安藤優也

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Alice Liddell.jpg
修正依頼
この項目は、文章が冗長・まとまりを欠く・エッセイ的である・不適当な翻訳など改善の余地があるため、修正・推敲を広く求めています。
修正の要点 : このページのノートまたは履歴をお読み下さい。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「安藤優也」の項目を執筆しています。

安藤優也(あんどう ゆうや、1977年12月27日-)とは、阪神タイガースに所属する、阪神の不動の大エース(笑)である。

別名はエースコック

経歴[編集]

プロ入り[編集]

大分雄城台高校卒業後、法政大学に進学。(この時忍者をいじめて退学させたのは)トヨタ自動車に入社。第71回、72回都市対抗野球大会に出場するなどして、社会人ナンバーワン右腕との声もあり、同年秋のドラフト会議にて阪神タイガースに自由枠で入団。

全盛期[編集]

安藤に成長期はない。2年目の2003年から2008年までが彼の全盛期である。ルーキーイヤーの2002年こそ3勝に終わるが、翌2003年にリリーフに転向。これが功を奏し、51試合で防御率1.62の成績を残す。

2005年から先発に再転向。先発、とはいえ この年に発足したJFKの存在のため、せいぜい5~6イニングで交代である。その影響をモロに受けた下柳剛なんて、規定投球回未到達で最多勝を獲得した。5イニングで降板する時もあれば、7月17日の広島東洋カープ戦で、10イニングを投げたこともあった。東出輝裕に決勝弾を許したけど。また、この頃から中日ドラゴンズ戦に滅法強く、2008年まで8勝1敗だった。下柳とは違って規定投球回に到達し、11勝をあげ、リーグ優勝に貢献した。なお日本シリーズに関してはお察し下さい

2006年も先発でスタート。しかし、急性胃腸炎で一時登録抹消。再登録後にリリーフで数試合に登板、先発へ復帰したものの、時はすでに遅く、首位の中日ドラゴンズに9ゲーム差をつけられていた。8月終了で4勝3敗だったのに、9月10月で6勝無敗で2年連続の10勝をマーク。中日ドラゴンズへの猛追に貢献した。でも虫日には1度も追いつけなかったんだけどね。

9月17日、鬼門での最終戦となった中日戦。山本昌ノーノーを喰らった前日に続き、打線は沈黙。この日も3回まで朝倉健太を相手に無安打。ようやく4回にシーツ先生が2塁打を放つも、6回まで1安打の貧打ぶり。<dr>ただ安藤も、ランナーを出しながら6回まで1安打で踏ん張れていた。7表1死から四球を得たシーツが、顔付近を通過したため、激高。朝倉はひるんで、次の金本知憲に先制2ラン被弾。鬼門の呪縛を解いた。安藤は8回途中まで3安打無失点で7勝目。

とはいえ、この2006年V逸の最大の要因は、フジモンの失態に代表される前日までのナゴヤ戦10連敗。敵地11試合で18点しか奪えぬ一方、66失点を許してしまった。そりゃ勝てねーよ。

10月12日、消化試合&甲子園最終戦&片岡篤史引退試合のドラゴンズ戦。中日は優勝を決め、どうでもよかったのか、マジで安藤にてこずったのか、安藤は7回1失点で最終登板で2年連続の10勝を達成。引退する片岡はプロ最終打席で2塁打。引退試合を村田修一に台無しにされ、試合に出場できなかった矢野とは違って有終の美を飾った。

2007年はエースのだっぺが抜け、福原、下柳とともにローテの中心になるはずだったが、福原とそろって右肩痛で開幕アウト。福原はすぐに復帰したものの、(福原の2007年の成績はお察し下さい)安藤は長期離脱となり、初登板は8月28日のリリーフだった。先発復帰するも、2勝3敗、防御率4.36だった。また、この年から14勝以上で高級腕時計、10勝未満で丸刈りとなる金本賞に挑んだ。

2008年は春季キャンプから順調な調整ぶりを見せ、オープン戦でも好投し、自身初の開幕投手に指名された。シーズン中も好投を見せ、因縁の10.8決戦で敗戦投手になったものの、自己最多の13勝をマーク。また、このころから大量援護にも恵まれていた。でも、高級腕時計には1勝足りなかった。


10月3日の神宮でのヤクルト戦。やはり安藤のときには援護がある。6回裏終了地点で5-0.安藤は6回無失点で降板。しかし、アッチソンJFKで5点差逆転負け。あれ~?勝利の方程式って何だ~?結局、この白星の取り損ねで高級腕時計を逃す。清水直行みたいに「白星返せ!」って言ったらよかったのに。

10月8日の東京ドームにおける、巨人戦。岡田彰布は決戦の先発を安藤に託した。しかし安藤はイスンヨプに2点タイムリーをあびてKO.←いくらシーズン中好調でもこういう時に勝てねぇ奴はエースとは言えんな。打線もあの時に19点も取らなくていいからこういう大事な時に援護してやれや!

衰退期[編集]

2009年真弓新監督に2年連続の開幕投手に指名される。しかし、思うように調子が上がらず、前半戦を何とか6勝6敗で終えたものの、後半戦は2勝6敗。特に、2005年から2008年まで8勝1敗だったカモの中日に攻略され、0勝3敗。7連勝中と相性抜群だった東京ヤクルトスワローズに大事な終盤戦で2敗。結局、高級腕時計どころか10勝未満の8勝に終わり、オフに丸刈りの刑を受ける。5番新井貴浩の絶不調、新害人外人のケビン・メンチ、何もかもが機能しなかった2009年であった。

4月3日、京セラドームにおけるヤクルト戦。開幕戦から打線の援護に恵まれ、7回2失点で5-2と快勝。真弓監督の初陣を白星で飾った。

この後も好投を続ける。が、1試合抑えては1試合打たれては、といった不安定な投球が続き、貯金が増えない。それでも、前半戦は何とか6勝6敗で終えた。

球宴明け初戦の7月28日の甲子園での横浜戦。負けると、自力クライマックスシリーズが消滅する一戦である。それなのに、真弓は不振の鳥谷新井をクリーンアップに戻した。先発は安藤。しかし、内川聖一のタイムリー後、4番村田修一に通算200号の2ランを打たれた。いきなり3点のビハインド。その後は粘って5回3失点(自責1)で降板した。試合は延長10回に関本のサヨナラでなんとか夢をつないだ。

この後も先発ローテを守って、投げ続ける。しかし、6回3失点、5回3失点など、必要最低限の仕事をしている程度である。時折好投するものの、防御率は悪化していくばかりである。8月、9月にカモの中日戦に3試合登板したものの、5回3失点、7回3失点、7回3失点という必要最低限の仕事である。驚異の勝ち運を持つ安藤なら少なくとも2つは勝てる、と思われたものの、相手先発は3試合ともチェン。なんと、援護点は0点,1点,0点だった。 当然中日戦は0勝3敗。実はヤクルト戦にも滅法強く、9月1日の6回1失点で8勝目を挙げると、それがヤクルト戦7連勝であった。

第1回天王山となった9月28日の神宮での東京ヤクルトスワローズ戦。安藤は5回まで無失点も、6回に2失点。敗戦投手となり、ヤクルト戦の連勝は7でストップ。このときは2戦目、3戦目も勝ったために安藤が野次られることはなかったものの、10月4日の甲子園でのヤクルト戦で3回4失点KO.まだ懲りもせず安藤使うか!もう体力の限界なんだから今年はやめろよ!とさんざん野次られたものの、真弓は10.8決戦に先発安藤を指名した。

岩田稔能見篤史の好投で5日、6日の試合に勝利し、夢をつなぐタイガース。そして最後の天王山の神宮2連戦を迎えた。


10月8日、最後の最後で結果を出したい安藤。4回に新井貴浩の失策が絡んだとはいえ、二塁打3本を許し、4回2失点KO。昨年と同じ10.8決戦での4回2失点。そう、あのときと同じ、ここ一番という時に勝てねぇ奴はエースとは呼べないんだって。新聞記者もいい加減安藤をエース呼ばわりするのはやめたらどうなんだ!?絶対に能見がいいって!

さんざん野次られたのもあり、体力の限界も感じ、現役引退を決意。しかし金本知憲は忘れていなかった。「現役引退で逃げようったって、そうはいかないよ安藤君、」と8勝どまりの安藤は丸刈りの刑になった。

丸刈りののち、現役引退の記者会見を開いた。しかし、新たな選手が入団してくる。そう、不安藤優也である。

不安藤優也[編集]

新しく阪神に入団した不安藤優也。年俸は昨年の安藤よりも1000万円低い1億1000万円である。安藤が球界を去ったため、金本賞に挑戦する人がいなくなった。そこで不安藤が代わりに金本賞に挑んだのである。心やさしい金本は高級腕時計のハードルを14勝から13勝に下げてあげた。しかし、10勝未満の罰ゲームは丸刈りからパンチパーマへと悪化した。さらに安藤が巨人戦未勝利だったため、代わりに不安藤が「巨人戦は全部勝つ」という訳のわからん発言までした。「ホントにこの人も安藤と変わらず口だけだね~」と思われたが、オープン戦で好投してしまった。安藤と違うところを見せてほしい、というファンの願いに応えたい、とのことでオープン戦最終戦に臨んだ。3回まで無失点も、4回に4連打を含む7安打6失点と大炎上。最後の最後で結果を出せず不安を残したままシーズンに臨むことになった。

不安藤か能見か。実は能見もオープン戦最終戦で5回5失点、4カード目、6カード目の相手が巨人だったことから、不安藤が開幕投手を務めることとなった。

2010年[編集]

開幕直後[編集]

3月26日、京セラにおける横浜ベイスターズ戦。2回に村田修一のソロ、4回にデブ、ひだまりスレッジのタイムリーでいきなり3点のビハインド。しかし不安藤は安藤と同じ驚異の勝ち運を持っていた。4回裏に味方が5点を取って逆転したのである。5回3失点と、不安な投球内容だったが、ジョージ・マッケンジーに注目してばかりだったので、正直ファンから忘れられていた。

4月2日、ナゴヤドームでの味噌カツ戦。持ち前の勝ち運がいきなり炸裂。3回に吉見一起から5点を先制。援護点だけは、安藤にも負けていなかった。しかし、3回に1点を失うと、4回には連打を浴びてKO.替わった筒井が流れを止められず、5点差を逆転されてしまった。それでも敗戦投手にならなかった、ところが不安藤の腹黒さ、でもある。最終的に1ゲーム差で優勝を逃したってことはこの試合に勝っていれば優勝できてた、ということだ。

4月9日のヤクルト戦では、5回まで1失点も、6回にはアーロン・ガイエルに逆転3ラン。これで2試合連続のKOである。

アニキの記録が止まった4月18日の横浜ベイスターズ戦。それまで打率.150、シーズンを通じても6打点の早川大輔に4打点を喰らう。もういい加減にしてほしい。

4月25日の中日戦。ナゴヤで3タテされて、それを返すように2連勝で迎えた第3戦。それが初回にブランコに3ランを浴びて2回にはドアラにタイムリーを許す始末。2回途中で降板した。

つまり、
4試合連続でKO、翌日に2軍落ち
である。

2軍調整中に、安藤、もうずっと2軍にいてくれ…という手紙が届いたことは黒歴史なので不安藤の前で言ってはならない。

復帰戦[編集]

7月1日、甲子園球場の阪神オタクが憤慨した。なんと、先発は不安藤と発表されたのだ。当時の先発は、久保スタンリッジ下柳フォッサムでまわされていた。久保とスタンリッジしか信用できないのに、まだ使えない奴連れてくるか!と思われたものの、不安藤は7回1失点と結果を出した。

7月8日、甲子園でのヤクルト戦。初回を3人で片付け、その裏に2点を先制。しかし、2回に同点に追いつかれ、4回には四死球、青木のタイムリー、畠山の満塁弾などで一挙7失点。結局、4回9失点で降板した。

ついに中継ぎ降格。この後、神宮で2試合投げて無失点に抑える。すると、真弓監督は信用できるようになったのか、7月20日の広島戦で、同点の延長10回表に不安藤をマウンドに送ったのである。案の定、送りバントのアウト1つで2失点。すぐにベンチへ戻った。さすがにこれは阪神オタクから散々野次られた。直後に鳥谷敬の逆転サヨナラ弾で阪神が勝利したが、不安藤は久保Cと真弓とベンチで正座をしておくべきだったが、サヨナラのホームベースであの背信投球の反省もみられずに堂々と騒いでいた。

この後、中継ぎで登板するたびに久保田智之とともに大ブーイングを喰らう。

7月31日の中日戦で真弓はまた性懲りもなく延長11回に不安藤を起用。11回は抑えたものの、12回に無死満塁の大ピンチ。また背信投球か!(怒)あと1イニングやぞ!もう2軍いってくれや!と散々野次られたものの、無死満塁をしのいだ。ファンの心臓を鍛え上げる、まるでコバマサのようだ。

8月10日の広島戦で、3点ビハインドの7回裏に登板したが、当然のごとく1失点。この後、阪神は追い上げ、1点差で敗れたため、戦犯は実質は不安藤である。ついに翌日のデイリースポーツの7回裏の箇所に、毎度おなじみ不安藤乱調と書かれてしまった。

8月19日浜スタでの横浜ベイスターズ戦。今度は横浜の阪神オタクが憤慨した。中継ぎの不安藤が先発で発表されたのである。初回に犠牲フライで1失点したものの、その後は粘投で6回途中3失点で2勝目を挙げた。味方の援護は10点。うん、素晴らしい援護だ。

8月27日の広島戦。前回の投球のかけらすら見えない、3回途中7失点KO.この日、阪神は球団新記録の22点を挙げて5点差を逆転勝利。ホントにこの人の勝ち運はえげつないものだ。この試合が2010年最終登板であった。すなわち、翌日に2軍落ちである。

その後[編集]

ついに2007年に痛めた右肩を再度怪我してしまった。リハビリに費す毎日。シーズンが終わってから、金本賞の失敗でパンチパーマにするはずだったが…、金本は5厘刈りで許してくれた。契約更改には、5厘刈りで臨んだ。年俸は、3300万ダウンの7700万円。5厘刈りで、記者会見を行った。

すると、不安藤は、
来年は10倍返しをする

と宣言。相変わらず口だけだな~なんて不安藤の前で口走ったら…バキューン!!

2011年[編集]

開幕からリハビリに費やす日々。リハビリ終了後、2軍での初実戦は、1回4失点だった。その後は先発でそれなりに投げる。そしてついに6月12日の西武戦で1軍復帰。さすがに、所沢のお祭り集団から野次られたけどね。ところが、違った意味で期待を裏切らないのが不安藤。2回途中3失点で降板した。それでも、直後の3回表に味方が逆転して不安藤の負けが消えた。援護だけ持っていても、大量失点するんじゃ意味がありません!いい加減にしてください!

そしてその後は1軍どころか2軍でもロクに登板できず。秋季キャンプにも志願参加したが、正直2012年の契約も危なかったところだった。でも、5800万でラストチャンスをもらえたようだ。

2012年[編集]

外部リンク[編集]

'10/04/25 トニ・ブランコ 甲子園中段弾!7号3ランHR

2010年07月31日 阪神×中日 安藤劇場

関連項目[編集]