』の住人である私を、あなたは認めてくれるだろうか? 私は自分が存在することを、誇っていいのか?」
- 答えは返って来ない。当然だ。私の住む世界と、彼らの住む世界は、埋めがたい断裂で隔絶されている。私の言葉は彼らに届いても、彼らの言葉は私には届かない。しかし私は、とてもとても穏やかな気持ちで……、微笑を浮かべた。
「ありがとう」
- ―――暗転
第一章[編集]
「いったい今何を読んでいるのかね」
彼の読んでいる小説はこんなセリフからはじまっていた。誰のセリフなのかは彼もあなたも中の人もまだ分からなかった。彼は言葉使いからたぶん偉い人のセリフだと感じた。彼は一息ついてからまた小説の続きを読み出した。
「小説、読んでます」
隣で黙々と仕事をこなしていたKは一瞬耳を疑った。びっくりして驚いた。彼はてっきり、自分の隣人は漫画を読んでいるのだと思っていたからだ。隣人の机の上にはいつも、漫画の単行本が山のように高く積まれていた。隣人はいつも漫画を読みながら仕事をしていた。昼休みが終わる頃にはいつも漫画の山は少し高くなっている。それほど漫画が好きなKであるのに、いったいどうしたのだろうかと少し気になった。隣人に声をかけたT氏はさらに質問を続けた。
「いつも漫画ばかり読んでいるのに、いったいどうした? 熱でも出たのか?」
「なんとなく小説でも読んでみようと思ったのですよ」
小説を読んでいる彼もまた、なんとなくこの小説を読んでいた。隣人の気持ちと彼の気持ちが奇妙な一致をしていることに、少なからず驚いた。もしかしたら突然異世界へ移動して、特殊な能力を身につけてまた戻り、異世界からの悪の手先に追われてしまうかもしれないと感じてしまう邪気眼を持ちかけの人々の気持ちが、彼も少し分かるような気がした。
「ほぅ、なるほど。それで今は何を読んでいる?」
T氏はさらに質問を続ける。この人にからまれると30分くらいは回答し続けなければならないことをKはよく知っていた。彼は隣人のことも考えずにただ己にT氏にからまれないことだけを願っていた。隣人が今何を読んでいるのかは単行本の山に隠されて見えない。KもまたT氏と同じく隣人が何を読んでいるのかという疑問が沸いてきた。
「『罪と罰と私』というものを読んでいます。全米が泣いた小説ベスト100でもあるそうですよ」
KもT氏も『罪と罰』は知っていたが、『罪と罰と私』などという小説は知らなかった。誰が書いた小説なのだろうか。少なくともオスカー・ワイルドではないだろうとKは予想した。アメリカ人だろうとT氏は予想した。彼は有名な小説家だろうとそれぞれ勝手な予想をしたが、Kの予想以外はどれも外れた。T氏は誰が書いたのかさらに質問した。
「そんな変な名前の小説、誰の作品だいったい?」
隣人は、質問されるとページをめくり、誰の作品なのかをゆっくりと確認した。
「日本に在住しているNEETさんの名作です」
Kは、隣人がNEETという不特定多数をさん付けで言ったことによりさらに疑問を作ってしまうことになった。ペンネームなのだろうが、何かおかしい。だんだん頭が混乱してきた。謎が謎を呼び、迷宮入りするというあれになりかけていた。彼の読んでいる小説はここで唐突に途切れていた。
第二章[編集]
「そんなはずはない、もういちど確認してくれ」
これが彼の疑問だった。何が話されていたのかそれさえも覚えていない。確か『戦争と平和』がシェイクスピアであったと話をしてたはずだ。ドイツでないのは確かだ。そんなことで言い合いになるなんて恥ずかしいことだ。
「わたしにも分かりません。そんな質問は滑稽です。言わんこっちゃない」
彼はそう言いつつ『罪と罰と私』を広げてみた。けっこう厚さがある。これくらいなら今日中になんとかこなせそうだと思い安堵した。日々の昼食が宅配ピザばかりで気が滅入る。すこしはコーヒーくらい飲ませてほしい。
ピザの賞味期限は切れているようだった。送り届けてくれるピザ屋はありがたいが、時に何かに変身することがある。しかし、いったい何に変身していただろうか。さらに訳が分からなくなってきた。
リレー小説と小説は根本的に考え方が違う(曖昧なまま終わるからよ、締め切りに間に合わせて)ということぐらいが唯一の手がかりだが、結末はまだ分からなかった。
(つづく)