小早川秀秋
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき、天正10年(1582年) - 慶長7年10月18日(1602年12月1日))は、日本の歴史を変えた偉人の一人。広島の元四番バッターではない。本来ならば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らと共に四英傑とでも呼ばれるべき名将なのだが、早世した上に信長以上に人格に欠陥がありすぎたため人気は薄い。
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[編集] 人物
明晰な頭脳と鋭い洞察力を併せ持ち、武勇も抜群と、まさに名将と呼ぶに相応しい英傑だったが、しかし一人間としては、同じく我が強いことで知られる石田三成や福島正則が舌を巻くほどの傲岸不遜で謙虚さの欠片も無く、その上精神の発達に異常をきたしているのではないかと思われるほど残酷極まりない鬼畜野郎であった。「漁夫の利を狙う」「他者を踏み台にしてのし上がる」を信条としており、道義、仁徳なども無論まったく弁えなかったため人望も少なく、ゆえに古今彼を尊敬する人はゼロに近い。
また、同じ残酷な性格でも美形の織田信長などと異なり、成熟期を過ぎて腐り始めたナスのような奇怪な形相をしており、視線もどこか虚ろでやる気がなく、(本人がそう思ってなくとも)馬鹿にした目つきで見下しているような印象を与えるため、大抵の人は彼を一目見ただけで不快感を覚える。本来なら「名将」であるにも関わらず、同時代を生きた武将達から認められず、時代小説家や戦国オタク達によって蛇蝎の如く嫌われ、「愚将」「ボンクラ」にカテゴライズされてしまう、ある意味可哀想な人でもある。
[編集] 家族
[編集] 父・木下家定
実直なだけが取り得の凡人木下家定を父に持ち、そんな父親を内心馬鹿にしていたようである。しかし家定が中途半端に賢い男であった場合、豊臣秀次のように粛清されていた可能性もある。後年、家定は秀秋に「父のように己の分を弁える事も一人前の武将に必要な事」と秀秋に説いている。無論単なる負け惜しみであり、秀秋は馬耳東風でこの話を聞き流していた。
[編集] 母親
秀秋自身がこのような性格であったため、母親の愛情もあまり降り注がれる事がなかった。そのせいか秀秋は女性不信に陥る。「女子など所詮押し倒して検閲により削除するだけの存在」と、前田利家夫婦の前で抜け抜けと言ってのけたと言う逸話は有名である。
[編集] 兄弟達
長兄、木下勝俊は嫡男でありながら歌手としての夢を捨てきれず、父と何度も喧嘩して家出する事も日常茶飯事、挙句の果てには関ヶ原の合戦後領土を安堵されながらも、領内にコンサート会場を建てると言い出して弟利房と喧嘩を起こし、木下家が改易される遠因を作っている。秀秋はこのわがままでいつまでも中二病の兄を反面教師として育った。生まれながらに才知に恵まれていた秀秋だが、父が凡人であり、兄勝俊がこのようなDQNであったため人を敬う心を知らずに育ってしまった。
その次兄の利房は秀秋より才能は劣るもゴマすりだけは得意で世渡り上手だったため、一度は改易されながらも最終的には大名にまで復帰している。現存する肖像画を見ると顔つきが極めてドラえもんの骨川スネ夫に似ており、スネ夫のモデルになった可能性が高い。
三兄木下延俊は兄弟の中で一番地味であり、根暗オタクで独り言も多かった。ライトノベル作家だったそうだが、あえなくコケた。
この通り、秀秋の兄達はいずれも兄として敬うほどの魅力を感じない連中ばかりであったため、秀秋は眼中にもとめていなかった。兄を呼ぶ時も、「兄上」などとは呼ばずに「貴様」もしくは「愚兄」呼ばわりしていた。
[編集] 彗星の如く短く輝かしい生涯
幼い頃からその英知を豊臣秀吉に見出され、若干8歳にして領地を与えられる。しかし彼に嫉妬した豊臣の諸将に「コネで領地を貰った」「優遇されるのは秀吉が遊女に産ませた隠し子だからだ」などと陰口を叩かれた。これらの陰口は、ただでさえひねくれていた秀秋の人格をさらに捻じ曲げてしまう原因となった。また、領地を貰った際に、石田三成が真っ向から「8歳の童に領土与えるは無謀」と意見したのに対し、秀秋本人が「バーロー」と反駁している。この頃から三成との対立は始まっていた。
年をとるにつれてその不遜さにますます磨きがかかるようになり、実子豊臣秀頼が生まれた事もあってやがて秀吉からも疎んじられるようになる。そして人格更生のために人徳の備わった名将小早川隆景の元に養子に送られる。
隆景の下で秀秋はまず「朝昼晩の挨拶をする」「助けてもらったらお礼を言う」「海老の天麩羅を尻尾まで食べるのは下品」など、根本的なマナーを一から学びなおす事になったが、秀秋はまるでやる気がなかった。隆景は温厚で思慮深いといわれる反面、甥の毛利輝元に徹底したスパルタ教育を施す鬼の一面を持っていたが、「太閤殿下の甥を粗略に扱うのは忍びない」として、こうした秀秋の態度に対して体罰一つ与える事はなかった。さらに、毛利家の外交僧安国寺恵瓊が秀秋が太閤殿下の甥にして養子であると言う関係を後に利用し、秀秋との人脈を存分に深めるべくやたらと彼に媚を売って持て囃し、ますます秀秋を増長させることになる。無論、秀秋は恵瓊の魂胆などとうに見抜いていたことは言うまでもない。
朝鮮出兵における慶長の役では自ら先陣に立って活躍したが、その戦いぶりが見るに耐えないほど残酷なものであり、武辺者の福島正則が閉口したほどである。この頃の秀秋はタミフルを常用していたのではないかと言われている。しかし、抜群の武功を挙げた事は確かであり、何らかの加増やら恩賞が確実にもらえると秀秋は自負していた。
しかし、目付の石田三成は「一群を率いる将として行いが軽率」「非道な振る舞い多く、軍の士気を低下させる」「他の諸将との協調性がまるで無い」と、マイナスの点ばかりを指摘して秀吉に言上、同時に秀秋を糾弾した。話を聞いた秀秋は粗探しじゃねえかと激怒して三成の使者をその場で手討ちにかけてしまった。これが三成の逆鱗に触れ、秀秋は筑前筑後の領土を召し上げられた越前に飛ばされた上蟄居処分に下された。なれない北国の越前に突然追いやられてしまった秀秋は高熱を出して寝込んでしまい、三成に対する憎悪を膨らませてゆく。
ちなみに、三成が秀秋を糾弾した時、秀秋と同じく三成に敵意を抱いていた豊臣家の諸将らは、一切秀秋を庇いたてしなかった。原因は秀秋の朝鮮での野蛮な戦いぶりが全国に(やや誇張されて)知れ渡っていた事と、他の諸将らも三成同様この若者を苦々しく思っていたことである。
秀秋は秀吉の死の前より徳川家康と誼を通じていたといわれるがそれは講談などで伝わる誤りであり、実際は越前の館に一人篭って三成に対する呪詛を唱え続けていたと言う。
関ヶ原の戦いにおいては、どこから集めてきたのか知らないが15000もの軍勢を引きつれ石田三成率いる西軍として参加。犬猿の仲である三成の側に参戦したのは、西軍有利と判断したからとも、隙を衝いて三成の寝首を掻こうとしたからだとも、花びらを千切りながらどちらにつくか決めたとも言われている。
西軍に参加して大阪城入りを試みたが、西軍総大将毛利輝元が「叔父上(小早川隆景)は俺には厳しくしたのにあいつは甘やかしたから嫌い、入れるな」と秀秋を通さなかったために激昂した秀秋が東軍への内応を決心したとの異説もある。
秀秋は伏見城攻めに参加し、慶長の役と同様に自ら先陣に立って太刀を振るい獅子奮迅の活躍をしたと言われる。ちなみに、伏見城を落とした後は城内の捕虜となった女性たちに対し股間の太刀を思う存分振るったとも言われるが、不謹慎すぎるので割愛する。またこの折、伏見城を守って見事玉砕した鳥居元忠らの首級で秀秋は蹴鞠やお手玉の玉にして遊び、その様子を見た赤座直保が嘔吐したとの逸話が残っている。
その後、関ヶ原本戦では松尾山に陣取りひたすら両軍の戦いを観戦していた。変動する趨勢に戸惑い、どちらに味方するか迷っていたとも伝わるが、実際は漁夫の利を得るべく高みの見物をしていたのは言うまでも無い。しかし高みの見物をしている途中に酒の飲みすぎで吐き気を催して呂律が回らなくなり(秀秋は下戸だか意地っ張りなので酒が飲める振りをしていた)、石田三成の使者などに対しての思わず「日本語でおk」と思わせる意味不明な言動ばかりであったため、側近の平岡頼勝、稲葉正成は主君の通訳を務めるのに苦心した。
返答も最終的に東軍に寝返った理由は諸説ある。中でも有力なのが、今関ヶ原にいる家康は実は世良田次郎三郎と言う影武者のタヌキで、本物は江戸城に息子の徳川秀忠と共に兵力を温存している、ついでにhydeの身長は156cmであると言う虚報を聞いて、西軍に勝ち目が無いと判断して東軍についたというものである。酔い潰れて焦点も定まらなくなった所に家康の使者がキャベジンをちらつかせて秀秋を釣ったとも言う。
尚、合戦中、若干東軍が不利になったので必死になりなりふり構わない態度で凄んで来た徳川の伝令将校奥平貞治に対して、秀秋はたかだか伝令の癖に偉そうな口を利くなと激怒して無礼討ちにしてしまった。家康の伝令を勝手に討ち果たしてしまってはまずいので、秀秋は後に奥平は大谷吉継との戦闘中に討ち死にしたと適当に捏造した。
戦後、講談では秀秋は家康の前に出ると竦み上がってしまい、福島正則から「雉の前に鶏が出た」などと揶揄されたと言われる。しかし、実際は本陣で居眠りしていて家康の前に姿を現さなかった。
その後は脇坂安治ら他の裏切り四将と共に石田三成の居城佐和山城を攻め落とす。この時家康から忠臣鳥居らの首級で蹴鞠をしたことを咎められる。この時秀秋は既に酔いのため顔が蒼ざめてまともに会話できる状態でもなかったが、「別にいいじゃん、済んだ事だし」と開き直った。あまりに単刀直入で何の婉曲も交えないその堂々たる態度に家康はかえって感心してしまい、関ヶ原での戦功も含めてまあしょうがないよねと許した。戦後、秀秋はその功績に報い宇喜多秀家の旧領備前岡山を得た。秀秋は岡山城を大幅に改築して領内の検地、寺社の復興などに努めた。イカレた性格の彼でも流石は太閤秀吉に認められた武将、やることはきちんとやったのである。しかし領民に慕われるほど善良な君主だったかどうかは…お察し下さい。
秀秋は関が原の合戦より2年後、突然死去。この時側近の稲葉正成は「金吾中納言は一身上の都合により身罷りました」と不自然な発表をしてしまい、世間からその死が怪しまれる事になる。ちなみにその稲葉は後に徳川幕府の重臣となり、稲葉家は譜代大名として存続している。ぁゃιぃ。
秀秋には嫡男がいなかったため、小早川家は改易となった。事実上、江戸時代最初の改易である。関ヶ原における勝利の原因を作った大名、初めて改易された大名として秀秋は後世にその輝かしい名を残すことになる。名将(迷将?)小早川秀秋、享年21歳。
後世、彼は女性として小早川瑞穂の名前で転生。しかし前世での裏切り行為の報いによるものかヒロインの座を若林鮎に奪われてしまう。
[編集] 謎に包まれた死因
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