宮本武蔵

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「宮本武蔵、何で遅刻ばかりしているんだ!!」
宮本武蔵 について、磯野波平

宮本 武蔵(みやもとむさし)は、江戸時代初期に日本全国を震撼させた、日本の犯罪史上稀に見るシリアルキラーである。

概要[編集]

宮本武蔵自身が描いた自画像。殺した人数を尋ねたら「お前は今まで食ったパンの数を覚えているのか?」と言われそうな極悪面である。

「俺は強い、俺は無敵」「強くなりたい」が口癖。当時としては180cmと大柄であり、13歳の頃から名のある剣豪や強者をターゲットに搾り残忍な手口を使ってことごとく鏖殺していった。ただ単に卑怯なだけではなく、身体能力もゴリラを凌ぐほどであったとされる。武蔵のストレス解消のために多くの人間がミンチにされ、武蔵自身も殺した人数を忘れてしまったほどである。一流のアサシンでもあり、騙し討ちや裏切りなどありとあらゆる方法で多くの人間を陥れてきた。しかし現代には武蔵の弟子たちによる二次創作吉川英治の創作小説やそれを元にした井上雄彦のファンタジー漫画等の影響で天下無双の剣豪として人気が高い。尚後年、武蔵自身は自らの虐殺をアヤカシ退治だと言い張った。オリンピック憲章である「五輪書」の著者でもある。

本名は玄信(はるのぶ)であるが、実は玄信をひっくり返せば「信玄」になる。信玄といえば武田信玄だが、武田信玄の本名は武田晴信(はるのぶ)であることから、武蔵は実は相当の駄洒落好きであることがわかる。そして号(ペンネーム)は二天であって、「武蔵」というのは「武蔵守」という官位を勝手に(天皇将軍らの許可もなく)自称して名乗っていたことに由来する。官位を自称して名乗ることは当時はよくあることではあったが、江戸時代において、武蔵国には徳川将軍が本拠地とする江戸があることから、いかなる者であっても武蔵守と自称して名乗ることは厳禁で、さらに正規に誰かが武蔵守に任命された事例もなかった。よってこれは、徳川将軍への挑発といえよう。おそらくだが、「剣は武士の魂。よって日本一剣術が強い俺様が、武士の棟梁たる将軍にふさわしいはずなのに!!」という屈折した怒りが、武蔵守を名乗らせた動機かもしれない。

生涯[編集]

出生地[編集]

兵庫県南西部と岡山県津山市の2つの説がある。岡山県説はアンソロジー本「東作誌」が元で、こんな危険な人物の出生地だと知られたくない地元の人に本を封印されたが、近世に入って発掘され後に吉川英治が小説を発表した所、一躍有名になってしまい、現代では生誕の地として観光地となっている。ちなみに津山市はもう1人失恋で頭がおかしくなったシリアルキラーを輩出してるが特に関係は無い。

幼年期[編集]

武蔵の父、新免無二斎黒田如水に仕えていた一流の暗殺者であり、豊臣秀吉の九州征伐にかたくなに抵抗した宇都宮長房鎮房親子ら宇都宮一党を虐殺したことなどで一部では有名であった。

狂気を孕んでいた父無二斎はまだ生まれて間もない武蔵を谷底に突き落としたと言われる。無二斎には生まれたばかりの武蔵の顔があまりにも貧弱に見えた(生まれながらに強面の赤ん坊の方が異常なのだが)ため、獅子は己の子を谷底に突き落とすと言う昔話に沿って、谷底から這い上がってこれれば武蔵も立派な獅子なると計算したからである。

しかし武蔵が谷底から這い上がってくると、今度は武蔵を危険と判断し、何度も突き落とした。そのたびに武蔵は這い上がってきたが、無二斎は容赦をせず、生き延びる為の特訓と称して、ことあるごとにナイフを投げつける、棒切れで殴りかかるなどして武蔵を虐待した(が、すべて超人的なカンで躱された)。無二斎自身、疑心暗鬼に捕らわれており周りの人間は全て敵だという妄念に捕らわれていたのである。やがて無二斎は武蔵を残して失踪する。

青年期[編集]

13歳の時、有馬喜兵衛と言う剣の腕が立つ大道芸人を惨殺した事で一躍世間に知られるようになった。有馬がおちゃらけて「俺は天下無双じゃ~」と声高々に叫びながら大道芸を披露していた事が癇に障ったためである。この時武蔵は刀も使わず素手で有馬に挑みかかると、ふんどしを紙切れのように引き千切り、「有馬、破れたり!」と叫んだ。怒りのあまり顔を真っ赤にした有馬はフルチンで刀を振り回して襲いかかったが、逆に武蔵のワンパンで腹をぶち抜かれ、全身真っ赤になって即死。返り血に染まった武蔵の姿を見て周囲の人間は鬼の子だと恐怖し、村八分にされた武蔵少年はこれ幸いと村を出た。

その後武蔵は放浪の旅を続けながらも、たま~に食い物や金目当てに道行く人を惨殺して金品をふんだくっていた(本人曰く、略奪虐殺武田信玄上杉謙信だってやってただろうがとの弁)。そのため当然凶悪犯として全国に指名手配された。しかし武蔵は巧に追跡の手を躱し、見つかってしまった場合は追っ手を容赦なく返り討ちにしたため捕まる事はなかった。

ある日武蔵は腹が減った為適当に道行く侍に襲い掛かったが、運悪くその侍は宇喜多秀家配下の勇名高いキリシタン武将明石全登であった。空腹も災いしたためか武蔵は一瞬で倒されたが、武蔵に興味を抱いた全登によって主秀家に紹介される。

武蔵が世を震撼させている連続殺人犯だと察した秀家は即座に武蔵を手打ちにかけようとしたが、全登は武蔵を一兵卒として雇ってはどうかと推挙した。秀家は最初は「こんないかれた殺人鬼を家臣に出来るか」と猛反対したが、全登が武蔵に対し「おすわり」と言うと今まで猛獣のように興奮していた武蔵がひょんと大人しくなり、従順になった。全登曰く、キリスト教の教えをもってして武蔵を手なずけたのだと言う。この当時、豊臣秀吉が亡くなり石田三成徳川家康の対立が表面化してすわ戦かと言う緊迫した状況下にあり、宇喜多家自体がこの前年に起こった御家騒動で武断派の家臣が大量に出奔してしまったせいもあって、戦力が欲しかった秀家は試行錯誤の末、ついに武蔵を家臣とすることを決めた。

なおこの頃、ニンジャ太郎やロウニンと知り合い、彼らと同じ釜の飯を食ったりキャベツを微塵切りにしたりして仲良くなった。また明石全登からしつけられたため、武蔵もちょっとは理性的になった。

関ヶ原脱出[編集]

かくして武蔵は秀家配下として関ヶ原の戦いに出陣した。武蔵は東軍相手に野獣の如く襲い掛かっていったが、途中で敵味方が分からなくなり誰彼問わず皆殺しをするようになった。しかし島津義弘の部隊が敵陣中央突破する際に放った鉄砲にモロに当たって重傷を負い、地面に蹲る形で倒れた。弾は急所を貫通しており、普通の人間だったら間違いなく死んでいたが、武蔵は生き延びた

途中、敗れて落ち延びる西軍の兵士や、そいつらをカモに落ち武者狩りを狙う野盗百姓達を次々襲って殺し、その人肉を喰らう事で生きながらえた。そこにがやってきて武蔵ごと死体を喰らおうとしたが、武蔵はその熊を絞め殺してついでに食った。しかし疲れすぎで西に向かうつもりが飛騨の山奥に遭難してしまい、今度は熊をも喰らう夜叉猿が現れた。野生を取り戻した武蔵は奮戦し、重傷を負いながらも夜叉猿を殴り殺しやっぱり焼いて食った。そんなこんなで飛騨の山を脱出し、辛うじて武蔵は京都までたどり着いたが、夜叉猿の肉で食あたりを起こし、猛烈な下痢に苛まれついに行き倒れた。

なお、この関ヶ原の戦場で武蔵はガンなる武器を拾ったが、使い方が分からなかったのでバイブとして使っていた。

沢庵和尚に弟子入り[編集]

行き倒れた武蔵を助けたのは大徳寺の僧侶で、現代でも白飯のお供になっているたくあんを発明した沢庵宗彭であった。沢庵和尚は面白そうだからと言う理由で武蔵の面倒を見た。しかし元は凶悪犯罪者だったせいかすぐに身元が割れ、追っ手を差し向けられた。大徳寺で再会したニンジャ太郎らは武蔵に逃亡を促し、武蔵も「言われなくてもスタコラサッサだぜ」ととんずらしようとしたが、その場にいた沢庵和尚が「いい銃だな、少し借りるぞ」と言って武蔵が持っていたガンを借り、追手相手に落ちながら戦うという素晴らしい技を披露した。この時沢庵和尚の鮮やか過ぎる銃捌きに対し武蔵が思わず放った「うおっ!まぶしっ!」と言う台詞は有名。

感動した武蔵は沢庵和尚にGUN道の修行を乞い、天賦の才能を持つ武蔵は僅か1ヶ月で落ちながら戦うことをマスターし、たまたまこの時地球に攻め込んできたインベーダーを撃退して沢庵和尚を感心させた。

この一件で武蔵が出藍の誉れとも呼ぶべき強さを得たのを見た沢庵和尚は、武蔵に勉強させることでその野生を和らげようとした。沢庵和尚は友人である池田輝政に武蔵の就学を頼み込み、家康から姫路城勤務を任されたばかりの輝政は、これ幸いと「妖怪が出る」という噂で誰もやりたがらなかった書庫の番を武蔵に命じた。当初こそ武蔵は勉強をサボっていたが、次第に書庫に収められていた武侠小説や戦略書を読み漁るようになり、読書の楽しさにのめり込んでいった。中でも武蔵は武蔵坊弁慶源義経の武勇伝にはまり、二人の名をもじり「武蔵義軽」の号を名乗るようになった。それを知った沢庵和尚は安心したが、ここでやめておけばよかったと死ぬまで後悔することとなる。

刑部姫(イメージ)

姫路城には武蔵の書庫番を気に入らない者がいたのだ。それこそ、姫路城天守閣に住み着いた妖怪「刑部姫」であった。書庫を塒にして近寄った相手を片っ端から追い出していた刑部姫は武蔵が居ついたことを倦厭し、圏族である蝙蝠妖狐を差し向けた。しかし長いこと森で暮らしていた武蔵にとっては動く御馳走でしかなく、忽ちバーベキューにされてしまった。逆上した刑部姫は、武蔵が風呂に入ったのを見計らい、着物を隠して天井裏に忍び込み、「御用改めである!! 逆族武蔵義軽、神妙に縄につけい!!」とがなり立てた。武蔵は仰天し、全裸のまま股間洗面器で抑えて飛び出したが外には徳川兵などおらず、刑部姫の手紙で集められた城の若衆や女中が悲鳴を上げるばかりであった。真っ赤になる武蔵を見て、刑部姫は指をさして爆笑していたという。

これを受けて堪忍袋の緒が切れた武蔵は一計を案じ、白装束に身を包んで書庫の中で「最早生き恥堪うること能わず、切腹いたす!!」と叫んで腹を掻っ捌いた。血の海に沈む武蔵を見て、オソルオソル刑部姫は近づいていくが、直後に目をカッと見開いた武蔵は刀を刑部姫の足の甲に突き立てた。実は武蔵は腹に蝙蝠を布で巻き付け、浅く切っただけであった。絶叫する刑部姫に向け、武蔵は情け無用の鉄拳を何十発と叩き込み、更に足から刀を抜いて滅多切りにした挙句、全裸になった刑部姫を窓から投げ捨てた。常人なら確実に死に至るところだが妖怪である刑部姫は生きながらえていたため、武蔵は「おーい!! 全裸痴女がいるぞー!!!」と大声ではやし立てて男たちを呼び、恥ずかしさのあまり刑部姫は井戸に身を投げてしまった。

この後刑部姫は幾度となく屈辱を晴らさんと襲い掛かるもことごとく敗北して返り討ちにされ、遂には頭を床に擦り付け「お願いだから出て行ってください」と泣きながら懇願したが、武蔵は許すことなくボコり倒し、毎度毎度全裸にしては窓から投げ捨てていた。そんなことをしているうちに武蔵は全ての蔵書を読んでしまい、刑部姫をいじめるのも飽きたのでここいらでとどめを刺すかと思っていた矢先のことであった。ある日刑部姫は全裸土下座しながら家宝である「和泉守兼重」「無銘兼重」の大小二本を差し出してきたのだ。一目でその刀の価値を見定めた武蔵は「わかってるじゃないか」とニヤつき、二刀を腰に差し悠々と書庫を去って行った。かくして武蔵は、後々に残る卓越した知略と、比類なき武力の二つを得て、ますます手の付けられない化物に進化してしまったのである。

なお、この後刑部姫は武蔵を連れてきた池田輝政を逆恨みし呪い殺しているが、武蔵にはビビりすぎてその怨念の刃を向けることすらできなかったとされている。

吉岡一門との戦い[編集]

武蔵は生涯を通して様々な強敵と戦い、SATUGAIしていった。まず有名なのは吉岡一門との血で血を洗う決戦である。足利将軍家の剣術指南役だったという吉岡家の当主は吉岡清十郎という人物であり、武蔵は清十郎に決闘を申し込む。当初は武蔵は「清十郎なんて先祖の功績と家柄に胡坐をかいているだけで、真剣勝負なんて弱いに決まってる」とタカをくくってたが、清十郎の素性を調べさせたら本当に剣が強いうえにイケメンでモテモテ、性格も優しい聖人君子であることが発覚。「チッ」と舌打ちして武蔵は策を巡らす。まず武蔵は自分で挑戦状を送っておきながら病気で決闘の時間に遅れると予め言っておく。実際に武蔵が少し遅れて決闘の場所へ駕籠で行き、人が良い吉岡清十郎が「大丈夫?」と籠の中を覗き込んだところを、武蔵が短刀で清十郎を刺して片腕を潰し勝利を収めた。

激怒した清十郎の弟吉岡伝七郎や吉岡道場の者達から武蔵は仇として狙われることになったが、武蔵は伝七郎に正々堂々と決闘を申し込む。そして伝七郎との決闘にも遅れて現れたうえ、伝七郎が木刀を武器にして戦うつもりと知ると、「木刀か刃が隠れている仕込み杖かわからないままでは、良い勝負にならない。戦う前にお互いの武器を交換して調べたうえで戦うべきだ」と主張。伝七郎が応じてお互いの武器を交換するや、武蔵はいきなり木刀を振り回して伝七郎に襲い掛かった。伝七郎は武蔵の刀を抜いて応戦しようとしたが、実は武蔵が伝七郎に渡した刀は子供用のおもちゃの竹光であり、伝七郎はほぼ何も応戦できぬまま武蔵に打ち倒されてしまった。武蔵は伝七郎の首を内臓と一緒に吉岡道場の門前に晒しておいた。悪気があってやったわけではなく、本人は自分相手に奮戦した伝七郎に対する礼儀だと思っていたのだが、吉岡道場のものにとっては惨い仕打ちに他ならず、面子を潰された吉岡道場の門下生たちは揃って狂乱し、武蔵っぽい奴を片っ端から斬り殺してゆくと言う暴挙に出た。

武蔵は面倒くさかったので相手にしなかったが、流石にしつこかったので適当に決闘を申し込み、吉岡一党全員で俺を殺しに掛かって来いと挑発。伝七郎の息子・吉岡又七郎(当時14歳)は怒り狂い、決闘の場として選んだ一乗寺下り松に吉岡一党を集めた。しかし武蔵は「どうせあのクソ武蔵は遅刻してくるだろう」と考えていた吉岡一門の裏をかいて先に一条寺に忍び込み、吉岡一門が全員集合したタイミングを見計らってあらかじめセットしてあった地雷を起爆。これで又七郎含む半数が即死し、丸焦げになった息のあるやつらを適当にモグラたたきにしていった(何人かは息を吹き返して逃げた)。こうして長きに渡る吉岡一門との戦いは終結したが、武蔵を怖れて誰も勝負を挑んでくるものがいなくなったため武蔵は一人づつ殺っとけばよかったと後悔した。

槍の宝蔵院、鎖鎌の宍戸梅軒、杖の夢想権之助を破る[編集]

京で一大勢力を築いた吉岡一門が武蔵一人に滅ぼされたことは、大きな波紋を呼んだ。同じく関西で武士のカルチャースクールとして吉岡と人気を二分していた興福寺宝蔵院(今の奈良県)は、武蔵の台頭を憂い、「奴をこのままのさばらせていいのか」と議論を重ねた。二代目当主宝蔵院胤舜は、腕は確かだが女たらしでDQNで人望がなかった師範代の阿厳を連れ、武蔵に決闘を申し込んだ。吉岡全滅後ヒマしていた武蔵は即座に受諾し、般若坂で待つとした。

翌日、般若坂の麓に着いた胤舜は、獲物の十文字槍を携え阿厳と共に武蔵を呼んだ。すると武蔵は近くにあった縄を切り落とし、直径3mの大岩が唸りをあげて転がってきた。仰天した胤舜は血相を変えて逃げ出すも、阿厳は逃げ遅れて岩の下敷きになった。胤舜の顔を知らなかった武蔵は嬉々として「宝蔵院胤舜、打ち取ったり!」と勝鬨の声を上げる。息も絶え絶えとなった阿厳は「ち、違う…拙僧は、宝蔵院阿…」まで言おうとしたが、そこに十文字槍が飛んできて即死した。顔を真っ青にした胤舜は武蔵に向け、「い、いやあ、ありがたく存じます宮本武蔵殿! この男は拙僧の名を騙り狼藉を働く真っ赤な偽物! 挙句拙僧の花押を書き写し貴殿に果たし状を叩きつけた不貞千万な輩にござる!」と平謝り。薄々胤舜の性根に気づいた武蔵であったが「ならばよし!」とVサインしてその場を立ち去り、これにて宝蔵院との戦いは幕を下ろした。


宝蔵院を破ったことで武蔵の悪名は上がり、やがて武蔵にあこがれた若者たちがしつこく弟子入りをせがむので、「二天一流(圓明流)」を拓いた。そんな武蔵一門に対し、鎖鎌の達人として名高い宍戸梅軒が決闘を挑んできたが、武蔵は鎖鎌の事を草を刈るだと勘違いしていた為、イカれた百姓が自分に勝負を挑もうとしていると思い、そんな奴の相手なんざ弟子で十分だろうと、弟子の中でも一番弱いハナタレ小僧を代役として立て、梅軒との勝負に遣わせた。案の定ハナタレ小僧は梅軒に斬殺された。これは武蔵のせいでもあるのだが、武蔵は「この野郎よくも俺の弟子をやったな」と逆切れし梅軒に勝負を挑み、オンミョウ弾で目潰ししてから膾斬りにした。


宍戸梅軒撃破の報を受け、今度は杖術師範の夢想権之助が果たし状を送り付けてきた。そのころ、武蔵は吉岡一門残党で山賊に落ちぶれた祇園藤次一味に狙われていた。権之助の武名を聞いた武蔵は一計を案じ、「明日そこの松の木の下で決闘しましょう。貴方は得意のを使いなさい、私は小槌で闘います」と返事を書いて送った。「このヤロウ、俺様相手に筆や小槌でどうやって戦うってんだ!!」と憤慨した権之助が場所の下調べに向かったのを望遠鏡で確認した武蔵は、すぐさま権之助が着ていた衣装に似た装束を仕立て、ひそかに用意しておいた立て札に筆で一筆記し、城下町で杖を買った。

翌日、権之助に変装した武蔵は祇園一派を強襲して杖で下っ端を殴り殺し、「やーい、ザーコザーコ、この夢想権之助に勝てるもんか、悔しかったらここまでおいで、アッカンベローン」とお尻ぺんぺんして挑発。激怒した祇園一派が総員で追いかけてくると、杖を投げ捨て予め用意しておいた「夢想権之助 こちら」と書いた立て札を反対向きに小槌で立てつけた。偽権之助=武蔵を追いかけていた祇園藤次は「バカめ! こんな手に乗るか! 野郎ども、立て札の反対方向にむかえ!!」と松の木の下まで向かっていった。それを確認した武蔵は、悠々と宿に帰り飯を食い始めた。

そして1時間後、いつもの服に着替えた武蔵は松の木の下を訪れ、祇園一味全員の屍の中に血みどろになって息を切らしている権之助を指さして爆笑しつつ、「ほーら、私は『筆と木槌だけ』で君に勝ったぞ」と立て札と装束を見せびらかした。これを見て権之助は口から魂が抜けて放心状態になってしまい、勿論武蔵からとどめを刺された。権之助は石頭だったため命は長らえていたのだが、この卑劣極まりない敗北故に、弟子たちに「俺は武蔵に負けていない」と死ぬまで言い続けていたという。


武蔵はその後適当に撫で斬りしたりして暇をもてあましていたが、全国を旅して北九州の豊前国まで来た折、宿敵佐々木小次郎と思わぬ出会いを果たす。

佐々木小次郎との対決[編集]

巌流島での決闘。派手な衣装で小次郎が驚いている。

佐々木小次郎は当時、豊前のホストクラブでホストをやっていたいい男であり、アクションスターとして剣劇映画にも出演していた。そしてその才能を買われ細川家の剣術指南となっていた。

武蔵は一目見て小次郎に不快感を抱いた。これが普通の人間ならただ嫌な奴と思うだけで済むが、武蔵の場合それが即座に殺意に変貌した。武蔵は忍者太郎やロウニンらと小次郎暗殺計画を企てていたが、それを実行に移す前になんと同じ趣旨の計画を豊前小倉藩の殿様細川忠興が持ち出してきた。細川は自分で雇っておきながら小次郎がいけ好かなかったらしく、武蔵達は細川と結託して小次郎暗殺計画を実行に移す。知らないのは小次郎ただ一人であった。

小次郎に武蔵との船島(後の巌流島)での決闘を忠興が提案し、小次郎はまんまとその誘いに乗った。別に決闘場所なら細川家の城やら屋敷やら道場やら寺社やらの庭先などいくらでもあるのだが、あえて離れ小島の無人島の巌流島を選んだのは、第三者の目撃者に決闘の全貌をみられないようにするためである。武蔵は例の通り約束の時刻になっても巌流島に現れず、小次郎は長時間待ちくたびれてストレスが溜まりに溜まって、「もう帰ります。私の不戦勝です」と主張するが、細川は武蔵が遅れてくることは知っているので、「今帰れば、そなたの負けである」と言って取り合わない。すっかり平常心を無くした小次郎は、武蔵がようやく小舟で現れたのをみると、すぐさま抜刀して、鞘を勢いよく地へ投げつけた。武蔵は動じるどころか微笑を浮かべて「小次郎敗れたり!!」と高らかに叫ぶ。武蔵の屁理屈としては、小次郎が鞘を捨てたのは、もはや抜刀した刀を収めるつもりはないと自ら宣言したということで、すなわち小次郎が無意識のうちに敗北宣言したという意味だということだった。即興で、ここまでの屁理屈を思いついた武蔵も相当なもので、小次郎も、まさか鞘を投げただけで、戦う前から敵に言い負かされるという予想外の屈辱に遭い、気勢を挫かれてしまった。加えて武蔵の弟子4人が巨大なをもって動き回って、小次郎の顔に太陽光が当たるように工作した。小次郎が「眩しすぎて武蔵がみえない!!鏡を下げるよう命じてください!」と細川に頼むが、細川は当然却下。結局、小次郎は武蔵に倒されてしまった。

いったんはこと切れたかにみえた小次郎だが、しばらくしたら息を吹き返してしまい、「こんな卑怯な戦いは認められない!日を改めて再戦だ!」と床で横になりながら言い出したので、細川と師の武蔵の意を忖度した優秀な武蔵の弟子らによって、小次郎は口封じされてしまった。そして武蔵の弟子達がこの勝利を大々的に誇張して宣伝した為、武蔵は天下無双の剣豪として日本中にその名を轟かせたのである。

なお、この騙し討ちに忠興と不仲の次男細川興秋は激しく抗議したが、かねてから興秋を疎んじていた忠興はキレて興秋を追放した。

大坂の陣[編集]

1615年の大坂の陣では多くの浪人が豊臣軍に属する中、交流の深い殺人マシン・水野勝成の元東軍として戦い、その凶刃を振るい、猿飛佐助霧隠才蔵三好兄弟真田十勇士を次々殺害。どさくさに紛れて味方であるはずの徳川家の旗本を数百人斬り殺したが、「主を見捨てて逃げ惑う不甲斐ない旗本どもを高揚させるためのやむを得ない行為であった」として罪に問われる事はなかった。同じくこの大坂の陣で味方の旗本を虐殺した伊達政宗が武蔵を庇ったとも言われている。なおこの大坂の陣では武蔵のかつての恩人明石全登細川忠興から勘当された忠興の次男細川興秋が西軍側に属しており、大阪城落城後、武蔵は落ち延びる細川興秋とバッタリ出くわしたが、武蔵は興秋を見逃した。しかし興秋は父忠興から追い詰められて自害した。これに関して武蔵は「酷い父親だな」と、自分のこれまでの虐殺を棚に上げて言った。

なお、落城後に大阪城から落ち延びたものの捕らえられて処刑された豊臣秀頼の遺児国松は、実際には武蔵によって斬殺された可能性があるが、武蔵は「俺がいたいけない子供を殺すわけないだろう、徳川の狸が俺に罪を着せようとしてるんだ」と死ぬまで否定していた。そのやり取りに憤激した直江兼続が武蔵を江戸城で焼き殺そうとしたが、「稲姉さん、オレどうすりゃいい?」と上司に相談して、逆に兼続を惨殺して、難を逃れた。

晩年[編集]

晩年は流石に虐殺にも飽きたのか、囲炉裏にこもって怪しげな著書を書く日々を過ごした。死刑囚が監獄の中で著書を書いてそれが出版されたりする事があるが、ようはそれと同じである。しかしキリスト教徒が暴動を起こした島原の乱では「武蔵ー! 戦行こうぜー!」と誘ってきた勝成の命を受け、養子・宮本伊織の主君たる小笠原忠真に従い出陣。若い頃漂わせていた狂気を取り戻し、キリスト教徒を虐殺した。この時武蔵とその一党は好き勝手な行動をしすぎて隊列を乱し、板倉重昌が戦死する原因を作ってしまったのだが、武蔵はどこ吹く風で俺は知らねーよと適当に流した。結局何にも関係ない外様大名の鍋島勝茂土下座して謝罪する羽目になった。もちろん魔界転生して柳生十兵衛と戦ったりはしていない。

最晩年には暗殺の方法、人を斬る時の心得、クーデターのやり方などを記した五輪書を執筆、後にこれを読んだ由井正雪が慶安事件を起こす切欠となったが、武蔵はそんなことは全く気にしなかった。

なお、これだけ問題を起こしておきながらテロリストの烙印を押されて成敗されなかったのは、武蔵が沢庵を初め本阿弥光悦後水尾天皇烏丸光広などの著名人と深い交流があったため、彼らが庇い立てしたためとも言われている。

芸術家としての武蔵[編集]

斬り殺した敵の死骸などを絵に描いたり、敵の骨から彫刻を作ったりして数々の芸術作品を残した。人にあらざる行為と激しく非難される一方、細川忠興などの気違い仲間からは高く評価された。

人物[編集]

  • 一部伝記では無闇に人を殺す事を嫌い、ガンの弾も痺れ弾や眠り弾しか使っていなかったといわれるが、これは銃で人を殺すのが嫌だっただけであり、銃の攻撃で弱らせたところを容赦なく滅多斬りにした。
  • 刑部姫事件以降、風呂がトラウマになり一生風呂に入らなくなったという。
  • 容赦なく剣を振るい殺戮の限りを尽くす残虐な一面があるかと思えば、明石全登沢庵宗彭に懐いたりと、純情で子供っぽい一面もあった。
  • 太鼓のバチをヒントに、刀を大小二本で戦う二刀流を編み出したことで有名だが、実は決闘では二刀を使わずに、一本の刀で戦うことも多かった。
  • 飛んでいた虫をで捕まえて、日本で初めて昆虫採集を行った。
  • 一振りで青竹をブチ割った事でも知られる通り凄まじい怪力であり、普通の刀や槍を使うと力がありすぎて破壊してしまうので、戦場では敵の武器を分捕って次から次に投げ捨てていた。その投げ捨てた武器でも死人が出ていた。
  • 手裏剣忍者より上手かった。
  • 伊織が山賊に捕まった時、「武蔵さま! 僕ごと斬って下さい!!」と言われたので「え? いいの?」と真顔で返したせいで伊織どころか山賊まで失禁した。その後めんどくさげに、一太刀で山賊を両断したが伊織は皮一枚切れていなかった。
  • 幼い頃の伊織は食事のマナーが悪かったらしく、しょっちゅう飯粒を頬っぺたにつけていたので、見かねた武蔵はある日頬に着いた飯粒をすべて居合で切り飛ばした。傷は全くなかったものの、翌日から伊織は死ぬまで一粒たりとも飯を頬っぺたにつけることなく食ったという。

関連項目[編集]

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