小早川秀秋

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Danger
WARNING!!
この項目を一通りお読みになると、本来あった価値観を下げる可能性があります。
そのようなことを無くしたい場合には、この項目を改ざんさせるか、
それが面倒ならば思い切って白紙化・削除しちゃって下さい。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「小早川秀秋」の項目を執筆しています。
裏切りとかマジ引くわー」
小早川秀秋 について、徳川家康
「ほんとほんと」
小早川秀秋 について、脇坂安治
「とんでもない奴だな、まったく」
小早川秀秋 について、吉川広家

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき、天正10年(1582年) - 慶長7年10月18日(1602年12月1日))は、日本の歴史を変えた鍋奉行の一人。広島の元四番バッターではない。本来ならば織田信雄豊臣秀次徳川秀忠らと共に四英傑と呼ばれるべき人物だが、人格に欠陥がありすぎたため人気は薄い。

同時代人からは「無能秀秋」「近江の恥」「三国一の裏切り者」「秀吉の威光だけのボンクラ」「血も繋がってない癖に豊臣気取り」など数多くの異名で恐れられた。

偉大な人物像[編集]

漁夫の利を狙う」「他者を踏み台にしてのし上がる」を信条としている利己主義者であり、道義、仁徳、倫理などまったく弁えなかったサイコパスのため人望も皆無で、その最期すら「なんかよく知らんけど死んだらしいよ」とそれぞれ歴史家が適当に記すほどに惜しまれなかった。故に古今彼を尊敬する人はゼロに近いという稀有な漢である。風貌も美形の織田信長などと異なり、成熟期を過ぎて腐り始めたナスのような奇怪な形相をしていて(肖像画を参照)、視線もどこか虚ろで生気がなく、この世の全てを嘲っている様な不快な印象を与えるため、大抵の人は彼を一目見ただけで嫌悪感を覚える。

こうした様々な要素から本来なら「名将」であるにも関わらず、同時代を生きた武将達はおろか後世の歴史家・歴史学者達からも相手にされず、果ては現代の歴史小説家や歴史オタクからは蛇蝎の如く嫌われている。

華麗なる一族[編集]

父・木下家定[編集]

戦国時代屈指の凡将・木下家定の末子として生まれる。父は特にこれといった能力も容姿も家柄もないという本来なら乱世で真っ先に死にそうなモブ属性でありながら、妹の寧々が秀吉に嫁いだおかげで出世したという男であった。幼少期の秀秋はそんな不甲斐ない父を見下し、「信長に俺はなる!」と口走る反抗期真っ盛りの痛い子として父を困らせていた。それなら家を出て一人で立身を目指せば良いのだが、初めての領地はやっぱり父と同じく縁故で秀吉から与えられている所を見るに基本的に口先だけのヘタレ気質であったようである。

父の家定は自身の無能力を自覚している謙虚な男であり、だからこそ似た境遇の豊臣秀次のように秀吉に粛清されることもなかった。後年、家定は反抗期の秀秋に「己の分を弁える事も一人前の武将に必要な事」と諭している。そんな平凡だが優しい父の言葉も生粋のサイコパスである秀秋の心には通じず、負け組の言い訳と馬耳東風で説教を聞き流していた。

母・朝日姫[編集]

秀秋自身がこのような検閲により削除な性格であったため、母の朝日殿からも愛されなかった。幼少期に母親から愛されなかった人間の性癖は歪むものであるが、そのせいか秀秋も極度の女性不信・女性蔑視の傾向を持つようになった。「女子など所詮押し倒して検閲により削除するだけの存在」と、あの前田利家夫婦の前で抜け抜けと言ってのけたと言う逸話は有名である。またやはり変態性癖の一環か女装癖もあったらしく、歴史書の中には「寧々の姪」と男の娘であった事を克明に記録している資料もある。

兄弟達(勝俊・利房・延俊)[編集]

長兄、木下勝俊は嫡男でありながら歌手としての夢を捨てきれず、父と何度も喧嘩して家出する事も日常茶飯事、挙句の果てには関ヶ原の合戦後領土を安堵されながらも、領内にコンサート会場を建てると言い出して弟利房と喧嘩を起こし、木下家が改易される遠因を作っている。秀秋はこのわがままでいつまでも中二病の兄を反面教師として育った。生まれながらに才知に恵まれていた秀秋だが、父が凡人であり、兄勝俊がこのようなDQNであったため人を敬う心を知らずに育ってしまった。

その次兄の利房は秀秋より才能は劣るもゴマすりだけは得意で世渡り上手だったため、一度は改易されながらも最終的には大名にまで復帰している。現存する肖像画を見ると顔つきが極めてドラえもん骨川スネ夫に似ており、スネ夫のモデルになった可能性が高い。

三兄木下延俊は兄弟の中で一番地味であり、根暗オタクで独り言も多かった。ライトノベル作家だったそうだが、あえなくコケた。

この通り、秀秋の兄達は父と並んでいずれも敬うほどの魅力を感じない連中ばかりと自分を棚に上げて考えていた為、眼中にもとめていなかった。兄を呼ぶ時も、「兄上」などとは呼ばずに「貴様」もしくは「愚兄」呼ばわりしていた。

叔母夫婦(秀吉・寧々)[編集]

木下家の家運を支えるのは寧々とその旦那の秀吉という強力なコネであった。特に秀秋はラッキーな事に跡継ぎの生まれない叔母夫婦の猶子に納まり、天下すらも相続できるかもしれないという地位を手にしていた。だが血縁者である叔母からは嫌われおり、母と同じく愛情を注がれなかった。実は面食いの叔母は兄から「美少年の男の娘」と聞かされて猶子話を即決しており、その秀秋が実際に会ってみるとイケメンどころかヘチマの出来損ないのようなブサメンであった事に「騙された」と怒りを覚えていたのである。

一方、サルだかネズミだかという醜男であった外叔父の秀吉からは同情され、「こんな不細工をワシら以外の誰が大事にするんだ」と妻を諭している。8歳の時にはお年玉として10万石を貰うなどそれなりに可愛がられ、秀秋も「金さえあれば何でも買える」「愛でも買える」と豪語する成金の叔父に憧れていた。しかししっと団と化した豊臣の諸将からは「コネで領地を貰ったお坊ちゃん」「本当は秀吉が遊女に産ませた隠し子で家定に預けていた」などと陰口を叩かれ、これらの陰口はただでさえひねくれていた秀秋の人格をさらに捻じ曲げてしまう原因となった。

秀秋と叔母叔父夫婦との仲を決定的に裂いたのは秀吉に晩年の子豊臣秀頼が生まれたことである。念願の我が子を得た秀吉は秀秋をさっさと追い出すべく毛利一門へ養子に出してしまい、秀秋は人間社会に残っていた僅かな愛着すら失う事になった。

彗星の如く儚い生涯[編集]

関ヶ原での秀秋軍の雄姿

小早川家当主へ[編集]

各方面から見捨てられた検閲により削除を押し付けられた毛利家では人徳の備わった名将小早川隆景が養父となり、更生と社会復帰を目指すことになるが、最早秀秋のメンタルは修復不可能なレベルに歪んでしまっていた。

隆景の下で秀秋はまず「朝昼晩の挨拶をする」「助けてもらったらお礼を言う」「海老の天麩羅を尻尾まで食べるのは下品」など、根本的なマナーを一から学びなおす事になったが、秀秋はまるでやる気がなかった。隆景は温厚で思慮深いといわれる反面、甥の毛利輝元に徹底したスパルタ教育を施す鬼の一面を持っていたが、「太閤殿下の甥を粗略に扱うのはさすがに忍びない」として、こうした秀秋の態度に対して体罰一つ与える事はなかった。また毛利家の外交僧安国寺恵瓊が秀秋が太閤殿下の甥にして養子であると言う関係を利用し、秀吉との人脈を存分に深めるべくやたらと秀秋に媚を売って持て囃し、ますます秀秋を増長させることになる。無論、秀秋は恵瓊の魂胆などとうに見抜いていたことは言うまでもない。

朝鮮出兵[編集]

朝鮮出兵における慶長の役では自ら先陣に立って活躍したが、その戦いぶりが見るに耐えないほど残酷で非道なものであり、武辺者として数々の武勇伝を持つ福島正則が閉口したほどである。この頃の秀秋はタミフルを常用していたのではないかと言われている。しかし武功を挙げた事は事実なのだからと恩賞を期待してたが、目付の石田三成からは「一群を率いる将として行いが軽率」「非道な振る舞い多く、軍の士気を低下させる」「他の諸将との協調性がまるで無い」と酷評し、秀吉に言上した。カッとなった秀秋は激怒して三成の使者をその場で手討ちにかけて余計に立場を悪くしてしまい、秀吉からはゴミを見るような視線で秀秋に帰国を命じた。

帰国後に旧領の召し上げを命じられるが、これは三成との口論や朝鮮出兵からは相当の時間が経っている為に特に関係はなく、単に能力から見て手に余ると判断されたようである。ちなみに三成が秀秋を糾弾した時、秀秋と同じく三成に敵意を抱いていた豊臣家の諸将らは、一切秀秋を庇いたてしなかった。要するに嫌われ者だったわけである。さらに言うなら朝鮮出兵の武功話自体、秀秋の軍監であった黒田孝高の残した資料には一切残っておらず、そもそも武功自体が秀秋の誇大妄想と被害妄想から生まれた法螺話であったのかもしれない。

ともかく新たにクソ寒い北国の越前に領地替えとなった秀秋は「自分を馬鹿にする豊臣諸侯なんか皆死ねばいいのに」と呻き続けた。秀吉の死の前より徳川家康と誼を通じていたといわれるが、そんなクレバーな逸話は講談などで伝わる創作であり、実際は越前の館に一人篭って三成に対する呪詛を唱え続けていた。いよいよ家臣団が秀秋へのロボトミー手術の手続きを進める方向で固まりつつあった中、関が原の戦いが起きる。

関ヶ原の戦い[編集]

関ヶ原の戦いにおいては、どこから集めてきたのか知らないが15000もの軍勢を引きつれ石田三成率いる西軍として参加。犬猿の仲である三成の側に参戦したのは、西軍有利と判断したからとも、隙を衝いて三成の寝首を掻こうとしたからだとも、花びらを千切りながらどちらにつくか決めたとも言われている。

秀秋は伏見城攻めに参加し、慶長の役と同様に自ら先陣に立って太刀を振るい獅子奮迅の活躍をしたと言われる。ちなみに、伏見城を落とした後は城内の捕虜となった女性たちに対し股間の茄子の古漬けを思う存分振るった、いや相手は美小姓達であったとも言われるが、不謹慎すぎるので割愛する。またこの折、伏見城を守って見事玉砕した鳥居元忠らの首級で秀秋は蹴鞠やお手玉の玉にして遊び、その様子を見た赤座直保が嘔吐したとの逸話が残っている。

その後、関ヶ原本戦では松尾山に陣取りひたすら両軍の戦いを観戦していた。変動する趨勢に戸惑い、どちらに味方するか迷っていたとも伝わるが、実際は漁夫の利を得るべく高みの見物をしていたのは言うまでも無い。しかし高みの見物をしている途中に酒の飲みすぎで吐き気を催して呂律が回らなくなり(秀秋は下戸だか意地っ張りなので酒が飲める振りをしていた)、石田三成の使者などに対しての思わず「日本語でおk」と思わせる意味不明な言動ばかりであったため、側近の平岡頼勝稲葉正成は主君の通訳を務めるのに苦心した。

返答も最終的に東軍に寝返った理由は諸説ある。中でも有力なのが、今関ヶ原にいる家康は実は世良田次郎三郎と言う影武者のタヌキで、本物は江戸城に息子の徳川秀忠と共に兵力を温存している、ついでにhydeの身長は156cmであると言う虚報を聞いて、西軍に勝ち目が無いと判断して東軍についたというものである。酔い潰れて焦点も定まらなくなった所に家康の使者がキャベジンをちらつかせて秀秋を釣ったとも言う。また西軍総大将である毛利輝元が「叔父上は俺には厳しくしたのにあいつは甘やかしたから嫌い、死ね」と秀秋を冷遇した為に激昂した秀秋が東軍への内応を決心したとの異説もある。尚、合戦中、若干東軍が不利になったので必死になりなりふり構わない態度で凄んで来た徳川の伝令将校奥平貞治に対して、秀秋はたかだか伝令の癖に偉そうな口を利くなと激怒して無礼討ちにしてしまった。家康の伝令を勝手に討ち果たしてしまってはまずいので、秀秋は後に奥平は大谷吉継との戦闘中に討ち死にしたと適当に捏造した。

寝返り後はすわ掛かれと1万5000名の大軍にて山を駆け下りたが、「あいつ人間の屑だから裏切るよ」と予測していた大谷吉継の伏兵600名に足止めを食らい、その間に合流した平塚為広の軍勢にボコボコに叩きのめされ、逆に山まで押し返されるというどこかの国の軍隊の如き惨敗ぶりを喫してしまった。しかし脇坂安治ら別の寝返り組の参上でどうにかギリギリで戦線を建て直し、面目を保つ事となった。

その後は脇坂安治ら他の裏切り四将と共に石田三成の居城佐和山城を攻め落とす。この時家康から忠臣鳥居らの首級で蹴鞠をしたことを咎められる。この時秀秋は既に酔いのため顔が蒼ざめてまともに会話できる状態でもなかったが、「別にいいじゃん、済んだ事だし」と開き直った。あまりに単刀直入で何の婉曲も交えないその堂々たる態度に家康はかえって感心してしまい、関ヶ原での戦功も含めてまあしょうがないよねと許した。

ついでに片倉重長を一目見て「ウホッ、いい男!」と発情した彼は、徐に袴の帯をほどきつつ下半身をもろ出しにし
「ところで俺の古漬けを見てくれ。こいつをどう思う?」

と問いかけ重長を追い回した。後年「大坂の陣」で「鬼重長」と呼ばれる重長も当時幼少であったため逃げ回るしかなかったが、秀秋は重長の主君でもあり、カレシでもあった伊達政宗に一喝され、自慢の古漬けはさらに縮みこんでしまった。

岡山藩主時代[編集]

戦後、秀秋はその功績に報い宇喜多秀家の旧領備前岡山を得た。秀秋は岡山城を大幅に改築して領内の検地、寺社の復興などに努めた。イカレた性格の彼でも流石は太閤秀吉に認められた武将、やることはきちんとやったのである。しかし領民に慕われるほど善良な君主だったかどうかは…お察し下さい

秀秋は関が原の合戦より2年後、突然死去。この時側近の稲葉正成は「金吾中納言は一身上の都合により身罷りました」と不自然な発表をしてしまい、世間からその死が怪しまれる事になる。ちなみにその稲葉は後に徳川幕府の重臣となり、稲葉家は譜代大名として存続している。ぁゃιぃ。

秀秋には嫡男がいなかったため、小早川家は改易となった。事実上、江戸時代最初の改易である。関ヶ原における勝利の原因を作った大名、初めて改易された大名として秀秋は後世にその輝かしい名を残すことになる。名将(迷将?)小早川秀秋、享年21歳。

後世、彼は女性として小早川瑞穂の名前で転生。しかし前世での裏切り行為の報いによるものかヒロインの座を若林鮎に奪われてしまう。

謎に包まれた死因[編集]

死因として最も有力な説は、無礼討ちにしようとした農民の返り討ちに遭って、股間を蹴り上げられてショック死したというものである。ちなみに農民も秀秋に両腕を切り落された状態からの捨て身の反撃であり、かなり凄惨な光景である。上記の通り、転生した際も女性として生まれている事から、その農民の恨みの酷さがよくわかる。

関連項目[編集]