小幡虎盛

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小幡 虎盛(おばた とらもり)とは「よく身の程を知れ」という遺言だけが有名な戦国武将。

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人物[編集]

武田信虎、武田信玄親子に仕えた戦国武将である。戦場での活躍甚だしく、信虎からは「足軽を扱うのが上手い」と賛美されたらしいが、裏を返せばそれは「お前は下っ端どもの統率やってれば充分」という評価であり、武勲著しくとも板垣信方甘利虎泰らと同列にはなれなかった。しかし、高い地位に辿りつけなかったことが逆に謙虚な精神を育み、有名な「よく身の程を知れ」という遺言へとつながってゆくのである。

また、この人物こそが大魔王ゾーマを倒した勇者であると諸説ある。

異名[編集]

虎盛は生涯で36度の合戦に参加し、36枚の感状を貰ったという。つまり合戦に出るたびに褒美が貰えるほどの活躍をしたのだが、それでも板垣や甘利、飯富虎昌、そして馬場信春ら四天王と比べると印象が薄い。これについて孫の小幡景憲は「外様だからハブられた」とその根拠を説明している。確かに虎盛は元は遠江の人で父親の代から仕えたのだが、同じく外様で関東出身である鬼美濃こと原虎胤は強烈なインパクトがある。やはり生まれながらにして少々地味だった印象はぬぐえない。

しかし活躍著しかったことに相違はなく、「甲陽武田の鬼虎」という異名で呼ばれた。しかし、虎という異名は、既に飯富虎昌が「甲山の猛虎」という通称で呼ばれており、何より主である武田信玄がライバルの越後の龍と比較して「甲斐の虎」と呼ばれており、さらに武田家臣は信虎の代から仕えているため信虎の一文字である「虎」の名を貰い名前に「虎」がついている家臣が多く、鬼虎と呼ばれても「また虎か」という印象を抱いてしまうことは否めないのであった。

しかし寅さんや、阪神タイガースとはまったく関係がないが、中日ドラコンズの創設者の祖先という苦笑いしかできない家計を持つため、「真反対で苦笑い」という謎の異名も持つ。

遺言[編集]

1561年、川中島の戦いを目前にして、虎盛は病に倒れ帰らぬ人となる。その病床で息子の小幡昌盛に対して残した遺言が「よく身の程を知れ」である。この遺言は小幡虎盛の7割を構成しているといっても過言ではなく、とりあえずこの遺言だけ知っておけば小幡虎盛に関する知識は充分ですと専門家ですら言ってしまうほどである。

この遺言についてはさまざまな解釈があり、川中島の合戦を目前にして病没したことについて、世紀の大合戦に参戦するのにふさわしくない人材だと虎盛が自己判断し、自らの身の程を知って昇天したのではないかと皮肉的に解釈する向きもある。これとは対象的に山本勘助は、既に老人性痴呆症を発症して自分の戦略眼が鈍りに鈍っていることにも気づかず、啄木鳥戦法という上杉側にバレバレの戦法を信玄に提案し、結果武田家を窮地に陥れている。

後世の評価[編集]

小幡虎盛の孫に、創作だらけなのに武田家の一級史料として扱われている甲陽軍艦を著作した小幡景憲がいる。大久保彦左衛門が三河物語でやたらと大久保一族を礼賛したように、景憲もさぞや虎盛を賞賛した記述を盛り込んだことだろう。

…だが、その割には後世の虎盛のイメージはなんとも地味なものである。四天王や板垣・甘利といった黎明期の家臣、鬼美濃にも劣るどころか、下手をすれば秋山信友とかの方がまだ知名度があるのではないかと疑われるほどである。子孫が必死に宣伝しても、地味という先天的な属性は覆せなかったのだろう。