宮本武蔵

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「宮本武蔵、何で遅刻ばかりしているんだ!!」
宮本武蔵 について、磯野波平

宮本 武蔵(みやもとむさし)は、江戸時代初期に日本全国を震撼させた、日本の犯罪史上稀に見るシリアルキラーである。

「俺は強い、俺は無敵」「強くなりたい」が口癖。当時としては180cmと大柄であり、13歳の頃から名のある剣豪や強者をターゲットに搾り残忍な手口を使ってことごとく鏖殺していった。武蔵のストレス解消のために多くの人間がミンチにされ、武蔵自身も殺した人数を忘れてしまったほどである。一流のアサシンでもあり、騙し討ちや裏切りなどありとあらゆる方法で多くの人間を陥れてきた。しかし現代には武蔵の弟子たちによる二次創作吉川英治の創作小説やそれを元にした井上雄彦のファンタジー漫画等の影響で天下無双の剣豪として人気が高い。尚後年、武蔵自身は自らの虐殺をアヤカシ退治だと言い張った。オリンピック憲章である「五輪書」の著者でもある。武蔵国とは無関係である。

宮本武蔵自身が描いた自画像。殺した人数を尋ねたら「お前は今まで食ったパンの数を覚えているのか?」と言われそうな極悪面である。

生涯[編集]

出生地[編集]

兵庫県南西部と岡山県津山市の2つの説がある。岡山県説はアンソロジー本「東作誌」が元で、こんな危険な人物の出生地だと知られたくない地元の人に本を封印されたが、近世に入って発掘され後に吉川英治が小説を発表した所、一躍有名になってしまい、現代では生誕の地として観光地となっている。ちなみに津山市はもう1人失恋で頭がおかしくなったシリアルキラーを輩出してるが特に関係は無い。

幼年期[編集]

武蔵の父、新免無二斎黒田如水に仕えていた一流の暗殺者であり、豊臣秀吉の九州征伐にかたくなに抵抗した宇都宮長房鎮房親子ら宇都宮一党を虐殺したことなどで一部では有名であった。

狂気を孕んでいた父無二斎はまだ生まれて間もない武蔵を谷底に突き落としたと言われる。無二斎には生まれたばかりの武蔵の顔があまりにも貧弱に見えた(生まれながらに強面の赤ん坊の方が異常なのだが)ため、獅子は己の子を谷底に突き落とすと言う昔話に沿って、谷底から這い上がってこれれば武蔵も立派な獅子なると計算したからである。

しかし武蔵が谷底から這い上がってくると、今度は武蔵を危険と判断し、何度も突き落とした。そのたびに武蔵は這い上がってきたが、無二斎は容赦をせず、生き延びる為の特訓と称して武蔵を虐待した。無二斎自身、疑心暗鬼に捕らわれており周りの人間は全て敵だという妄念に捕らわれていたのである。やがて無二斎は武蔵を残して失踪する。

青年期~関ヶ原[編集]

13歳の時、有馬喜兵衛と言う剣の腕が立つ大道芸人を惨殺した事で一躍世間に知られるようになった。有馬がおちゃらけて「俺は天下無双じゃ~」と声高々に叫びながら大道芸を披露していた事が癇に障ったためである。この時武蔵は刀も使わず素手で有馬の腸を抉り、握り潰して殺した。返り血に染まった武蔵の姿を見て周囲の人間は鬼の子だと恐怖した。その後武蔵は放浪の旅を続けながらも、たま~に食い物や金目当てに道行く人を惨殺して金品をふんだくっていた(本人曰く、略奪虐殺武田信玄上杉謙信だってやってただろうがとの弁)。そのため当然凶悪犯として全国に指名手配された。しかし武蔵は巧に追跡の手を躱し、見つかってしまった場合は追っ手を容赦なく返り討ちにしたため捕まる事はなかった。

ある日武蔵は腹が減った為適当に道行く侍に襲い掛かったが、運悪くその侍は宇喜多秀家配下の勇名高いキリシタン武将明石全登であった。空腹も災いしたためか武蔵は一瞬で倒されたが、武蔵に興味を抱いた全登によって主秀家に紹介される。

武蔵が世を震撼させている連続殺人犯だと察した秀家は即座に武蔵を手打ちにかけようとしたが、全登は武蔵を一兵卒として雇ってはどうかと推挙した。秀家は最初はこんないかれた殺人鬼を家臣に出来るかと猛反対したが、全登が武蔵に対し「おすわり」と言うと今まで猛獣のように興奮していた武蔵がひょんと大人しくなり、従順になった。全登曰く、キリスト教の教えをもってして武蔵を手なずけたのだと言う。この当時、豊臣秀吉が亡くなり石田三成徳川家康の対立が表面化してすわ戦かと言う緊迫した状況下にあり、宇喜多家自体がこの前年に起こった御家騒動で武断派の家臣が大量に出奔してしまったせいもあって、戦力が欲しかった秀家は試行錯誤の末、ついに武蔵を家臣とすることを決めた。

なおこの頃、ニンジャ太郎やロウニンと知り合い、彼らと同じ釜の飯を食ったりキャベツを微塵切りにしたりして仲良くなった。また明石全登からしつけられたため、武蔵もちょっとは理性的になった。

かくして武蔵は秀家配下として関ヶ原の戦いに出陣した。武蔵は東軍相手に野獣の如く襲い掛かっていったが、途中で敵味方が分からなくなり誰彼問わず皆殺しをするようになった。しかし島津義弘の部隊が敵陣中央突破する際に放った鉄砲にモロに当たって重傷を負い、地面に蹲る形で倒れた。

弾は急所を貫通しており、普通の人間だったら間違いなく死んでいたが、武蔵は生き延びた。途中、敗れて落ち延びる西軍の兵士達を襲って殺し、その人肉を喰らう事で生きながらえた。そのまま武蔵は京都までたどり着いたが、ついに行き倒れた。なお、この関ヶ原の戦場で武蔵はガンなる武器を拾ったが、使い方が分からなかったのでバイブとして使っていた。

沢庵和尚との出会い[編集]

行き倒れた武蔵を助けたのは大徳寺の僧侶沢庵宗彭であった。沢庵和尚は面白そうだからと言う理由で武蔵の面倒を見た。しかし元は凶悪犯罪者だったせいかすぐに身元が割れ、追っ手を差し向けられた。忍者太郎らは武蔵に逃亡を促し、武蔵も「言われなくてもスタコラサッサだぜ」ととんずらしようとしたが、その場にいた沢庵和尚が「いい銃だな、少し借りるぞ」と言って武蔵が持っていたガンを借り、追手相手に落ちながら戦うという素晴らしい技を披露した。この時沢庵和尚の鮮やか過ぎる銃捌きに対し武蔵が思わず放った「うおっ!まぶしっ!」と言う台詞は有名。

感動した武蔵は沢庵和尚にGUN道の修行を乞い、天賦の才能を持つ武蔵は僅か1ヶ月で落ちながら戦うことをマスターし、たまたまこの時地球に攻め込んできたインベーダーを撃退して沢庵和尚を感心させた。

吉岡一門・宍戸梅軒との戦い[編集]

武蔵は生涯を通して様々な強敵と戦い、SATUGAIしていった。まず有名なのは吉岡一門との血で血を洗う決戦である。事の発端は武蔵が吉岡道場の当主吉岡清十郎を、清ましたイケメンだったから気に入らなかったと言う理由で斬殺したことである。清十郎の弟吉岡伝七郎や吉岡道場の者達から武蔵は仇として狙われることになったが、武蔵は伝七郎をいとも簡単に返り討ちにして、その首を内臓と一緒に吉岡道場の門前に晒しておいた。悪気があってやったわけではなく、本人は自分相手に奮戦した伝七郎に対する礼儀だと思っていたのだが、吉岡道場のものにとっては惨い仕打ちに他ならず、面子を潰された吉岡道場の門下生たちは揃って狂乱し、武蔵っぽい奴を片っ端から斬り殺してゆくと言う暴挙に出た。武蔵は面倒くさかったので相手にしなかったが、流石にしつこかったので適当に決闘を申し込み、吉岡一党全員で俺を殺しに掛かって来いと挑発。決闘の場として選んだ一乗寺下り松に吉岡一党を集めたところをあらかじめセットしてあった地雷で一網打尽にした。こうして長きに渡る吉岡一門との戦いは終結したが、武蔵を怖れて誰も勝負を挑んでくるものがいなくなったため武蔵は一人づつ殺っとけばよかったと後悔した。

そんな武蔵に鎖鎌の達人として名高い宍戸梅軒が決闘を挑んできたが、武蔵は鎖鎌の事を草を刈る鎌だと勘違いしていた為、イカれた百姓が自分に勝負を挑もうとしていると思い、そんな奴の相手なんざ弟子で十分だろうと、弟子の中でも一番弱いハナタレ小僧を代役として立て、梅軒との勝負に遣わせた。案の定ハナタレ小僧は梅軒に斬殺された。これは武蔵のせいでもあるのだが、武蔵はこの野郎よくも俺の弟子をやったなと逆切れし梅軒に勝負を挑み、オンミョウ弾で目潰ししてから膾斬りにした。

武蔵はその後適当に撫で斬りしたりして暇をもてあましていたが、全国を旅して豊後まで来た折、宿敵佐々木小次郎と思わぬ出会いを果たす。

小次郎との決闘[編集]

巌流島での決闘。派手な衣装で小次郎が驚いている。

佐々木小次郎は当時、豊後のホストクラブでホストをやっていたいい男であり、アクションスターとして剣劇映画にも出演していた。そしてその才能を買われ細川家の剣術指南となっていた。

武蔵は一目見て小次郎に不快感を抱いた。これが普通の人間ならただ嫌な奴と思うだけで済むが、武蔵の場合それが即座に殺意に変貌した。武蔵は忍者太郎やロウニンらと小次郎暗殺計画を企てていたが、それを実行に移す前になんと同じ趣旨の計画を豊後の殿様細川忠興が持ち出してきた。忠興は自分で雇っておきながら小次郎がいけ好かなかったらしく、武蔵達は忠興と結託して小次郎暗殺計画を実行に移す。知らないのは小次郎ただ一人であった。

小次郎に武蔵との巌流島での決闘を忠興が提案し、小次郎はまんまとその誘いに乗った。忠興は小次郎を弱らせる為にあらかじめ三日前から小次郎の食事に毒を仕込んでいた。そして巌流島に小次郎が辿りついた瞬間、潜んでいた武蔵の弟子たちが一斉に襲い掛かり小次郎を騙し討ちにした。小次郎は応戦するが毒が回っており思うように剣が振るえずあっけなく討ち取られた。武蔵本人は全てが終わった後にのこのこ巌流島にやってきて「小次郎敗れたり」と一言叫んだだけだったが、武蔵の弟子達がこの勝利を大々的に誇張して宣伝した為、武蔵は天下無双の剣豪として日本中にその名を轟かせた。

なお、この騙し討ちに忠興と不仲の次男細川興秋は激しく抗議したが、かねてから興秋を疎んじていた忠興はキレて興秋を追放した。

大坂の陣[編集]

1615年の大坂の陣では多くの浪人が豊臣軍に属する中、交流の深い水野勝成の元東軍として戦い、その凶刃を振るった。夏の陣ではどさくさに紛れて味方であるはずの徳川家の旗本を数百人斬り殺したが、主を見捨てて逃げ惑う不甲斐ない旗本どもを高揚させるためのやむを得ない行為であったとして罪に問われる事はなかった。同じくこの大坂の陣で味方の旗本を虐殺した伊達政宗が武蔵を庇ったとも言われている。なおこの大坂の陣では武蔵のかつての恩人明石全登細川忠興から勘当された忠興の次男細川興秋が西軍側に属しており、大阪城落城後、武蔵は落ち延びる細川興秋とバッタリ出くわしたが、武蔵は興秋を見逃した。しかし興秋は父忠興から追い詰められて自害した。これに関して武蔵は「酷い父親だな」と、自分のこれまでの虐殺を棚に上げて言った。なお、落城後に大阪城から落ち延びたものの捕らえられて処刑された豊臣秀頼の遺児国松は、実際には武蔵によって斬殺された可能性があるが、武蔵は俺がいたいけない子供を殺すわけないだろう、徳川の狸が俺に罪を着せようとしてるんだと死ぬまで否定していた。そのやり取りに憤激した直江兼続が武蔵を江戸城で焼き殺そうとしたが、「幸村、オレどうすりゃいい?」と上司に相談して、逆に兼続を惨殺して、難を逃れた。

晩年[編集]

晩年は流石に虐殺にも飽きたのか、囲炉裏にこもって怪しげな著書を書く日々を過ごした。死刑囚が監獄の中で著書を書いてそれが出版されたりする事があるが、ようはそれと同じである。しかしキリスト教徒が暴動を起こした島原の乱では小笠原忠真に従い出陣。若い頃漂わせていた狂気を取り戻し、キリスト教徒を虐殺した。この時武蔵とその一党は好き勝手な行動をしすぎて隊列を乱し、板倉重昌が戦死する原因を作ってしまったのだが、武蔵はどこ吹く風で俺は知らねーよと適当に流した。結局何にも関係ない外様大名の鍋島勝茂が土下座して謝罪する羽目になった。もちろん魔界転生して柳生十兵衛と戦ったりはしていない。

最晩年には暗殺の方法、人を斬る時の心得、クーデターのやり方などを記した五輪書を執筆、後にこれを読んだ由井正雪が慶安事件を起こす切欠となったが、武蔵はそんなことは全く気にしなかった。

なお、これだけ問題を起こしておきながらテロリストの烙印を押されて成敗されなかったのは、武蔵が沢庵を初め本阿弥光悦後水尾天皇烏丸光広などの著名人と深い交流があったため、彼らが庇い立てしたためとも言われている。

芸術家としての武蔵[編集]

斬り殺した敵の死骸などを絵に描いたり、敵の骨から彫刻を作ったりして数々の芸術作品を残した。人にあらざる行為と激しく非難される一方、細川忠興などの気違い仲間からは高く評価された。

人物[編集]

  • 一部伝記では無闇に人を殺す事を嫌い、ガンの弾も痺れ弾や眠り弾しか使っていなかったといわれるが、これは銃で人を殺すのが嫌だっただけであり、銃の攻撃で弱らせたところに容赦なく滅多斬りにした。
  • 容赦なく剣を振るい殺戮の限りを尽くす残虐な一面があるかと思えば、明石全登沢庵宗彭に懐いたりと、純情で子供っぽい一面もあった。

関連項目[編集]

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