小早川隆景

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「何故こやつが五大老で、俺が五大老じゃ無いんだ!こいつ他所の家臣だぞ!」
小早川隆景 について、山内一豊
「知将(笑)」
小早川隆景 について、石田三成
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小早川 隆景(こばやかわ たかかげ、天文2年(1533年)-慶長2年6月12日1597年7月26日))は毛利元就の三男であり、親父の性格をもっとも色濃く受け継いだ子。毛利両川の片方。戦国時代を代表するサムライであり、サディストでもある。

生涯[編集]

幼少期[編集]

『兵など所詮捨て駒よ!』が口癖の父を持つ隆景は、幼い頃からサディストとしての片鱗を見せ始め、8歳の頃には吉田郡山城の柱と言う柱に笑いながら傷をつけるという奇行を行っていたという。そのこともあってか10歳の頃に小早川家に養子に出されてしまった。

後に元就に「隆景を小早川家に出したのはこのことがあったからか?」という質問をしたが、元就は「隆元~~~~~~!!!わしの隆元ぉぉぉぉぉ~~~~!!! 」と絶叫しかしなかったという記述が吉田郡山城の地下10mに埋まっている。

青年期[編集]

その後なんだかんだあって無事駒の一つとして小早川家を相続した隆景は、父親直伝のスパルタ訓練で小早川軍を立派な水軍に育て上げ、下剋上に貢献した。

隆景が行ったスパルタ訓練の代表例をここに挙げる。

  • 朝のランニングは2時間以内に42.195kmを走らせる。(できなかったら訓練時の弓の的にされる)
  • ヘマをしたら鞭打ち100回、遠泳10kmの後、ろうそくの液をうたせ湯のように浴びされる。
  • ただし、ヘマをしたのが隆景好みの男なら検閲により削除したり、検閲により削除される。
  • 戦の時に期日以内(たいてい1日~3日ぐらい)に指令を達成できない場合は、熱々に熱された鉄板の上に1時間土下座しないと許さない。(つまり手討ち
  • 彼がくれる褒美は大抵SMグッズである。

他にも色々あるが、話すと3日はかかるんでこのぐらいにしておこう。

輝元の教育係になる[編集]

その後、隆景の兄である隆元を亡くした元就は「隆元おおおおおおおおおお!わしの隆元おおおおおおお!」と発狂しながら長寿を全うし、隆景は後継者の輝元の教育係となった。しかし、ここで隆景の悪い性癖がでてしまい、躾と称して大規模な24時間耐久検閲により削除をしてしまう。この事件?の後輝元はあああああああああ!としか喋れなくなった。後の毛利家衰退の一因は彼にもある。武将としては一流でも、教育者としては三流の謗りを免れないだろう。

壮年・晩年期[編集]

1582年、本能寺にて織田信長明智光秀に討たれると、毛利家は秀吉と和睦し、みすみす取り逃がした。なんでかというと、まず毛利家では隆景が大内仕込みのドS調教で、ちょっとでも怪しい素振りを見せた家臣の家を取り潰したり、追放したり、厳しすぎる上に陰険な処置を取っていた。だがそこまでしていたにも関わらず織田家に押されまくり、最終的に秀吉から「毛利家の家臣の寝返りリスト見せたげる^^」と余裕の対応をされてしまった。つまりスターリンの如く厳しい処置をしていたにも関わらず大量の寝返り者を出したという事実に、毛利家では疑心暗鬼に陥り、組織だった行動は不可能になっていたのである。こうして毛利軍は退却していく秀吉軍を指をくわえて見ていた。この事実は毛利家家臣の日記によって伝えられているため、軍記ものの記述と違って100%間違いない。

だが隆景の本領はここからである。彼は毛利家全てに対し、この事態を糊塗する捏造情報を後世に伝えるよう命じたのだ。このため、「吉川は追撃しようとしたが隆景は反対し、輝元も隆景に賛成した」だの、「追撃しなかったことで豊臣秀吉から信頼され五大老に任命された」だのといった捏造情報が一般的に知られるようになっている。戦争には負けたが後世の情報戦では勝利したと言えよう。とはいえこれは豊臣政権が倒れてくれたから、という面が大きいのだが。

その帰りに偶然彼好みの男を見つけお持ち帰りした。居城で検閲により削除をし、そのまま養子にした。この養子こそ関ヶ原の合戦のキーパーソンでありトリックスターである小早川秀秋である。隆景は跡継ぎとして、輝元に施した以上のスパルタ教育を行い、精神が疲弊した秀秋は気違いと化して朝鮮出兵で大量虐殺を行ったり、関ヶ原の合戦で不審な挙動を見せた末土壇場で裏切った末に21歳の若さで発狂死している。

後に豊臣政権下で五大老に任命されたが、大した活躍は無い。というのも朝鮮行きになったため、活躍する場所がなかったためである。

慶長2年(1597年)6月12日に死去。享年65。死因は検閲により削除といわれる。

彼の死後、上杉景勝が六人目の大老になり、五大老は6人になってしまった。五大老(という名前)を有名無実の存在にした主犯として、他の五大老から非難されている。

人物・逸話[編集]

  • 少年時代に兄の元春と5on5で雪合戦をした際、3人を捨て駒にし敵を油断させたところで残りの二人が側面から攻め勝利を収めるという父の性格を忠実に受け継いでいる逸話がある。
  • 黒田官兵衛とはSM友達で、知り合った後は毎日のようにバキューン!!をしたという。この事もあってか豊臣秀吉から「この世に変人と呼べるのは黒田如水か小早川の隆景よ」と評した。
  • このように変人だったが、彼が毛利家の重鎮だった事は事実であり、彼の死後毛利元就毛利敬親憑依するまで毛利家は衰退の一途を辿っていった。
  • 朝鮮出兵で兵糧が不足した際、石田三成が後退を主張したのに対し、隆景は「米がないなら砂を食って戦えばいい!」などと、まるで大日本帝国陸軍のようなKY発言をし、三成に白い目で見られている。
  • プロ野球の有名な人材派遣会社に子孫が居たが、これだけ優秀な成績を残したにもかかわらず未だに監督になれないのは、ご先祖様というよりチーム状況がいけないようだ。
  • 安国寺恵瓊という、口が達者なインコを手懐けていたことで知られている。ちなみにこのインコは飼い主である隆景が死んだ後鳥かごから解放されて雄飛し、輝元を煽動、教唆して関ヶ原の合戦の大将に祭り上げ、自らも関ヶ原に参戦したが南宮山でピーピー喚いていただけで戦局になんら寄与することなく、戦後は毛利一族に見捨てられて徳川に引き渡され、「鳴き声がやかましい上にウザイ」という理由で石田三成などと一緒に処刑された。


関連項目[編集]